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第6話 最初の追手

 夜が明けても、リディアは歩き続けていた。


 侍女から教えられた最初の村は、遠くに屋根を認めただけで迂回した。畑の脇を通り、林へ入り、できる限り人目につかない道を選ぶ。


 朝になれば、逃亡は発覚しているはずだ。


「……足が痛いな」


 思わず弱音が漏れた。


 剣の稽古で体力には自信があった。だが、荷物を背負って夜通し歩くことは、短時間の稽古とはまるで違う。


 靴の中では足が擦れ、肩に掛けた荷物も時間がたつほど重くなっていた。


 それでも立ち止まるわけにはいかない。


 追手がどこまで迫っているのかも、どれほど離れれば安全なのかも分からない。今のリディアにできるのは、少しでも遠くへ進むことだけだった。


 日が高くなり始めた頃、小さな川を見つけた。


「ここで少し休もう」


 周囲を確かめる。


 人影はない。馬や荷車の音も聞こえなかった。


 リディアは川辺へしゃがみ、水筒に水を補充した。顔を洗うと、冷たい水が眠気をわずかに追い払ってくれる。


 荷物から硬いパンを取り出し、少しずつかじった。


「本当に硬いな、これは」


 屋敷では、このようなものを朝食にしたことはない。


 それでも文句を言ってはいられなかった。干し肉も少しだけ食べ、残りは包み直す。


 立ち上がろうとした時、遠くからかすかな音が聞こえた。


 リディアの動きが止まる。


 一定の間隔で繰り返される、硬い音。


 それは次第に大きくなっていた。


「馬か」


 街道は遠い。


 それでも馬蹄の音は、迷うことなくこちらへ近づいてくる。


 リディアは荷物を掴み、林へ逃げ込もうとした。


 だが、すでに遅かった。


 木々の間から一頭の馬が姿を現す。


 その背にいたのは、見間違えるはずのない人物だった。


「……ローデン」


 リディアの足が止まる。


 老騎士もこちらを見つけた。馬の速度を落とし、少し距離を空けて止まる。


「見つけましたぞ、お嬢様」


 いつもと変わらない声だった。


 朝の稽古で、何度も自分を呼んだ声。


 だからこそ、リディアは腰の短剣へ手を掛けた。


「私を連れ戻しに来たのか?」


「旦那様より、命じられております」


「そうか」


 分かっていたことだった。


 ローデンは自分の師である前に、父へ忠誠を誓った騎士だ。


「私は戻らない」


「でしょうな」


 ローデンに驚いた様子はなかった。


「ならば、ここを押し通る」


 リディアは短剣を抜いた。


 ローデンはその刃を一瞥すると、馬から降りた。


「その短剣で、私と戦うおつもりですかな?」


「他に武器がない。これで戦うしかないだろう」


「それでは、これまでお教えした剣を試せませんな」


 ローデンは馬の鞍へ手を伸ばした。


 荷物とともに、二本の剣が括りつけられている。一振りはローデン自身のもの。もう一振りを外すと、鞘に収めたままリディアの足元へ投げた。


「受け取りなされ」


 剣が乾いた音を立てて地面を滑る。


「何のつもりだ?」


「短剣しか持たぬ相手を捕らえたところで、腕の自慢にもなりませぬ」


「私は逃亡者で、そなたは追手だろう」


「ええ」


「それでも武器を渡すのか?」


 ローデンは自分の剣を抜いた。


「剣を持ったお嬢様を捕らえられぬようでは、私も随分と衰えたということでしょう」


「……そうか」


 理解できたわけではない。


 だが、拒む理由もなかった。


 リディアは短剣を鞘へ戻し、足元の剣を拾う。鞘を払い、両手で構えた。


 普段使っていた剣よりわずかに重い。


 それでも、何千回と繰り返してきた構えは身体が覚えていた。


 剣の向こうには、何千回と向き合ってきた師がいる。


「よろしい」


 ローデンも剣を構えた。


「では、参りましょうか」


 先に動いたのはリディアだった。


 一気に間合いを詰め、上段から剣を振り下ろす。


 ローデンの剣が受け止めた。


 甲高い金属音が響き、次の瞬間にはリディアの剣が外へ弾かれる。


「っ!」


「力みすぎです」


 横から切っ先が迫る。


 リディアは身を引いた。刃が外套の表面を切り裂く。


「剣だけを見るな。肩を見なされ」


「分かっている!」


「腰もです」


 ローデンの踏み込みに合わせ、リディアは剣を返す。


 だが、簡単に受け流された。


「知っていることと、できることは違いますぞ」


 次の一撃が来る。


 受けるだけで腕が痺れた。


 稽古の時よりも重い。


 これまで一度も、本気のローデンと戦ったことなどなかったのだと理解する。


 剣がぶつかるたびに押し込まれる。リディアは横へ回ろうとしたが、ローデンも位置を変え、逃げ道を塞いだ。


「足が止まっておりますぞ」


「止めたつもりはない!」


「ならば遅い」


 足を払われた。


「くっ!」


 身体が崩れる。


 リディアは地面へ手をつき、その勢いのまま横へ転がった。直後、先ほどまで頭があった場所を剣が通過する。


 背筋が冷たくなった。


 当たっていれば、死んでいた。


 これは稽古ではない。


 リディアはすぐに立ち上がり、剣を構え直す。


「怖いですかな?」


「当然だ」


 呼吸を整え、ローデンを見据える。


 再び剣が迫る。


「怖い時ほど、相手を見なされ」


「今になってまで教えるのか?」


「今できぬことは、次もできませぬ」


 ローデンの剣を受け止める。


「これが最後の稽古というわけか」


「どうでしょうな」


 押し込まれながらも、リディアは踏みとどまった。


「ならば、一本くらい取らせてもらう!」


 正面から打ち合うだけでは勝てない。


 剣が触れ合う直前、リディアは進路を変えた。ローデンの右へ回り込み、続けて低く剣を振るう。


 老騎士が一歩下がった。


 初めて、ローデンを後退させた。


「頼もしくなられましたな」


 まだ余裕がある。


 リディアは息を切らしているのに、ローデンの呼吸はほとんど乱れていなかった。


 純粋な技量では勝てない。


 それでも、負ければ連れ戻される。


 大罪の紋章だと確定した時、自分がどう扱われるかは分からない。次に逃げる機会が与えられる保証もない。


「私は戻らない」


 剣を強く握り直す。


 リディアが踏み込む。


 ローデンも正面から迎えた。


 剣と剣がぶつかり、リディアの剣が弾かれる。それでも足を止めず、さらに一歩前へ出た。


「よい踏み込みです」


「なら、これはどうだ!」


 横薙ぎの剣をローデンが受け止める。


 その瞬間、リディアは老騎士の脛を蹴った。


「っ!」


 綺麗な剣術ではない。


 だが、敵が剣だけで戦ってくれるとは限らない。そう教えたのはローデン自身だった。


 老騎士の体勢がわずかに崩れる。


 リディアはその隙へ剣を突き込んだ。


 しかし、切っ先は外套を裂いただけだった。ローデンは身体を捻ってかわし、剣の柄をリディアの腹へ叩き込む。


「ぐっ……!」


 息が詰まり、片膝をついた。


 吐き気が込み上げるほど痛い。それでも剣は離さなかった。


「立ちなされ」


 ローデンは追撃せずに待っていた。


「……言われるまでもない」


 剣を支えに立ち上がり、再び構える。


 何度も剣を交えた。


 手の皮が擦れ、腕が重くなる。呼吸は苦しく、足も思うようには動かない。


 それでも戦い続けるうちに、少しずつローデンの動きが見えるようになってきた。


 勝てるという意味ではない。


 次に何が来るのかを、わずかに予測できるようになっただけだ。


「肩」


 ローデンが呟く。


 リディアは剣ではなく肩を見る。


 斜めから来る。


 剣を合わせて受け流す。


「腰」


 次は突き。


 半歩横へずれてかわした。


「足」


 踏み込みに合わせて横へ回る。


 ローデンの剣が空を切った。


「そうです」


 その直後だった。


 老騎士の身体が大きく開いた。


 無防備な左胸。


 剣を伸ばせば届く。


 考えるより先に、リディアの身体が動いた。


 踏み込み、剣を突き出す。


 切っ先がローデンの胸へ迫る。


 そこで気づいた。


 おかしい。


 ローデンほどの騎士が、このような隙を見せるはずがない。


 目が合った。


「――っ!」


 リディアは咄嗟に腕を捻った。


 剣先が急所を外れ、ローデンの脇腹を貫く。


「ぐっ……!」


 初めて、老騎士の顔が苦痛に歪んだ。


 リディアは剣を引き抜く。血が飛び、ローデンが片膝をついた。


 剣を地面へ突き立て、それを支えにして身体を起こしている。


「ローデン!」


 リディアの手が震えていた。


「今の隙は何だ?」


「見事な一撃でしたな」


「違う!」


 リディアは声を抑えながらも、強く言い切った。


「そなたが、あの程度の隙を見せるはずがない。なぜ避けなかった?」


 ローデンは答えない。


「私に殺されるつもりだったのか?」


 沈黙。


 それが何より明確な答えだった。


「なぜだ」


「私は旦那様の騎士です」


「ならば、なぜ私へ剣を渡した?」


「命令を受けたからこそ、追いつきました」


「教えながら戦い、最後にはわざと剣を受けた。それを命令に従ったとは言わない」


 ローデンは脇腹を押さえながら、わずかに笑った。


「随分と注文の多い追手でしたな」


「笑い事ではない」


「ええ。その通りです」


 老騎士の表情から笑みが消える。


「これが最初で最後です」


 その声は、師のものではなかった。


 主君へ仕える騎士の声だった。


「よくお聞きなされ」


 リディアは黙ってローデンを見る。


「次に来る者は、あなたへ剣を渡しません。構えを直すことも、立ち上がるのを待つこともないでしょう」


 脇腹を押さえる指の間から、血が滲んでいる。


「転べば、そのまま首を落とされます。一度でも隙を見せれば、それで終わりです」


「……分かっている」


「いいえ。まだ分かっておられません」


 ローデンは厳しい目を向けた。


「今日のような戦いが、これからも続くと思ってはならぬのです」


 それは脅しではない。


 リディアを生かすための警告だった。


「そして、次に私が参ることがあれば」


 ローデンの視線が、真っすぐリディアを捉える。


「その時は、私も今日のようにはいたしません」


「次は私を殺すのか?」


「命令がそうであれば」


 答えに迷いはなかった。


「今日、私を逃がしておきながら?」


「今日と次は別の話です」


「勝手な話だな」


「承知しております」


 ローデンはわずかに息を吐く。


「私がお嬢様へ差し上げられるのは、一度だけです」


「何を?」


「選ぶ機会を」


 血に濡れた手で、リディアの荷物を指した。


「この先へ進むか。それとも、私とともに屋敷へ戻るか」


 リディアは屋敷のある方角へ顔を向けた。


 ここからでは見えない。


 それでも、向こうには生まれ育った家がある。


 父もいる。


 自分を逃がした侍女もいる。


 戻れば、以前と同じ生活へ戻れるかもしれない。


「戻らない」


 答えはすぐに出た。


「私は自分で生きる。紋章の名だけで殺されるのを、黙って待つつもりはない」


「そうですか」


「この先へ進む」


 ローデンが頷いた。


「ならば、もう迷わぬことです」


 リディアは血の付いた剣を見る。


 初めて人を斬った。


 相手は、誰よりも信頼してきたローデンだった。


「傷はどうなのだ?」


「急所は外れております。この程度で死ぬほど衰えてはおりません」


「だが、血が止まっていない」


「後続の者が来れば、手当てを受けます」


 その言葉に、リディアは顔を上げた。


「ほかの追手も来ているのか?」


「私だけとは申し上げておりません」


「どれほどで追いつく?」


「さて」


「教えるつもりはないのだな」


「追手の情報までお渡ししては、旦那様へ申し開きができませぬ」


「……分かった」


 ローデンが父の騎士であることは、今も変わっていない。


 リディアは荷物を拾い上げた。


 そこで、すぐそばに立つ馬へ目を向ける。


 鞍の左右には、大きな荷物が括りつけられていた。


 水筒、保存食、毛布、雨具、火を起こす道具、簡単な治療用品。馬の餌まで積まれている。


 単独の追跡にしては、妙に旅支度が整っていた。


 リディアは馬とローデンを交互に見る。


「この馬を借りる」


「私の馬ですが」


「知っている」


「そうですか」


「止めないのか?」


 ローデンは答えなかった。


 ただ、片膝をついたままリディアを見ている。


「返せる保証はないぞ」


 それでも返事はない。


「ならば、借りていく」


 リディアは手綱を取った。


 屋敷で何度か見たことのある馬で、人によく慣れている。リディアが近づいても抵抗しなかった。


「ローデン」


「はい」


「ありがとう」


 老騎士は答えなかった。


 ただ、いつもの稽古を終えた時のように、わずかに頭を下げる。


 リディアは手綱を握り、馬を進ませた。


 数歩進んだところで振り返る。


 ローデンは剣を支えにし、片膝をついたままこちらを見ていた。


「次は」


 リディアは老騎士へ告げる。


「次は、私の実力で勝つ」


 ローデンの眉がわずかに動いた。


「それは楽しみですな」


 リディアは前を向き、馬を走らせた。


 徒歩とは比べものにならない速さで、木々が後ろへ流れていく。


 馬には数日分の食料と水があり、毛布も雨具もそろっていた。追跡のための荷物にしては、あまりにも旅人向けに整いすぎている。


 だが、今のリディアには、その不自然さについて考える余裕がなかった。


 分かっていることは一つだけだ。


 今日、ローデンは自分へ選ぶ機会を与えた。


 そして、次は違う。


「強くならなければ」


 生きるためには、もっと強くなる必要がある。


 リディアを乗せた馬は南へ走り続けた。


 今度こそ、生まれ育った土地から遠く離れるために。

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