第5話 逃亡の夜
翌日。
リディアは一日中、何も知らないふりをして過ごした。
朝食を取り、用意された本を読み、窓から庭を眺める。扉の外には昨日と同じく騎士が二人立ち、部屋を訪れる者と持ち込まれる荷物を確認していた。
侍女も普段と変わらない様子で部屋へ入ってきた。
「お茶をお持ちしました」
「ありがとう」
盆の上にあるのは茶器と焼き菓子だけだった。少なくとも、扉の前にいる騎士にはそう見えたはずだ。
侍女が扉を閉め、茶器を机へ置く。
リディアは本から目を上げないまま、小声で尋ねた。
「準備は整ったか?」
「できる限りは。今夜、決行いたします」
「気づかれた様子は?」
「今のところはございません」
「分かった」
会話はそれだけだった。
長く話せば怪しまれる。侍女は何事もなかったように空の水差しを持ち、部屋を出ていった。
リディアは本へ視線を戻したが、内容は一文字も頭に入ってこなかった。
今夜、この家を出る。
そう考えるだけで、心臓が速くなる。
怖くないと言えば嘘だった。逃げると決めた時よりも、時間が迫った今の方が恐ろしい。
家を捨て、父に背き、これまで知らなかった世界へ一人で出ていく。見つかれば、今度こそ二度と逃げられないよう拘束されるだろう。
それでも、ここに残るという選択肢はなかった。
紋章の正体も、自分を生かすか殺すかも、すべて他人の判断に委ねて待つつもりはない。
「大丈夫だ」
自分へ言い聞かせるように呟く。
剣の稽古を始めたばかりの頃も、ローデンへ向かっていくのは怖かった。何度転ばされ、何度剣を落とされても、立たなければ勝つことはできなかった。
今も同じだ。
怖くても、自分で立って進むしかない。
◇
夕食が終わり、日が沈んだ。
屋敷の中が静かになるのを待ち、リディアはいつもと同じ時間に寝間着へ着替えた。部屋の明かりを落とし、寝台へ入る。
目は閉じたが、眠れるはずもなかった。
どれほど時間が過ぎただろう。
扉が小さく叩かれた。
三回。
少し間を置いて、二回。
昨日、侍女と決めた合図だった。
リディアはすぐに寝台から起き上がる。
「入ってくれ」
扉が開き、替えの寝具を抱えた侍女が姿を見せた。
「夜分に失礼いたします。寝具の交換をさせていただきます」
「こんな時間に?」
扉の外から騎士の声が飛ぶ。
「昼間に汚れを見つけました。明朝では、お嬢様のお目覚めに間に合わないかと思いまして」
「……分かった」
「ありがとうございます」
侍女が部屋へ入り、扉を閉める。
二人はすぐには動かなかった。外にいる騎士の様子を確かめてから、侍女が静かに息を吐く。
「こちらへ」
抱えていた寝具を寝台へ置くと、その中から畳まれた服を取り出した。
粗い布のシャツに丈夫なズボン。使い込まれた外套。どれも、リディアが普段着るものとは比べものにならないほど質素だった。
「使用人の予備を手直しいたしました」
「寸法は合うのか?」
「長くお仕えしておりますので、お嬢様のお召し物の寸法は存じております」
「なるほど。見事だな」
リディアは寝間着を脱ぎ、用意された服へ着替えた。
袖を通した瞬間から、普段の服との違いが分かる。布は固く、肌へ少し擦れた。
「動くには悪くない」
「そのような感想になるのですね」
「見た目はそなたに任せる」
侍女に促され、椅子へ座る。
いつもなら整えてまとめる髪を、今日は低い位置で簡単に束ね、その上から布を巻いた。
「こちらを」
鏡を渡される。
「……随分と印象が変わるものだな」
映っているのは間違いなく自分だが、貴族令嬢らしさは薄れていた。
「遠目であれば、貴族のお嬢様には見えないでしょう」
「近くでは分かるか?」
「立ち方や話し方で、気づく者はいるかもしれません」
「立ち居振る舞いまで変える必要があるか」
「いずれは」
「覚えるべきことが多いな」
「生きるために必要なことでございます」
「ならば覚えよう」
侍女は寝具の中から、さらに小さな袋を取り出した。
「こちらをお持ちください」
中には銀貨と銅貨が入っている。
「私の部屋にあった金だけではないな」
「私の手持ちも少し加えております」
「そなたの金まで受け取るわけには――」
「これから先、何をするにも必要になります。どうか、お受け取りください」
侍女の表情に迷いはなかった。
リディアは少し黙ったあと、袋を受け取った。
「……分かった。そなたの厚意に甘えよう」
「はい」
続いて渡されたのは、二日分ほどの保存食だった。硬いパン、干し肉、乾燥させた果物。それに水を入れた革袋。
最後に、布で包まれた短剣が差し出される。
リディアは受け取ると、鞘からわずかに刃を抜いた。装飾のない実用的な武器だ。
「どこで用意した?」
「亡くなった父のものです」
リディアの手が止まる。
「それならば受け取れない」
「お持ちください」
「だが、大切な形見だろう」
「使われずにしまっておくより、お嬢様をお守りするために使われる方が、父も喜ぶと思います」
侍女の声に迷いはなかった。
リディアはもう一度短剣を見てから、鞘へ戻す。
「……借りる。必ず、そなたのもとへ返す」
「はい」
短剣を腰へ差した。
剣とは違う。それでも武器を手にしたことで、心がわずかに落ち着いた。
「地図もございます」
侍女が折り畳んだ紙を机の上へ広げる。
「屋敷を出た後は、南へ進んでください。東の街道は人目が多く、追手が出れば最初に確認されます」
「南の林を抜けるのだな」
「はい。林の先にある農道を進めば、明日の昼頃には村が見えてきます」
「その村には入らない方がよいだろう」
侍女が頷いた。
「追手も最初に確認するはずです」
「そのまま通り過ぎる」
「さらに半日ほど南へ進むと、街道が二つに分かれます」
「そこから先は?」
「申し訳ございません。私がお教えできるのは、そこまでです」
「構わない」
リディアは地図を見つめた。
屋敷の周辺なら知っている。だが、その先は地図や本でしか見たことのない場所ばかりだった。
「街道まで辿り着いたら、状況を見て決める」
「はい」
地図を畳み、金や食料と一緒に袋へ収める。
「それでは参りましょう」
「今からか」
「はい」
リディアの心臓が大きく鳴った。
準備をしている間は、まだ計画にすぎなかった。ここから先は、本当の逃亡になる。
「外へ出る経路は?」
「使用人用の通路を使います。まずは窓から」
リディアは自室の窓へ目を向けた。
「ここは二階だぞ」
「この部屋からではございません。隣の衣装部屋に、荷物を運び入れるための搬入口があります」
「そんなものがあったのか」
「お嬢様がお使いになる場所ではございませんから」
「自分の家でも、知らないことはあるものだな」
「そこから物置の屋根へ降りられます。ただ、少し高さがございます」
「ローデンに投げ飛ばされるよりは低いだろう」
「比較する相手がおかしいかと」
久しぶりに、侍女がわずかに笑った。
◇
自室から廊下へは出られない。
だが、隣の衣装部屋とは内扉でつながっている。騎士もそこまでは見張っていなかった。
二人は明かりをつけずに衣装部屋へ移動した。
侍女が奥にある棚を動かす。その後ろから、小さな扉が現れた。
「本当にあったのだな」
「昔、衣装箱を直接運び入れるために使っていたそうです」
侍女が鍵を開けると、冷たい夜気が入り込んできた。
扉の外には物置の傾斜した屋根がある。高くはあるが、壁の出っ張りへ足を掛ければ降りられそうだった。
リディアは扉の縁へ手を掛け、足を外へ出した。
壁の出っ張りを探りながら、ゆっくりと身体を下ろす。やがて靴底が物置の屋根へ触れた。
「着いた。荷物を」
小声で伝えると、侍女が袋を差し出した。
リディアが受け取る。
だが、侍女は外へ出ようとしなかった。
「そなたは降りないのか?」
「私はここまでです」
「一緒に来るのではないのか?」
「私までいなくなれば、すぐに逃亡を疑われます。お嬢様が眠っているように寝台を整え、できる限り時間を稼ぎます」
「私を逃がしたことはいずれ分かる。そなたも処罰されるぞ」
「承知しております」
「ならば、一緒に来た方が――」
「お嬢様」
静かな声が、リディアの言葉を止めた。
「今は、ご自身のことをお考えください」
リディアは唇を結ぶ。
自分だけが逃げ、協力した侍女を残していく。それは正しくないように思えた。
「そなたを置いていくのは、道理に反する」
「では、私が望んでいないのに連れていくことが、正しいのでしょうか」
「……それは」
「私は自分で残ると決めました」
侍女は穏やかに続ける。
「お嬢様が、ご自身で生きる道を選ばれたように」
その選択を否定すれば、自分が逃げる理由まで否定することになる。
リディアはしばらく侍女を見つめ、やがて頷いた。
「分かった。そなたの選択を尊重する」
「ありがとうございます」
「だが、死ぬことは許さない」
「努力いたします」
「そこは、必ず生きると答えてくれ」
侍女が少しだけ微笑んだ。
「はい。必ず」
リディアも、ほんのわずかに笑う。
「行ってくる」
「いってらっしゃいませ、お嬢様」
剣の稽古へ向かう朝にも、何度も聞いてきた言葉だった。
それなのに今夜は、まるで別れの言葉のように聞こえた。
小さな扉が閉じられる。
その音だけで、自分と屋敷の間に一本の線が引かれたように感じた。
リディアは前を向いた。
屋根を伝い、低い場所から地面へ降りる。周囲に人影がないことを確かめ、使用人用の裏庭へ進んだ。
物置の陰から厨房の裏へ。そこから薪置き場を抜け、壁際を進む。
何度も歩いたことのある屋敷なのに、身を隠しながら進むと知らない場所のようだった。
やがて、裏手にある小さな通用門が見えてきた。
普段は使用人や納入業者が使う門だ。夜間は施錠されている。
リディアは侍女から預かった鍵を取り出し、鍵穴へ差し込んだ。
ゆっくり回す。
小さな金属音が鳴った。
動きを止め、周囲の気配を探る。
誰も来ない。
もう一度鍵を回し、扉を押し開ける。
その向こうに、屋敷の外があった。
ほんの一歩。
だが、その足がすぐには動かなかった。
ここを越えれば、二度と父の娘として、この家のお嬢様として戻ることはできないかもしれない。
ローデンにも何も伝えていない。
もし話せていたなら、彼は何と答えただろう。
逃げろと言ったのか。
父へ従えと言ったのか。
今となっては分からない。
「……すまない」
誰へ向けた言葉なのか、リディア自身にも分からなかった。
それでも、自分で決めた道だった。
リディアは通用門を越える。
背後で扉を閉めると、もう振り返らなかった。
◇
月明かりを頼りに、南へ歩いた。
最初は何度も背後が気になった。追手が迫っているのではないか。屋敷から誰かの叫び声が聞こえるのではないか。
だが、何も起きない。
屋敷の明かりだけが、少しずつ遠ざかっていった。
やがて林へ入る。
地面は凹凸が多く、暗闇では足元も満足に見えない。枝が外套へ引っかかり、歩くたびに枯れ葉が音を立てた。
「ここまで歩きにくいとは聞いていなかったな」
思わず不満が漏れた。
それでも足は止めない。
最初の村には入らず、できるだけ遠くまで進む。それが今のリディアにできる唯一のことだった。
何時間歩いたのか。
次第に足が痛み始める。
毎日の剣の稽古で体力には自信があったが、荷物を背負い、不整地を夜通し歩くことは別らしい。
「ローデンなら、この程度では歩みを止めないだろうな」
老騎士の顔が浮かぶ。
会えなかったことへの後悔が、胸をよぎった。
だが、今さら考えても答えは出ない。
「ならば、私も止まるわけにはいかない」
リディアは前を向き、再び歩き出した。
◇
「いないだと?」
父の怒声が執務室へ響いた。
「申し訳ございません!」
騎士が深く頭を下げる。
「昨夜までは、確かにお部屋におられました!」
「どうやって出た!」
「現在調べております!」
父は机へ両手をついた。顔から血の気が引いている。
「通用門を確認しろ。使用人も全員調べろ!」
「はっ!」
騎士が執務室を飛び出していく。
父は残った家令へ向き直った。
「……まずいことになった」
「旦那様」
「街道と周辺の村を押さえろ。徒歩なら、まだ遠くへは行っていないはずだ」
「承知いたしました」
家令が退出しようとする。
「待て」
父はそれを呼び止めた。
「ローデンを呼べ」
家令が一瞬だけ父の顔を見る。
だが、何も尋ねずに頭を下げた。
「承知いたしました」
扉が閉まり、父は一人になる。
机の上には、神官から届いたばかりの追加報告が置かれていた。
昨夜まで、大罪という判断はまだ可能性にすぎなかった。
しかし、今朝届いた報告には明確に記されている。
リディアの身体に現れたものは、大罪の紋章である。
ただし、どの大罪に属するかまでは分からない。
大罪の紋章は、所有者の成長とともに身体へ大きく広がっていく。その過程で新たに現れる紋様によって、初めて系統を判別できるためだ。
今のリディアの紋章は、まだ発現したばかりだった。
父は報告書を強く握りしめた。
「リディア……」
大罪の紋章を持つ娘は逃げた。
そしてこれから父は、その娘を追うために、最も信頼する騎士を呼び出そうとしていた。




