第7話 旅の治療師
馬を走らせてから、どれほど経っただろう。
リディアは何度も後ろを振り返ったが、追手の姿は見えなかった。
ローデンは馬を飛ばし、他の追手より先に一人で追いついた。だが、父が差し向けた者が彼一人だけだったとは考えにくい。
別の騎士たちが、今も同じ道を追っている可能性がある。
「距離を稼げるうちに進もう。もう少し付き合ってくれ」
リディアが首筋を撫でると、馬は小さく鼻を鳴らした。
ローデンの馬だけあって、長く走っても足取りは乱れていない。それでも無理をさせれば、いずれ動けなくなる。
リディアは速度を落とし、林の中を進んだ。
鞍には、いくつもの荷物が括りつけられている。
食料と水。毛布に雨具、火を起こすための道具。簡単な治療道具や予備の硬貨まで入っていた。
一人で遠くへ旅をするために必要なものが、ひととおり揃っている。
「……ここまで用意していたのか」
ローデンが、普段からこれほど多くの荷物を持ち歩いていたとは思えない。
最初から、リディアが馬を奪って逃げるところまで考えていたのだろう。
そう口にしたわけではない。剣も馬も、リディアが戦って手に入れたものだ。
それでも、ローデンが一度だけ生き延びる機会を与えてくれたことは分かっている。
「無駄にはしない」
誰に聞かせるでもなく呟き、リディアは前を向いた。
◇
日が高くなる頃、道の脇に古びた石標が見えた。
父の領地と隣領を分ける境界だった。
「越えたか」
国を出たわけではない。父が追手を送れなくなったわけでもない。
それでも、生まれてから一度も自分の意思で越えたことのなかった境界だ。
リディアは一度だけ背後を振り返り、すぐ前へ向き直った。
昼を過ぎると、街道の先に町が見えてきた。
このまま人目を避けて進むことも考えたが、馬には休息が必要だった。周辺の道や町についての情報も欲しい。
リディア自身も、昨夜からまともな食事を取っていない。
「今夜だけ休もう」
町へ入る前に、長い髪をまとめ直す。
身につけているのは、侍女が用意してくれた簡素な旅装だ。腰に剣を差しているため、貴族令嬢には見えないだろう。
少なくとも、リディア自身はそう考えていた。
◇
町の中央から少し外れた場所に、馬小屋を備えた宿があった。
中へ入ると、受付にいた男がリディアの姿を上から下まで眺めた。
「一人かい?」
「そうだ。食事と一泊、それから馬を休ませたい」
「全部で銅貨四十枚だ」
「分かった」
リディアが財布へ手を伸ばした時だった。
「ちょっと待って」
背後から女の声がした。
振り返ると、リディアより数歳ほど年上に見える旅装姿の女が立っていた。肩から提げている鞄は、使い込まれている。
「その値段で泊まるの?」
「この町の相場を知らない。高いのか?」
「高いなんてものじゃないわ。食事と馬代を含めても、その半分くらいよ」
リディアは宿の主人を見る。
「随分と違うな」
「今は客が多いんだよ。物の値段だって上がってる」
「一泊分が倍になるほどか?」
「……銅貨二十枚。それなら文句ないだろ」
「最初から、その値段を示してほしかった」
リディアは銅貨二十枚を数え、受付へ置いた。
宿の主人は不満そうな顔で硬貨を受け取る。
旅装の女が、隣でため息をついた。
「どうして最初の値段で払おうとしたのよ」
「相場を知らなかったからだ」
「知らないなら聞けばいいのよ」
「誰に?」
「今みたいに、その辺にいる人に」
「見知らぬ者の言葉を信用してよいのか?」
「宿の主人の言葉は、すぐ信用したじゃない」
反論できなかった。
「……確かに、その通りだ」
「素直なのね」
「誤りを指摘されたなら、認めるべきだろう」
女は少し意外そうにリディアを見る。
「あなた、旅に慣れてないでしょ」
「初めてだ」
「やっぱり。話し方も妙に硬いし、持っているものは高そうだし。そのままだと、どこへ行っても狙われるわよ」
「忠告は覚えておこう」
「それと、お金を人前で全部見せないこと。財布の場所を教えているようなものだから」
「承知した」
リディアが頷くと、女はわずかに目を細めた。
「ねえ。何かから逃げているの?」
リディアの手が腰の剣へ動いた。
女はすぐに両手を上げる。
「どうしてそこで剣に手を掛けるのよ。聞いただけでしょ」
「答えられない」
「分かったわ。なら、もう聞かない」
追及する様子はなかった。
リディアも剣から手を離す。
「助かった。礼を言う」
「私はミア。あなたは?」
一瞬だけ迷う。
本名を名乗るわけにはいかない。
「……リナだ」
「そう。よろしく、リナ」
「ああ。よろしく頼む」
◇
「馬の荷物は、全部部屋へ持っていった方がいいわよ」
受付を離れたところで、ミアが言った。
「馬小屋に置いては駄目なのか?」
「盗まれてから後悔しても遅いわ。馬に必要なものだけ残して、あとは部屋へ運んで」
「なるほど」
「手伝うわよ。あなた一人だと、何度往復するか分からないもの」
「そこまで世話になる理由はない」
「もう宿代で損をするところを見たあとだから、今さらよ」
ミアは返事を待たずに馬小屋へ向かった。
二人で荷物を降ろし、宿の二階へ運ぶ。
部屋は狭かったが、寝台と机があり、扉には内側から掛けられる錠もついていた。
荷物を並べている途中、ミアが一つの革袋を手に取る。
「これは治療道具ね」
「そうらしい。私は使い方までは分からない」
「持っているのに?」
「私が用意したものではない」
ミアはそれ以上聞かず、革袋を開いた。
中身をひととおり確認してから、元通りに閉じる。
「最低限のものは揃ってる。傷を洗う薬と、包帯の代わりになる布くらいは覚えておいた方がいいわよ」
「詳しいのだな」
「治療師だから」
「治療師なのか」
「そう。今のところは、薬と道具を使う治療が中心だけどね」
肩から提げている鞄にも、治療道具が入っているらしい。
「ならば、使い方を教えてほしい」
「構わないけど、その前に薬屋へ行ってもいい? 私も補充したい薬があるの」
「承知した。町のことも知りたい」
「ついでに薬の値段も覚えた方がいいわね。さっきみたいに言われたまま払わないように」
「同じ失敗はしない」
「本当に?」
「努力しよう」
「そこは言い切らないのね」
ミアは苦笑し、部屋の扉を開けた。
◇
薬屋は、宿から歩いて間もない場所にあった。
壁際の棚には、乾燥させた薬草や小さな瓶が並んでいる。屋敷で医師が使っていたものもあったが、リディアには用途までは分からなかった。
ミアは必要な薬を選びながら、一つずつ簡単に説明していく。
「これは傷を洗う薬。こっちは熱を下げる時に使うものね」
「見た目だけでは区別がつかないな」
「だから、勝手に使わない方がいいのよ。薬は多ければ効くものでもないから」
「覚えておこう」
「まずは袋に書いてある印を見ること。そこからね」
二人が話していると、店の扉が乱暴に開いた。
三人の男が入ってくる。
いずれも剣や棍棒を持っているが、騎士には見えない。手入れのされていない武器を、見せつけるように腰から下げていた。
店主の顔が強張る。
「今月分を出せ」
先頭の男が、当然のように手を差し出した。
「今月分なら、五日前にお渡ししました」
「足りねえんだよ。もう一度払え」
「そんな……今月はもう、これ以上は」
男は店主の胸倉を掴んだ。
「俺たちに逆らうってのか?」
「そうではありません。ただ、本当に金が――」
男が店主を殴った。
店主は棚へ背中を打ちつけ、その場へ崩れ落ちる。
「これで思い出したか?」
別の男が笑いながら棚へ腕を振るった。
薬の瓶が床へ落ち、割れる。乾燥させた薬草が散らばった。
「やめなさい!」
ミアが店主のもとへ駆け寄った。
「頭を打ってる。動かないで」
短く告げ、傷の様子を確かめる。
男の一人が、ミアの肩へ手を伸ばした。
「余計なことするな」
「怪我人を治療しているの。邪魔しないで」
「お前には関係ねえだろ」
男がミアを引き離そうとした。
「その手を離せ」
リディアが告げた。
三人の視線が集まる。
「何だ、お前」
「店主へ金を要求し、払えないから殴った。さらに商品まで壊した。間違いないな?」
「だったら何だ?」
「ならば、そなたたちが間違っている」
一瞬の沈黙のあと、男たちが笑った。
「説教するために剣まで下げてんのか?」
「剣を使わずに済むなら、その方がいい」
リディアは先頭の男を見る。
「店主とミアから離れろ。壊した物を弁償し、二度とこの店へ来ないと約束するなら、ここで終わりにしよう」
「小娘が、調子に乗るな!」
男が棍棒を抜いた。
リディアも剣の柄へ手を掛ける。
ここで騒ぎを起こせば、追手に居場所を知られるかもしれない。
それでも、目の前で理不尽に傷つけられている者を見捨てることはできなかった。
「警告はした」
「痛い目を見ろ!」
男が棍棒を振り上げ、リディアへ踏み込む。
その瞬間。
服の下で、紋章が強い熱を持った。




