第17話「軋み」
ボルグは、上がり口の古い石を杖の先で二度打った。返る音を耳で計ってから、こちらとニナを順に見る。
「……検める。娘は俺の後ろだ。金物は腰から離すな」
「上がるんですね」ニナの声に、問いの形はなかった。松明の油を検め、帯を締め直す手が、もう答えている。
決めたのはボルグではなく、たぶん三人同時だった。地図を検めに来て、地図にない音を聞いた。聞かなかったことにして帰る筋は、誰の中にもない。下で鳴った音の出所が上にあるなら、上を見ずに図を締める手はないからだ。俺は俺で、確かめたいことが一つ増えただけだ。
階段は長かった。四層までの階段の倍はある。上がるあいだ、あの太い音は来なかった。来ないことが、来ることより首の後ろに障る。ボルグの杖の音だけが、一定の間合いで石を打っていた。
階段を上がりきると、音の中に出た。五層は柱の層だ。三抱えはある石の柱が、灯りの届く限り並んでいる。天井は高く、床は乾いて、石の中を低い鳴りが絶えず通っていた。耳で聞くというより、奥歯と踵で聞く音だ。五層から塔が鳴る、というボルグの言葉は、比喩でも大袈裟でもなかった。
金物が、みな薄く唸っている。腰の短剣の震えが、鞘の革越しに掌へ伝わってきた。ニナが柄に手を置いて、眉を寄せる。
「歯が浮く感じ、します」
「慣れるな」ボルグが言った。「慣れた頃に、太いのが来る」
柱の間に、先客の灯りが二つあった。よその隊が獣を相手にしている。獣は柱の陰から出入りする長い体で、頭数は二匹。隊は五人、囲みも崩れていない。手は足りているらしく、割って入る幕ではない。ただ、剣の刃が目を引いた。張った付与の照りが、打ち合ううちに端から薄くなっていく。振るうたびに、ではない。石の中を太い鳴りがひとつ通るたび、照りが目に見えて引くのだ。最初は刃全体が均した照りだった。それが根の側から曇り、次に切っ先が曇り、真ん中に細い帯だけ残って、その帯も細っていく。獣が仕舞われる頃には、刃から照りが消えていた。斬れなくなったわけではない。ただの鉄に戻っただけだ。それでも五人の手際は、ただの鉄に戻ることを最初から織り込んでいる。
「もう切れた。張って半刻も保っとらんぞ」
「五層は食いが早いんだ。文句は塔に言え」
隊のやり取りは、荷を分け合う声と同じ調子だった。珍しくもない、いつもの話。それを聞きながら、俺は動けずにいた。初めて、付与が切れるところを見た。切れる瞬間を見たくて単独登録までした人間が、二月かけて最初に見たのは、他人の付与だった。
切れ方は、擦り切れる切れ方ではない。外から舐められて、薄くなって、消える。刃こぼれとも、使い減りとも違う。減らしているのは腕でも獣でもなく、この鳴りだ。世間の付与が数刻で切れるのは、張り方の浅さの話だけではないのかもしれない。塔の中では、張った端から塔が舐めていく。なら俺の刻みも、ここでは早く切れるはずだ。確かめる場所として、これ以上の層はない。
柱の陰で休みを取り、装備を順に検めた。ニナの短剣、靴、革帯。ボルグの杖と靴。俺の鏨の柄。刻みは通っている。照りも引いていない。ただ、指の腹で線をなぞると、縁がほんのひと皮ぶん、丸かった。彫りたての角の立ち方を、この指は覚えている。その角が、鈍い。目では分からない。彫った本人の指でだけ分かる浅さで、確かに削られていた。切れてはいない。だが、無傷でもない。
鏨を出して、線の縁を立て直していく。深さは足さない。丸くなった角へ刃を寝かせ、ひと皮ぶんだけ起こす。彫り直しというより、研ぎに近い手つきだ。短剣、靴、革帯、杖。順に回して、最後に自分の鏨の柄。ひと巡りしても、蝋燭半分の間で終わる仕事だ。休みのたびに入れ直すのは隊にいた頃からの癖で、癖に理由が追いついたのは、これが初めてかもしれない。
「切れそうなんですか」
「いや。まだ保つ。癖だ」
ニナは頷いて、それ以上訊かなかった。ボルグはこちらの手元を見ていた。灰色の目が、鏨の動きを最初から最後まで追う。長く見て、それきり口は開かなかった。
代わりに、休みの終わりに一度だけ言った。
「……ここの鳴りは、まだ舐めとるだけだ」杖の先で、柱の上の暗がりを指す。「六層は齧る。七層は、食う。あんたのそれが上でどうなるかは、俺の口からは言えん」
帰り支度の前に、ボルグの指図で柱の根から鳴り石を剥がした。風の当たらん側の、根の膨らみに付く石で、叩くと澄んだ音が返る。剥がすのは薄刃を根元に差し込んで捻るだけだが、捻る向きを間違えると割れて値が落ちる。ボルグが口で向きを言い、ニナが手で覚え、三つ目からは俺より速くなった。鍛冶と楽師が高く買うのだという。値の張る順、軽い順に荷へ詰めるのはニナの流儀で、いまでは俺の手も同じ順で動く。
荷を負い直した頃、張り直しに下りる例の隊が、休み場の脇を通った。先頭の男の目が、ニナの腰で止まる。鞘から覗く刃の根の照りが、この鳴りの中で引いていない。
「……それ、いつ張った」
「もらい物なので、知りません」
ニナの返事は短かった。男は二度、三度と振り返りながら柱の向こうへ消えていく。振り返る首の数だけ、あの照りが珍しいということなのだろう。俺はむしろ男の腰の剣が見たかった。切れた付与がどんな跡を残すのか、検分を頼める間柄でないのが惜しい。
下りは来た道を戻らず、柱の並びの外周を回った。図に外周の壁の線を足すためだ。ニナの炭が壁沿いに走り、ボルグの杖が角ごとに床を突いて距離を数える。外周の壁は柱と違って肌が粗く、鳴りも心持ち遠い。図の白かった縁が、一歩ごとに線で埋まっていく。埋まっていく紙を横目で見ながら歩くのは、悪くない。
半周ほど回った頃には、鳴りにも足が慣れて、荷の重さのほうが先に来ていた。
その壁で、松明の火が一度、引っかかった。
ニナが灯りを戻す。壁の面に、彫り跡があった。古い。縁の角はとうに丸く、溝の底に細かい塵が固まっている。人の背より高い位置に一筋、長さは腕ほど。彫りの向きが、俺の使うどの向きとも違う。鏨の当て方も、力の抜き方も違う。それでも、これが彫りであることだけは、指を当てるより先に目で分かった。
俺の刻みでは、ない。
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