第14話「三人の飯」
竈に火が入ったのは、越して三日目の夕方だった。
三日のあいだ、飯はベルタの店で食っていた。店で食えるのだから急ぐ話ではない、というのが俺の勘定で、うちで炊けるのに店で払うのは勘定が合わない、というのがニナの勘定だ。ボルグは黙っていたが、竈の前を通るたびに火床を覗いていたから、票の行き先は決まっていた。二対一で、竈を直すことになった。
直したのはボルグだ。火床の灰を掻き出させ、煙の抜けを検めさせ、崩れた焚き口の石の積み直しを、座ったまま逐一指図した。石を運んで積むのはこちらの仕事だが、どの石をどの向きで置くかは全部ボルグが決めた。鍛冶の竈は火の道が命だという。亭主の仕事を知る男の手つきが、指の先だけで生きていた。
「よし。火を入れろ」
言われて薪を入れ、火を移す。煙はまっすぐ抜け、火は焚き口で素直に育った。ボルグは炎の色をしばらく見て、頷いた。それから、誰にともなく言った。
「竈が生きとる家は、家だ」
ニナは市場から器を抱えて帰ってきた。木の椀が三つ、匙が三本、それに片手鍋。全部で銅貨七枚。値切りの経過まで含めて、ニナは報告してくる。椀は三つとも縁の欠けた見切り品で、欠けの一番小さいのをボルグの前に、次をを俺の前に置いた。自分のところに、一番欠けたのが行く。並べ方に迷いがなかった。
「欠けてても、入る量は同じですから」
言い訳のように言って、鍋を竈にかけた。
飯は、麦と豆の粥だ。ベルタが屑野菜を回してくれたのと、それから、売り物にならない小さい岩這いの殻。ニナが買取所で係に頼んで、捨てる分を貰ってきたのだ。殻を先に煮出すと、湯が薄く色づいて、磯に似た匂いが立つ。塔の三層で獲れた物が、塔下町の竈で出汁になっている。攻めた先から、飯が来る。
卓は作業台で代用した。刻む道具を端に寄せ、椀を三つ並べる。火の近くにボルグ、その向かいにニナ、俺は端。座る場所は、誰が決めたわけでもなく、三日でそう固まった。
粥は、飯屋のものより薄い。薄いが、湯気は同じ高さまで立つ。
「……出汁、効いてます」ニナが一口すすって、椀の中を覗き込んだ。「岩這い、売るより食べるほうがいいかもしれません」
「小さいのだけにしとけ」ボルグが言う。「大きいのは売れ。飯の贅沢は、稼ぎの後だ」
「分かってます。勘定はしてます」
「なら、いい」
言い合いの形をしているが、言い合いではなかった。勘定の癖のある娘と、勘定で物を言う男は、話が早い。俺は黙って食っていた。口を挟む隙間がないのは、悪いことではない。
一杯目が空いて、ニナが黙って俺の椀を取り、二杯目を盛った。ボルグの椀にも。自分のには、鍋に残った分を軽く。鍋の中の減り方と三人の椀を見比べる目の速さは、もう癖の域に入っている。誰も腹の探り合いをしなくていい卓で、それでもこの娘は数える。数えることが、この娘の安心の形なのだろう。
食いながら、明日の話になった。
「三層は、あと二日で薬草の場所をひと回りします。そのあと、水場の奥をもう少し」
「奥は岩這いの巣が深い。行くなら朝のうちだ。昼から水が上がる」ボルグはそう返してから、思い出したように付け足した。「……それとだ。俺の頭ん中の層の話、紙に落とせんか。口で言うだけだと、俺が忘れた分から消える」
「書き取ります」ニナが即答した。「私、字は書けます。遅いですけど」
「遅くていい。層は逃げん」
言ってから、ボルグは少し黙って、付け足した。
「……双角の十一年で、頭ん中に溜まっとる。ゼムと二人で歩いた道だ。俺ごと消えるのは、あいつに悪い」
ニナは何も言わずに頷いた。訊き返さない頷き方だった。この娘は、省かれた話の扱い方を、この町で正しく覚えている。
俺の明日は、作業台の上にあった。三層の床に引いた線の、引き方の試しだ。深さを三段に変えて、板と石と革に同じ線を入れて、どれがどう保つかを並べて見る。切れる瞬間を見るために一人になって、切れた例がまだ一つもない。ないなら、条件を変えて数を増やすしかない。地道な話だが、確かめ事というのは大体、地道の別名だ。
「アルドさんは、明日は」
「刻みの試しだ。ここでやる」
「じゃあ、お昼は私が届けます。三層の帰りに」
「一人で潜るのか」とボルグ。
「二日だけです。薬草の場所は、もう全部頭に入ってますから。それに」ニナは帯の短剣に手を置いた。「これ、切れませんし」
ボルグが俺を見た。俺は粥を食っていた。切れない、を前提に組まれていく明日の予定を、止める理屈が俺の側にない。切れた例を、まだ一つも見ていないからだ。
届ける、という言い方が出た。通り道だから寄る、ではなく、届ける。この工房が、届け先として娘の頭の中に登録された瞬間だろう。ボルグが椀の縁越しに、ちらとこちらを見た。何も言わなかった。
食い終わって、ボルグが炉端で層の話を始め、ニナが借りてきた古紙の裏に線を引き始めた。三層の水場の形。崩れた左の道。骨の溜まる筋。ボルグの言葉が図になっていくのを、俺は作業台の端から眺めていた。読めない男の頭の中身が、書ける娘の手で紙に降りてくる。二人とも、出会ったときには、片方は三日食っておらず、片方は軒下にいた。その二人が今、俺の知らない仕事を勝手に始めている。拾った物が勝手に増えるのは、勘定として悪くない。
外で、雨がまた降り始めた。梁の下は、今夜も乾いている。竈の残り火が土間を照らして、ボルグの寝床のあたりだけ、床の色が暖かい。ニナは器を洗い、伏せて並べ、明日の朝の分の薪を竈の脇に揃えた。三日でできた家の手順が、それぞれの手の中で回っている。
椀が三つ、伏せて乾いている。それを眺めて、多いな、と思った。三月前、俺の荷物は鏨の包み一つだった。椀は要らなかった。一人の飯に、椀は要らない。塔の口の屋台で立って食えば済むからだ。椀が三つあるということは、明日も三人で食うと決まっているということで、その決まりを、誰も口に出して決めていない。決めていないのに、決まっている。そういうものが、この工房には三日で幾つも増えた。
戸を、叩く音がした。
雨の夜だ。ベルタなら裏から声をかける。組合の使いなら昼に来る。ニナの手が止まり、ボルグの目が戸口へ向いた。俺は立って、歪みの取れた扉を開けた。
外套の男が、立っていた。
見たことのない外套だった。旅の埃も、塔の土もかぶっていない。雨の中を来たはずなのに、濡れ方が浅い。フードの奥の顔は、灯りの届く手前で止まっている。男は名乗らず、挨拶もせず、静かな声で言った。
「塔守組合の記録に、あんたの刻印がある」
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