第12話「記録」
三層通いは、五日続いた。
朝はボルグの助言を聞いてから潜る。岩這いの出る水場、薬草の残る岸、避ける骨の筋。夕方には獲物を買取に出し、飯屋でその日の首尾を話す。ボルグは聞いて、直すべき動きを二つ三つ指摘して、明日のぶんの助言を寄越す。それが日課の形になった。軒下の男は、いつの間にか、隊の目付け役の座り方をしている。
五日のうちに、体の側にも変化があった。ニナの踏み込みは、もう俺が背中に刻まなくても半歩深い。刻んだのは初日の一度きりで、あの線はまだ生きている。生きていることを、俺は毎朝、娘の動きで確かめている。切れる瞬間を見るために一人になったはずが、切れないものを確かめる毎日になっているのは、勘定の合わない話だが、悪い誤算ではなかった。
稼ぎは安定した。安定した先から、消えていった。ニナの革帯は留め具ごと新調し、靴は底から張り替えた。刻んだ古い装備は捨てずに取ってある。買い替えは稼いでからだと言った手前、稼いだら買い替えるのが順序だからだが、袋の銀貨は、それで一枚になった。
六日目の朝、組合は混んでいた。買取の列が戸口まで伸びて、血と土の匂いが人いきれに混ざっている。列の何人かが、こちらを見た。見て、連れの耳に何か言う。二層のはぐれの件は、もう買取所の外まで回っているらしい。視線の中身までは分からないし、確かめる用もない。列の脇を抜けて、登録の窓へ回った。
ダグが手を出した。
「札を出せ。三層の実績、上に通った」
「二の札は二層までだと言っていたな」
「言った」ダグは焼き印の道具を火にかざしながら、こちらを見もしない。「決まりを言うのが俺の仕事だ。実績を書くのも俺の仕事でな。お前さんらの買取の台帳には、五日ぶん、三層の物しか載っとらん。書かんわけにいくか」
木札に、三の数字が焼き足された。ニナの札にも同じものが入る。一から三まで、六日。ダグは帳面の単独欄を開いて、実績の行を書き足した。ほとんど白紙だった頁に、行が並び始めている。上の行との間が、もう空いていない。
ダグの書く字は、几帳面だった。行の頭が揃い、数字の癖がない。十一年、この窓で同じ帳面に同じ形の字を積んできた男の字だ。書き終えて、ダグは頁を繰る手を止めた。
「……そういえばだ。妙な報告が上がっとる」帳面の別の頁を開いて、指で叩く。「二層と三層の床に、消えん刻印が残っとるとな。後から入った隊が見つけて、踏んだら魔物が滑って助かっただの、気味が悪いだの、言ってきよる。付与ってのは数刻で切れるもんだ。五日経って消えん線は、付与の枠に入らん。誰が刻んだか、記録がない」
「それは俺だ」
隠す筋がないので、そのまま言った。ダグの顔が上がる。
「岩這いが群れたんでな。床に、滑りの線を入れた。邪魔になっているなら悪かった」
「……お前さんが」ダグは俺と帳面を見比べた。「なら、届け出ろ。塔に細工を残したなら、組合に記録する決まり——」
言いかけて、止まった。帳面を二度、三度と繰る。指が頁の上を往復して、探している欄が見つからないまま戻ってくる。
「……ない」
「何がだ」
「書く欄が、ない」ダグは帳面を開いたまま、しばらく黙った。「罠の設置は狩人の欄。細工物は工房の欄。付与は、切れるもんだから、そもそも記録せん。消えん刻印なんてもんは、この帳面のどこにも住む場所がない」
ダグは結局、余白に小さく書き付けた。三層水場の刻印、単独登録の付与術士による、と。書きながら、何度か手が止まった。書式のない文を書き慣れていないのだ。十一年、決まった欄に決まった形で書いてきた男が、初めて余白に文を置いている。置き終えて、ダグは自分の書いた行を、しばらく眺めていた。
余白に書かれた行は、帳面の決まりの外にいる。俺の登録と同じだ。単独欄は帳面の最後尾で、刻印の記録は頁の隅で、この組合の紙の上で、俺の仕事はいつも余白に住んでいる。別段、困る話ではない。余白でも、書かれたことに変わりはない。そう思ったが、ダグの眺め方は、そういう顔ではなかった。帳面の側が追いつかないものを初めて書いた、という顔だった。
窓を離れかけたとき、掲示の前で触れ役が声を張った。
「届け出の告知。パーティ暁刃、七層挑戦を申請。期日は十日後」
周りの探索者たちがざわついた。今年もか、という声と、暁刃なら、という声が半々に混ざる。挑戦の届け出は、それ自体が見世物なのだ。素材の値が動き、賭けが立ち、失敗すれば酒場の話の種が増える。七層の名は、この町では祭りと弔いの間の響き方をする。鐘が二度で終わるか、三度まで鳴るかを、誰もが知りたがり、誰もが口には出さない。
「俺のいた隊だ」
ニナに言うと、娘の足が止まった。
「……アルドさんの?」
「六層で装備が保たなかった。俺の付与が途中で切れたせいだ。それで外れた。もう三月も前になる」
ニナは俺を見て、それから、帯の短剣に目を落とした。半年消えない線の入った短剣だ。口が開きかける。でも、と形が動いて、続く言葉を探して、探したまま閉じた。飲み込んだのが分かった。何を飲み込んだのかは、訊かなかった。
「切れたものは切れた。それだけの話だ」
「……はい」
返事までに、一拍あった。
帰り道、ニナは口数が少なかった。歩きながら、時々こちらを見る。見ては、前に戻す。訊きたいことがあるのに訊かない、のではない。訊いていいかどうかを、まだ量っている歩き方だった。暁刃の名も、三月前の話も、俺の側では終わった勘定だが、聞かされた側では今日始まった勘定なのだろう。急かす筋はない。
宿に戻って、袋の中身を卓に空けた。銀貨が一枚と、銅貨が少し。宿代は前払いで、明日の朝までの分しか払っていない。装備を新調した勘定は正しかったと今でも思うが、正しい勘定の後に残る金は、いつも少ない。相部屋の隅と土間で二人。ボルグの飯代。明日からの宿代。数え方を、また変える必要があった。
三層の稼ぎなら、宿代は明日にも立て直せる。金の問題は、金で解ける。ただ、解いても解いても同じ場所に戻ってくる勘定がある。宿は寝る場所で、飯屋は食う場所で、ボルグの軒下は誰の場所でもない。三人が同じ卓に着けるのは、日に一度、飯屋の卓だけだ。その卓も、店が閉まれば割れる。毎晩、割れた先へ三方に散って、朝にまた集まる。集める手間を、毎日払っている。
数えていると、ニナが向かいに座った。膝の上で手を揃えて、こちらが顔を上げるのを待っている。待たれると分かる。この座り方は、頼み事ではなく、談判の座り方だ。
「アルドさん。決めなきゃいけないことが、あります」
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