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第13話「工房」

談判の中身は、住まいだった。

「宿の相部屋が、二人で一晩、銅貨六枚。ひと月で銀貨二枚に近くなります。それだけ払って、荷は置けない、ボルグさんは軒下、集まれるのは飯屋の卓だけ。……計算、合わないと思うんです」

ニナは指を折りながら並べた。数字は全部、頭に入っている。半年、銅貨一枚の重さで暮らした娘の勘定に、俺が足せるものはない。

「空き家を借りましょう。三人で住めば、割れば宿より安い。ボルグさんも軒下じゃなくなる。荷物も置ける。……それに」そこで少し声が落ちた。「毎晩ばらばらになるの、集め直すの、もったいないです」

もったいない、の使い方が、この娘は少し違う。金の話をしていた口で、金でないものを勘定に載せる。載せ方が自然なので、聞いた側も金の話のような顔で頷ける。

「あてはあるのか」

「明日、飯屋のおばさんに訊いてみます。ああいうお店は、町の空き家を知ってますから」

翌朝、ボルグに話すと、大男は椀を持ったまましばらく黙った。断りの筋を探す顔だ。もう見慣れた。探させておくと、やがて息を吐いて、探すのをやめた。

「……家賃は、俺も持つ。層の指南代を、家賃で相殺しろ」

受け取る理屈を、自分で先に作ってきた。この男なりの、頷き方だった。

あては、思ったより近くにあった。

飯屋の女将は、ベルタといった。ニナが空き家の相談を切り出すと、女将は鍋をかき回す手を止めて、しばらく黙り、それから店の裏手を顎で示した。

「うちの裏に、あるよ。亭主の工房だったとこ。鍛冶屋でね。……十年前に、塔で」

それだけ言って、続きは省いた。この町の省き方だ。

「傾いてるし、雨漏りもする。片す気にも、貸す気にもなれなくてね、そのまんまさ。あんたたちが使ってくれるなら——直しながら住むってんなら、月に銅貨十枚でいい」

銅貨十枚。宿代の五分の一もない。安すぎる値には理由があるのが常で、理由は見れば分かるだろうと思いながら、鍋の湯気の向こうの女将に頭を下げた。ニナは深々と下げた。ボルグは黙って、けれど一番長く、頭を下げていた。

案内された工房は、飯屋の裏庭を挟んだ先にあった。石積みの土台に木の躯体。扉は歪んで半分しか開かず、窓は二枚割れて、屋根は北側が波を打っている。中は埃と、饐えた空気と、それでも真ん中に、炉。鍛冶の炉だ。火床は冷え切っているが、造りは生きている。壁際には作業台が残り、天井の梁は太かった。

そして、裏庭に面した壁の外に、見覚えのある軒があった。物置の軒下。潰れた麻袋が一枚。

「……ここ、ボルグさんの」

ニナが声を上げた。ボルグは軒と工房を見比べて、それから短く息を吐いた。

「道理で、追い払われんわけだ」

二年、この男はベルタの敷地の軒下で寝ていて、ベルタは二年、見ないふりで貸していた。女将は何も言わずに店へ戻っていった。この町の省き方だ、と、もう一度思った。

その日のうちに、宿を引き払った。荷は少ない。俺は鏨の包みと藁布団、ニナは風呂敷一つ、ボルグは麻袋一枚。三人分を合わせても荷車が要らない引っ越しで、通りを二往復したら終わった。終わってから、ニナが工房の戸口に立って、中と外を何度も見比べていた。出たり、入ったりする。戸を開けて、閉める。鍵はまだ壊れているのに、閉める。

「どうした」

「……帰る場所を閉める仕草、半年ぶりで。忘れてないか、確かめてました」

確かめる娘だ。何でも確かめる。それはたぶん、正しい暮らし方だった。

直す場所は、数えたら切りがなかった。だから数えず、雨と風と傾ぎの三つに絞った。まず屋根だ。梁に上がって、雨漏りの筋を指でたどる。水の通った跡は、木の色で分かる。その筋に沿って、鏨で線を入れた。水を通さないように。柔い木には深く、と手が覚えている。梁の三本に一筋ずつ。

「家に、刻むのか」

下から、ボルグの声がした。壁に背を預けて、こちらを見上げている。

「物と同じだ。大きいだけで、刻む理屈は変わらない。錆びない、破れない、水を通さない。入れる場所が梁になっただけだ」

「……そうか」

ボルグはそれきり黙った。仕舞う顔だ。この男の中の、確かめる順番の列が、また一つ伸びた。

扉は歪みの根に一筋。閉めると、木が鳴らずに枠へ収まった。割れた窓は板を渡して、板の合わせ目に隙間風を通さない線を一本。床は軋む場所を歩いて探して、鳴く板の裏に短いのを二筋ずつ。竈と炉の周りは、ニナが一日かけて磨き上げた。ボルグは動ける範囲で埃を掃き、動けない範囲の指図をした。指図は的確で、遠慮がなかった。目付け役の座り方が、そのまま家の中に持ち込まれた。

夕方には、雨が来た。試すように降って、本降りになった。梁の下に立って、しばらく天井を見ていたが、水は落ちてこなかった。

「止まってますね」ニナが隣で天井を見上げた。「雨漏り」

「筋を塞いだだけだ」

「……この家、もう雨漏りしないんですよね。ずっと」

ずっと、のところで、ニナは俺の顔を見た。短剣の線と同じ話をしている目だ。俺は梁を見上げた。刻んだ線は、切れるまで見ていればいずれ分かる。今のところ、切れた線を見たことがないというだけの話だ。

「切れたら、また入れる」

「はい」ニナは笑った。「切れたら、ですね」

翌朝、組合に寄ったニナが、掲示板の前で立ち止まった。貼り紙が一枚、増えている。三層水場の消えない刻印について、当組合が経過を観察中である。塔内に細工を残す者は登録の窓へ届け出よ。そういう文面だった。

「アルドさん、これ」ニナが貼り紙を指して、肩を揺らしている。「観察中、ですって。アルドさんの線、組合に観察されてます」

「余白の続きだな」

届け出は済んでいる。余白にだが、書かれてもいる。それ以上、この紙に思うことはなかった。ニナはまだ肩を揺らしていた。何がそんなに可笑しいのかは分からないが、笑っている分には、腹は減っていないということだ。

夜、工房に灯りを一つだけ残して、それぞれの場所へ散った。ニナは壁際の小部屋、ボルグは炉端の土間。炉の名残の暖気が、あの脚には良いらしい。俺は作業台の脇に藁布団を敷いた。

灯りを消す。

目を閉じる間際、床のあたりで、何かが淡く明るんだ。今日入れた線の筋のようにも見えたが、蝋燭の残り火の照り返しだろう。確かめる前に、屋根を打つ雨の音が遠くなって、眠りが先に来た。


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