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第15話「外套の男」

「記録の中身は知らないが、刻んだ覚えなら、いくつもある」

雨は男の背中で降り続いている。フードの奥の顔は、竈の残り火が届く手前で止まったままだ。夜分に、の一言も名乗りもない。それでも戸口を塞ぐ立ち方ではなかった。敷居の外に半歩引いて、押し込む気はないと足の位置で言っている。開いた戸から夜気が流れ込み、竈の火が一度だけ明るくなった。土間の温みが、敷居のところで雨と入れ替わっていく。

外套に、旅の埃も塔の土もない。裾に泥はねが一つもなく、靴は土間仕事の造りではなかった。この町の装いではない。かといって、よその町の匂いを連れてもいない。フードは目深いが、隠れ方に切羽の詰まりがない。顔を見せない側にも、見せない順序があるのだろう。装いから読める中身が、仕立てのわりに少ない男だ。

「入るか。雨の中の立ち話は、互いの得にならない」

「ここでいい」

断り方に迷いがなかった。立ち話の側に、困る理由がないらしい。背中の側で、ニナが器を拭く手を止めたのが分かる。卓の上には引きかけの層の図がある。ボルグの口伝えをニナが写し始めたばかりの線だ。客を迎える夜の卓ではない。それでも、客は来た。

ボルグは炉端に座ったまま、灰色の目だけを戸口へ向けている。壁に立てかけた薪割りの棒へ、手の甲が触れる位置だった。

「組合の使いか」

「違う」男は言った。「組合の者でもない」

「なら、どこの目だ」

ボルグの声だ。低く、短い。男はそちらを見もしなかった。答える気のない問いは、聞こえなかったことにする。そういう扱いに慣れた立ち姿をしている。

じゃあ何者だ、と重ねる言い方はいくつもあったが、どれも選ばなかった。この町は、来た理由を訊かれない緩さでできている。名乗らない客には、名乗らないだけの事情があるのだろう。用件さえ分かれば、名前がなくても話は進む。

「三層の通路に、剥がれない刻みが残っている」男の声は、雨音の下を通ってくる。低いが、聞き取りにくくはない。人に聞かせることに慣れた声だ。「組合の帳面には、書く欄がなかったようだな。余白に、単独登録の付与術士の名が添えてある。あんたが刻んだのか」

「俺だ」

隠す筋がない。三層の床に滑り止めの逆を入れて、岩這いの群れを列に変えた。あの刻みなら場所も本数も覚えているし、組合にも報告してある。余白に書き付けられたところも、この目で見た。引っかかるのは、そこだ。組合の者でもない人間が、帳面の余白まで読んでいる。窓口のダグは、帳面を客に向けて開く男ではない。食い違いをひとつ、頭の隅に置いた。

男のフードが、頷きのぶんだけ動いた。それから、問いが来た。

「消せるか」

すぐに、答えが出なかった。切れるか、なら答えられる。切れた例をまだ一つも見ていない、と言うだけだ。保つか、なら答えられる。保たせるために刻んでいる。だが、消せるか。

手順を組み立てようとして、組み立てたことが一度もないことに気づいた。彫った溝を埋めるのか。面ごと削り落とすのか。埋めたところで溝の底は残るし、削れば刻みごと物がなくなるだけだ。刻むのは保たせるための仕事で、錆びないように、欠けないように、転ばないようにと入れてきた。消すための順序は、その中のどこにもない。消えることを、考えて刻んでいない。切れるところを見たくて隣にいる人間に、消し方を訊く客が来る。順序が、逆から来た問いだ。

「知らない」答えは、それしかない。「面ごと削れば消えるだろうが、刻みだけを消す方法は知らない。考えたことがない」

ニナが小さく息を吸った。正直に答えすぎだ、という息の吸い方に聞こえたが、隠すほどの中身でもない。知らないものは知らない。ボルグは口を挟まなかった。挟まないまま、棒の上の手が下りない。目方の重い客だと、あの手が言っている。

男は、しばらく黙った。敷居の外の土を雨が打つ音だけが、間を埋めていく。竈で、燃え残りが小さく爆ぜた。

「……普通の付与に、消し方は要らない」やがて、男は言った。独り言に近い声量で、それでいて、こちらに聞かせる声でもあった。「放っておけば、消える」

それはそうだろう。数刻で切れるものに、消す手間をかける者はいない。俺の刻みは切れるのが遅いから、わざわざ訊きに来た。そういう順序か。遅いだけで、いつかは切れる。切れる瞬間を見るために単独で登録した身だ。訊かれるまでもなく、確かめたいのは俺のほうが先だった。

男は、それきり問いを重ねなかった。消してくれ、とも、消すな、とも言わない。金の話も出なければ、脅しの色もない。ただ訊いて、聞いて、フードの内側で受け取った。用件の形をしていない用件だった。訊くだけ訊いて帰る客に、こちらから足す話もない。それでも、ただの物見でないことは分かる。物見は、雨の夜を選ばない。

腹が減っているようには見えない。傘も持たずに夜の雨に立って、外套の濡れ方だけが浅い。出せるものを頭の中で探して、飯くらいしか出てこなかった。その飯も要らない客だと、立ち姿で分かる。出すもののない客は、この工房では初めてだ。

ニナが卓の端へ寄り、書きかけの図の上に手を置いた。畳むでもなく、裏返すでもなく、ただ線の上を掌で覆う。客の目から遠ざける手つきだ。男の目は、図を追わなかった。

「用は、それだけだ」

男が敷居から身を引く。そのとき、フードの奥の目が一度だけ下を向いた。扉の蝶番の側。歪み止めに一筋入れた、ちょうどその高さだ。探した目の動きではなかった。最初からそこにあると知っている目の動きだ。ニナの視線が男の目の先を追いかけて、扉の縁で止まる。

三層の床の筋のために、雨の夜に人が動く。物好きな話だと思うが、その物好きの目は、灯りの届かない扉の刻みを迷わず拾った。拾い方だけなら、露店のあの老人と同じ手つきだ。そして、値をつけない側の手つきでもある。

雨の中へ、男は半身を戻した。フードの縁から水が落ちる。来た先も、帰る先も置いていかない。ニナは図の上の手を離さない。ボルグの目は、男の足が敷居を跨ぎ直すまで動かなかった。ただ、敷居の外で足だけが止まった。振り向かないまま、雨音と同じ高さの声が来る。

「七層より上を、見たことは」


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