第4話 生きるための選択
「お話ししなければならないことがございます」
メイドの声は小さかった。
扉の向こうには騎士がいる。リディアもそれを察し、声を落とした。
「聞こう」
「ですが、その前に一つだけ、お約束ください」
メイドはもう一度扉を見た。
「これから申し上げることを聞いても、すぐに旦那様へ確認なさらないでください」
「理由があるのだな?」
「はい。すべてお話しいたします」
普段の彼女なら、理由もなくこのような頼み方はしない。
リディアはわずかに眉を寄せたが、すぐに頷いた。
「分かった。最後まで聞こう」
「ありがとうございます」
メイドはリディアのそばまで来ると、さらに声を落とした。
「先ほど、旦那様と神官様、それから家令様がお話しされているのを聞きました」
「私の紋章についてだな」
「はい」
「何が分かった?」
メイドは一瞬、言葉をためらった。
「まだ確定ではないそうです。ですが、大罪の紋章である可能性が高いと」
「……大罪か」
聞いたことのない言葉ではなかった。
貴族としての教育の中で、過去にそう呼ばれる特殊な紋章が存在したことは教わっている。極めて珍しく、時代によっては王家の監視対象になったこともある。
だが、リディアが知っているのはその程度だった。
「この紋章が、そうだというのか?」
服の上から胸元へ触れる。
「神官様は、古い記録に残された紋章とよく似ていると。ただ、どの大罪に属するものかまでは分かっていないそうです」
「ならば、今は調査を続けている段階か」
「はい」
「それだけではないのだな?」
大罪の可能性を知っただけなら、メイドがこれほど怯える理由にはならない。
「続けてくれ」
「大罪の紋章だと確定した場合、王家への報告が必要になるそうです」
「それは知っている」
珍しい紋章、とりわけ危険性のあるものは王家へ報告される。貴族家に生まれた者なら知っていて当然のことだ。
「父上は、王家へ知られることを避けたいのだな」
「そのようなお話をされていました。お嬢様の紋章が大罪であれば、この家も調査を受けることになると」
「なるほど」
部屋から出すなと命じられた理由も、手紙を止められた理由も理解できた。
「私と紋章の存在を、屋敷の中に隠しておきたいわけか」
「おそらくは」
「気分のよい話ではないが、当主として慎重になる理由は分かる」
納得したわけではない。
それでも、家全体に影響する問題ならば、父が軽々しく動けないことは理解できた。
だが、メイドの顔は晴れない。
「まだ続きがあるな」
「……はい」
声がさらに小さくなった。
「大罪だと確定した場合、お嬢様をどうするかという話もされていました」
「私をどうするか?」
「お嬢様は、まだ社交界へ出ておられません。外でお顔を知る方も限られております」
そこまで聞けば十分だった。
リディアの表情が固くなる。
「家令が、今なら私の存在を消せると進言したのか」
メイドが息を呑んだ。
「……はい。処置を行うのであれば、今が最後の機会になるかもしれないと」
「処置とは、私を殺すことだな」
「お嬢様……」
「違うのか?」
否定は返ってこなかった。
「父上は何と答えた?」
「最初は反対されました。まだ何もしていない娘を、紋章だけで殺すのかと」
胸の奥が、わずかに軽くなる。
「そうか」
「ですが、大罪だと確定した場合は、その時に判断すると」
「……否定はしなかったわけだ」
メイドは俯いた。
部屋が妙に静かだった。
窓の外からは鳥の声が聞こえる。庭では誰かが笑っている。
昨日までと何も変わらない屋敷の中で、自分の生死だけが密かに話し合われていた。
「私はまだ、紋章の力すら得ていない」
「はい」
「誰かを傷つけたわけでも、罪を犯したわけでもない。それでも、将来危険になるかもしれないという理由だけで殺すと?」
胸元を押さえる指に力が入る。
「道理に合わない」
恐怖よりも先に、怒りが湧いた。
過去の大罪持ちが何をしたのかは知らない。
だが、それはリディアがしたことではない。似た紋章を持っているだけで、まだ何もしていない人間を罪人として扱う理由にはならない。
「父上に直接聞く」
リディアは立ち上がった。
メイドがすぐに前へ出る。
「お待ちください」
「だが、このままでは何も分からない」
「旦那様へ尋ねたとして、もしお嬢様を外へ出さないおつもりだったなら、どうなさるのですか?」
リディアの足が止まる。
「お嬢様がすべてを知ったと分かれば、今より厳しく見張られます。逃げ道も塞がれるでしょう」
今はまだ、父はリディアが何も知らないと思っている。
その思い込みを捨てさせれば、扉の前の騎士は二人では済まなくなる。窓を塞がれ、メイドさえ遠ざけられるかもしれない。
「……そうだな」
リディアは椅子へ戻った。
「感情のまま問い詰めれば、こちらの状況が悪くなるだけだ。先ほどの約束は、そのためか」
「はい」
リディアは一度考えてから、メイドへ尋ねた。
「ローデンは、今どこにいる?」
「騎士団の詰所にいらっしゃいます。今朝、旦那様に呼ばれたと伺いました」
「父上のもとにいるのか」
「はい」
リディアはしばらく黙った。
ローデンなら、自分の話を聞いてくれるかもしれない。幼い頃から剣を教え、何が正しいのかを行動で示してくれた人だ。
「ローデンは、この件を知っていると思うか?」
「分かりません。ですが、ローデン様は旦那様に仕える騎士でございます」
「……そうだな」
どれほど信頼していても、ローデンの主君は父だ。
会おうとすれば、リディアが事情を知ったことも父へ伝わるだろう。逃亡を相談すれば、彼に主君への背反を求めることにもなる。
「今は会えないか」
「少なくとも、旦那様に気づかれずお話しするのは難しいかと」
「分かった。ローデンを巻き込むのはやめよう」
その判断が正しいのかは分からない。
それでも、自分のために彼の忠義を曲げさせることはできなかった。
リディアは窓の外へ目を向けた。
生まれてからずっと暮らしてきた場所だった。
庭も、訓練場も、馬場も、書庫も、すべてが自分の日常の一部だった。
父はまだ、リディアを殺すと決めたわけではない。大罪の紋章だと確定したわけでもない。
このまま待っていれば、別の紋章だったと判明するかもしれない。
そうなれば、稽古も、社交界へ出る準備も、父との関係も元に戻る。
だが、本当に大罪だったなら。
父が判断を下す時、リディアには従う以外の選択肢が残されていないかもしれない。
生かすと決められれば生きられる。
殺すと決められれば死ぬ。
それでは、自分の命でありながら何一つ選べない。
「……私は、死にたくない」
初めて言葉にしたことで、胸の内にあった恐怖の形がはっきりした。
「何もしていないのに殺されるのは嫌だ。何より、自分の生死を他人の判断だけに委ねたくない」
「お嬢様……」
「父上が決めるのを待っていては遅い」
リディアは顔を上げた。
「ここを出よう」
メイドが静かに頷いた。
「お手伝いいたします」
「そなたまで危険になるぞ」
「承知しております」
「捕まれば、ただでは済まない」
「それも承知しております」
メイドの答えに迷いはなかった。
「なぜ、そこまでしてくれる?」
「私は、大罪の紋章について詳しいことは存じません」
メイドは一度言葉を切った。
「ですが、お嬢様がどのような方なのかは、幼い頃から見てまいりました。紋章の名よりも、私が知るお嬢様を信じます」
それだけだった。
「ですから、まだ何もしていないお嬢様が殺されるのを、黙って見ていることはできません」
リディアはすぐには答えられなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「ありがとう」
「いえ」
「では、逃げるための準備を始めよう」
「はい」
メイドは持ってきた衣類の籠を置いた。
「まず、そのお召し物では、すぐに貴族の方だと分かってしまいます。平民の服を用意いたします」
リディアは自分の服を見る。
地味な部屋着ではあるが、生地も仕立ても平民のものとは違う。
「金と食料も必要だな」
「保存の利く食べ物と水を用意します。お金については、私の蓄えと、お嬢様の私物から持ち出せる分を」
「剣は?」
メイドが黙った。
リディアの剣はすでに預けさせられている。武器庫へ近づけば、すぐに警戒されるだろう。
「短剣であれば、厨房から持ち出せるかもしれません」
「ないよりはいい。頼む」
屋敷の中のことなら、リディアもよく知っている。剣を持って戦う方法も分かる。
だが、追手から逃れ、見知らぬ土地で生きる方法は知らなかった。町で一人で宿を取ったことすらない。
「私に分かるのは、屋敷の中と剣のことだけだ」
リディアはメイドを真っすぐに見る。
「逃亡の段取りについては、そなたの方が詳しい。指示を頼む」
「お任せください」
メイドが、いつものように頭を下げた。
「ただし、今日すぐに逃げるのは危険です。準備を整え、明日の夜にいたしましょう」
「明日の夜か」
「はい。それまでは、何も知らないふりをしてください。旦那様たちに気づかれれば、計画そのものが成り立たなくなります」
「承知した」
父が自分を殺すかもしれないと知りながら、何も知らない顔で一日を過ごす。
剣の稽古よりも難しそうだった。
「やってみせる」
「はい。では、私は準備を始めます」
「十分に気をつけてくれ」
「お嬢様も、いつも通りに」
メイドは衣類の籠を持ち上げ、扉へ向かう。
開く直前で足を止め、振り返った。
「明日の夜には、この屋敷を出ます」
「ああ」
「一度出れば、戻れる保証はございません」
「分かっている」
リディアは窓の外を見る。
生まれ育った家。
父。
使用人たち。
毎朝剣を振るった庭。
そして、ローデン。
そのすべてを置いていく。
胸は痛んだ。それでも、ここに残れば、二度と自分で道を選べなくなるかもしれない。
「生きていれば、その後のことは自分で決められる」
死んでしまえば、何も選べない。
「私は行く。今度は迷わない」
メイドが頷き、何事もなかったような顔で部屋を出ていった。
再び一人になったリディアは、胸元へ手を置く。
昨日までは、どのような力が現れるのかと楽しみにしていた紋章。
今は、その印一つのために、生まれ育った家を捨てようとしている。
「大罪か」
何の罪も犯していない者を、紋章の名だけで罪人として扱う。
「まったく、おかしな話だ」
紋章は答えない。
ただ静かに、リディアの胸元へ刻まれていた。




