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第16話「四層」

四層への階段を、ボルグは三段ごとに止まって上がった。杖の先を段の角に掛け、動く右で上がり、動かない左を引き上げる。三段、息、また三段。誰も急かさなかった。急かす理由が、こちらの側にない。

雨の夜の男は、答えを待たずに消えた。七層より上を見たことは、と訊かれて、ない、としか答えようがない。六層までしか知らない。その先を知っているのは、この三人では杖の男だけだ。残ったのは問いの置き方だけで、それが数日経ってもまだ薄く残っている。訊いた側が、答えを要らないという訊き方だった。

ボルグが四層に上がると言い出したのは、その翌る朝だ。ニナの写した層の図を炉端で繰って、これは二年前の頭で描かせた地図だ、と言った。「層は生きとる。二年もありゃ癖が変わる。嘘の地図を残すくらいなら、目で検め直す」。脚の話は誰もしなかった。する代わりに、俺は杖と靴に刻んだ。杖の先へ滑り止め、軸へ折れ止め、靴の底へ減り止め。転ばないようにしただけだ。歩く速さは変わらない。変わらない速さに、こちらの足を合わせればいい。

三層は、朝のうちに抜けた。水場の奥は昼から水が上がる。ボルグの言ったとおりに右の道を取り、岩這いの巣を起こさずに通る。二年前の助言が今日も生きている道を、助言した本人の杖が突きながら行く。図と目を突き合わせるというのは、こういう歩き方のことらしい。

四層は、乾いていた。三層の水音が階段の下へ遠ざかると、代わりに細い風が通りはじめる。回廊は狭く、天井が低い。壁は磨いたように滑らかで、腰の高さに艶のある帯が一本、暗がりの奥へ続いていた。

「縦になれ」ボルグが言った。「四層で横に並ぶな。前をニナ、真ん中が俺、あんたは後ろで、後ろだけ見とれ。それとな、松明は頭より下に持て。上に持つと、影が消える」

「影、ですか」

「壁走りだ。音より先に、影が来る」

層の癖を語るとき、この男の口数は倍になる。壁の艶の帯を杖の先で示して、あれが走り筋だ、と言った。壁走りが何年も同じ高さを走って、石が磨かれた痕だという。獣の道が、床ではなく壁に付いている層。二年前の図には、帯の高さを書き込む欄がなかったはずだ。ボルグは風の通りも読んだ。風上に立つな、匂いで数が寄る。骨が転がっていたら踏むな、それは二層と変わらん。指南は短く、値切りようがない。

最初の一匹は、ボルグの言ったとおりに来た。ニナの松明が壁の艶を舐めた先で、影が一つ、灯りより先に伸びる。低い体、指の長い四肢。ニナが半歩引いた鼻先を、爪の音が抜けていった。壁を蹴って向きを変え、二度目が来る。速い。岩這いの物量とは、別の質だ。ニナは踏み込まなかった。二月前なら、踏み込んで即座に引く型で行っていたはずだ。今は待つ。壁を蹴らせ、跳ばせ、空中で向きの変わらない一瞬に懐へ入る。短剣は一度で仕舞いまで届いた。

「……仕舞いが早いの」ボルグが低く言った。「双角の若いのより早い。娘、二月前は一層で草を摘んどったんだろう」

「摘んでました」ニナが息を整えて答える。「靴が、滑りませんから。待てるんです」

待てる、の中身をボルグは訊き返さなかった。杖の先で、俺の足元を一度だけ突く。それが返事らしい。

数が出たのは、回廊が二股に割れる手前だ。艶の帯が両の壁に増え、影が三つ、灯りの外を回りはじめた。囲む気だ。床でやったことを、壁でやればいい。理屈は一つで、面が立っただけのことだ。ボルグに走り筋の高さを確かめ、艶の帯に沿って、滑りの逆を刻んでいく。硬い壁は鏨が速い。一枚目、二枚目。刻み終える前に、最初の影が帯へ乗った。

乗って、落ちた。走り慣れた足場が、走れない足場に変わっている。壁走りは床で立て直そうとして、そこはニナの間合いだった。二匹目も帯で滑り、三匹目は壁を諦めて床から来て、床には三層で覚えた線がもう引いてある。落ち場に、ニナが先回りしていた。

「落ちる場所、分かりますから」こちらを見ずにニナが言う。「壁は、アルドさんが直してくれてるので」

直したというより、走り筋を一時だけ通行止めにしただけだ。それでも、囲む気だった三つの影は、列になって落ちてきて、列のまま終わった。

ボルグは、二股の壁を長く見ていた。杖の先で艶の帯をなぞり、それから刻みの一枚に触れて、手を止める。

「双角で、四層は二年通った」声が、指南の声と違う低さになる。「壁を走られん四層は、初めて見る。……あんたのそれは、どこまで面が立つ」

「壁が立つなら、天井も面だ」

答えてから、天井に刻んだことはまだないと気づいた。物、人、床、壁。使う場所が増えるたびに、確かめることも増える。増える一方で減らないのだから、単独登録の目論見は、当分終わりそうにない。

奥へ進みながら、壁走りの爪を三対拾った。小刀の柄に使う爪で、艶のいいのは一対で銀貨に届くと、買取の目安までボルグが教える。担ぐのはこちらの仕事だ。軽くて値の付く物から荷に入れる。この順番は、ニナが半年の食いつなぎで固めた順番で、いまでは俺の手も同じ順で動く。図には、艶の帯の高さと、二股の囲み癖が書き足された。ニナの炭が、ボルグの言葉を追いかけて紙の上を走る。二年前の頭と今日の目が、一枚の紙の上で突き合っていく。

五層への階段は、二股の先を右に折れた奥にあった。上がり口の石だけ、色が古い。ボルグの杖が、その手前で止まる。上を検める顔つきから、指南の色が抜けていた。

風が、止んでいた。四層に入ってから絶えず頬にあった細い流れが、階段の口の前だけ、ない。ボルグの背中が言葉より先に止まれと言っていて、ニナの松明が半歩下がる。

先に、音が来た。

石の中を、太い音がひとつ通った。床からでも、壁の奥からでもない。塔ぜんたいが、低く、一度だけ鳴った。梁のきしむ音を、山の大きさにした低さだ。

ニナの足が止まる。松明の火が、風もないのに一度揺れた。音はもう消えている。消えたあとの静けさのほうが、音より長く耳に残った。

ボルグは階段の上を見たまま、動かない。杖を握る手の、指の背が白い。

「……軋みだ」

それだけ言って、また黙る。杖の先が、古い石の上がり口を一度だけ突いた。

「昔は、こんな下じゃ、鳴らんかった」


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