第28話 最後の刺客
ミアが去ってから数日後。
リディアはカイルたちとともに、奴隷都市を出ようとしていた。
都市へ残る者たちは、倉庫にあった食料を分け、倒れた者を埋葬し、壊れた建物を片づけ始めている。
その一方で、誰がどれだけ物資を得るかをめぐる争いは続いていた。
奴隷商人が捨てた屋敷や店を占拠する者もいれば、武器を持って自分たちの通りを守ろうとする者もいる。都市兵も役人も失われ、争いが起きても全体をまとめる者はいなかった。
いくつかの集団が新しい決まりを作ろうとしていたが、都市全体が従うものにはなっていない。
これからどのような都市を作るのかは、彼ら自身が決めることだ。
リディアが残り、代わりにすべてを決めるつもりはなかった。
「次はどこへ行くんですか?」
カイルが尋ねる。
「まだ決めていない。まずは、この地を離れる」
「俺たちは、どこでもついていきます」
「そなたたちがそう望む間はな」
一行が門を出た時、街道の向こうから二頭の馬が近づいてきた。
先頭にいるのは、鎧をまとった老騎士だった。
白髪交じりの短髪。
左頬の長い古傷。
鎧の左肩には、剣へ絡みつく銀狼の鎧章がある。
その後ろには、簡素な鎧を身につけた若い従者が続いていた。
見間違えるはずがなかった。
「ローデン……」
老騎士が馬を止める。
「お久しぶりですな、お嬢様」
「傷は治ったのか?」
「ええ。十分すぎるほどに」
馬から降りる動きにも、歩み寄る足取りにも、以前の負傷は感じられない。
屋敷の訓練場で何度も向き合った、最も強かった頃のローデンがそこにいた。
「ミアと会ったのだな」
「ええ。今は神官殿とともに、当家の屋敷へ向かっております」
リディアの眉がわずかに動く。
「捕らえたのか?」
「いいえ。当家の治療師として働くことを、ご本人が選ばれました」
「そうか」
リディアは、それ以上尋ねなかった。
ミアが自分で選んだのなら、止める理由はない。
カイルたちが武器へ手を掛けた。
「この人が、リディアさんを追っていた騎士ですか」
「ああ」
「なら、俺たちも――」
「手を出すな」
リディアは短く命じた。
「ローデンが狙っているのは私だ。そなたたちが戦う理由はない」
「でも、俺たちはあなたについていくと決めた」
「ならば、今は私の決定に従ってくれ」
カイルは何か言おうとしたが、やがて剣から手を離した。
リディアはローデンを見る。
「父上の命令か?」
「お嬢様を討てと命じられております」
「従者を連れてきたのだな」
「私が敗れた際に、結果を持ち帰る者が必要ですので」
若い従者が僅かに顔を強張らせた。
「戦うのは、そなただけか?」
「ええ。あの者には、最後まで見届けるよう命じております」
ローデンは腰の剣へ手を置いた。
「私が、当家から差し向けられる最後の刺客です」
「最後?」
「エドガー殿を含め、これまで差し向けられた者は皆、お嬢様に敗れました。当家に残る最高戦力は、もはや私だけです」
老騎士は静かに告げる。
「私まで退ければ、旦那様に秘密裏の追撃を続ける手段は残りません」
「つまり、そなたに勝てば終わるのだな」
「その通りです」
逃亡した夜から続いてきた追撃。
その最後が、目の前に立っている。
「神官殿から、お嬢様の紋章について伝言を預かっております」
リディアは無意識に右肩へ触れた。
「何の大罪だった?」
「《傲慢》と呼ばれるものらしいですな」
風が街道を抜けた。
リディアは、すぐには言葉を返せなかった。
傲慢。
自分の正しさを疑わず、自ら他者を裁く者。
ミアが離れる前に言った言葉が蘇る。
紋章が悪を見分けて熱を持ったのか。
自分が悪だと決めたから熱を持ったのか。
そして、最後に残された言葉。
斬ると決めたのは、あなたよ。
「傲慢……」
「紋章の名が分かったところで、お嬢様がお嬢様であることに変わりはございませんので」
「そうか」
リディアはローデンを見た。
自分へ剣を教え、最初に逃げる機会を与えてくれた人物。
そのローデンならば、答えを持っているような気がしていた。
「ローデン」
「はい」
「私は間違っていると思うか?」
「私に正しいと認められなければ、捨てる正義ですかな」
リディアは、すぐには答えられなかった。
「……分からない」
自分の口から出た言葉に、リディア自身が驚いた。
「もう、何が正しいのか分からない」
ローデンは黙って聞いていた。
「あの都市には、悪人が多すぎた」
アンナを殺した男。
夫を鞭で殺された女。
殺された子供の小さな靴を抱えていた母親。
話を聞くたびに、裁くべき相手が連れてこられた。
裁いても、次の被害者が現れた。
「なぜ、あれほど多くの者が苦しまなければならなかった」
問いに答える者はいない。
「私は、人を殺したくて剣を振るったのではない」
「ええ」
「あの者たちがいなければ、私は剣を抜かずに済んだ。誰も人を踏みにじらなければ、誰も斬らずに済んだ」
それでも、ミアは離れた。
リディアの正義を疑い、一緒には進めないと告げた。
「私が、お嬢様は正しいと申し上げれば」
ローデンが静かに尋ねる。
「これまでなさったことは、すべて正しくなりますかな」
「ならない」
リディアは答えた。
「では、私が間違っていたと申し上げれば、これまでのすべてを捨てますかな」
「それもできない」
「ならば、もう答えは出ております」
「答えなど――」
ない、と言いかけて止まった。
ローデンに正しいと言われても、殺した者は戻らない。
間違っていたと言われても、救った者まで見捨てることはできない。
紋章が命じたのでもない。
被害者に剣を握らされたのでもない。
最後に決めたのは、いつも自分だった。
「……そうだな」
リディアは息を吐いた。
「正しかったのかは、今も分からない」
ローデンから目を逸らさない。
「だが、剣を振るったのは私だ。殺すと決めたのも、裁くと決めたのも私だ」
「ええ」
「間違っていたとしても、自分が選んだことから逃げるつもりはない」
大罪の名が、これまでの行いを正しくするわけではない。
間違いに変えるわけでもない。
すべて、自分が選んだことだった。
リディアは剣を抜いた。
「私は、自分が選んだ道を進む」
ローデンも剣を抜く。
「答えは決まったようですな」
老騎士が構えた。
リディアも剣を正面へ向ける。
ローデンは、自分を殺しに来た敵だ。
それでも、リディアにとって裁くべき悪ではなかった。
服の下の紋章は熱を持たない。
《断罪》は発動しなかった。
剣を握る手へ力を込める。
このまま戦えば負ける。
ローデンの剣が自分より遥かに上であることは、誰よりも理解していた。
それでも、ここで退くことはできない。
「私は、ここで終われない」
まだ、答えを得たわけではない。
これからも間違えるかもしれない。
それでも、自ら選んだ道を歩き、その結果を引き受けると決めた。
「正義を為すために、そなたを越える」
その瞬間。
胸元の紋章が、これまでにない熱を持った。
「――っ」
胸から首筋へ。
首筋から右肩へ。
広がり続けてきた模様をなぞるように熱が走り、最後に一つへつながった。
だが、《断罪》の名は浮かばない。
誰かが悪であると告げる声もなかった。
ただ、完成した紋章そのものから、力が全身へ流れ込んでくる。
剣を握る手に。
街道を踏み締める足に。
ローデンの動きを見据える目に。
老騎士の目が、わずかに細くなった。
やがて、その口元に小さな笑みが浮かぶ。
リディアが幼い頃、初めて教えを身につけた時と同じ笑みだった。
「その力も、お使いになりますかな」
「ああ」
リディアは剣を構え直した。
「紋章に道を決めさせるつもりはない。使うと決めたのは私だ」
「それでこそです」
ローデンも剣を構え直した。
意図的な隙はない。
「手加減は?」
「いたしません」
「それでいい」
次の瞬間。
二人は同時に踏み込んだ。
かつての師弟の剣が、正面から激突した。




