第25話 別れる道
「紋章が熱を持っている」
リディアの言葉に、縛られた男の顔が強張った。
「そ、それが何だ! 紋章が私の何を知っている!」
「リディア。本当に、それだけで決めるの?」
ミアが尋ねる。
「それだけではない。この者の話も聞いた」
リディアは訴えを持ち込んだ若者を見る。
「そなたは、兄が殺されたところを見たのだな」
「はい。水をこぼしただけで殴られて、倒れた後も何度も蹴られました」
「嘘だ!」
男が叫ぶ。
「こいつは私を恨んでいる。私が死ねば満足するから、話を作ったんだ!」
「その可能性を否定できるものはないわ」
ミアの言う通りだった。
証言は一人だけで、男は認めていない。
それでも、リディアの紋章は熱を持ち続けている。
「これまで紋章が熱を持った相手は、すべて悪事を行っていた」
「今度も同じだと、どうして分かるの?」
「今も紋章は熱を持っている」
リディアは男へ視線を戻した。
「私は、若者の証言を信じる」
「待ってくれ! 証拠もないのに――」
「そなたを裁く」
若者が剣を抜いた。
男は逃れようともがいたが、周囲の元奴隷たちに押さえられている。
「やめろ!」
剣が振り下ろされた。
男の声が途切れる。
同時に、リディアの胸元から鋭い熱が走った。
「――っ」
右肩を押さえる。
熱は鎖骨の下だけでは収まらず、肩から首筋へ駆け上がっていく。
「リディア、首に……」
ミアが息を呑む。
衣服の襟から、黒に近い紋章の線が覗いていた。
右肩全体へ広がった線は首筋まで伸び、いくつもの尖った意匠を形作っている。
ミアには、それが王冠のように見えた。
初めは剣にも翼にも見えた模様が、今は一つの形へまとまっていた。
「また、紋章が広がったのね」
「そのようだ」
熱はすぐに引いた。
リディアは襟を直し、次に待つ者へ目を向ける。
「話を聞こう」
「待って」
ミアはその前へ立った。
「今日は、もう終わりにして」
「まだ訴えを待つ者がいる」
「だからよ。話をしたいの」
リディアはミアの表情を見た。
いつもの呆れや苛立ちとは違う。
「分かった」
広間にいる者たちへ向き直る。
「今日の裁きは、ここまでとする」
◇
二人は総督館の外へ出た。
広場では、解放された者たちが食料や水を分けていた。
だが、それを取り仕切る者はいない。
総督は死に、兵士長もいない。都市兵は武器を捨てて逃げるか、元奴隷たちに捕らえられていた。奴隷商人の多くも、店と荷物を残して姿を消している。
通りの先では、倉庫の扉が破られていた。
穀物袋を運び出す者たちへ、子供や怪我人の分を残せと別の者たちが詰め寄っている。言い争いは殴り合いに変わり、止めようと入った者まで突き飛ばされた。
さらに遠くでは、放置された店から黒い煙が上がっていた。
鎖から解放された者たちは自由になった。
同時に、誰が物資を分け、争いを止め、都市を守るのかを決める仕組みも失われていた。
開かれた門から都市を出る者もいれば、家族や知人を捜して通りを歩く者もいる。その横で、武器を持った集団がそれぞれの判断で建物を占拠していた。
「都市をまとめる者が、もういないわ」
ミアが言った。
「総督たちが支えていたのは、人を奴隷にする秩序だ」
「それでも、何も決める人がいなければ争いは続くわ」
「残る者たちが、自分たちで決めればいい」
リディアは広場を見渡した。
「私は鎖を外した者へ、その後どう生きるかまで命じるつもりはない」
「奴隷を解放したことを責めるつもりはないわ」
ミアが先に口を開いた。
「兵士が襲ってきた時に戦ったことも、仕方がなかったと思ってる」
「ならば、何が問題なのだ?」
「戦いは終わった」
ミアは総督館を振り返った。
「今は相手を縛って、話を聞くことができる。なのに、あなたが一人で罪を決めて、その場で殺している」
「誰も裁かなければ、罪を犯した者がそのまま残る」
「だから、証言を集めて、皆で決める仕組みを作ればいいでしょう」
「それまで待てと言うのか?」
「証拠のない人まで殺すよりはいいわ」
リディアは首を横に振った。
「あの若者は兄を殺された。訴えを退ければ、悪を見逃すことになる」
「本当に悪だったかは、分からないでしょう」
「紋章が熱を持った」
「それが怖いのよ」
ミアはリディアの右肩へ視線を向けた。
「紋章が悪を見分けて熱を持ったのか、あなたが悪だと決めたから熱を持ったのか、誰にも分からない」
「これまでは間違っていなかった」
「これからも間違わない証明にはならないわ」
「では、何を信じればいい?」
リディアは問い返した。
「王家か。貴族か。この都市の法か」
どれも、大罪の紋章を持つというだけでリディアを殺そうとし、人を奴隷として扱うことを認めていた。
「間違っていると分かっているものへ、裁きを任せるつもりはない」
「だから自分だけで決めるの?」
「ほかに決める者がいないのなら、私が決める」
ミアは、総督館の広間に並んでいた者たちへ目を向けた。
「あなたが苦しんでいたことは分かってる」
「……」
「訴えを聞いて泣いていたことも、人を殺すのを楽しんでいないことも」
「当然だ」
リディアは強く答えた。
「私は、人を殺したくて剣を振るっているわけではない」
「分かってる」
「誰も人を踏みにじらなければ、私だって誰も斬らずに済んだ」
殺された者たちの家族が、泣きながら訴えていた。
誰も悪事を行わなければ、あの者たちは死なずに済んだ。
裁きを求める者が、広間へ並ぶこともなかった。
「こんな者たちがいなければ、私は剣を抜かずに済んだ」
「それでも、斬ると決めたのはあなたよ」
リディアの言葉が止まった。
「悪いのは、人を殺し、苦しめた者たちだ」
「そうよ。あの人たちがしたことは許されない」
ミアは否定しなかった。
「でも、誰を信じ、誰を殺すか決めたのは、紋章でも被害者でもない。あなたでしょう」
「では、見逃せと言うのか?」
「違う。誰か一人がその場で決めるのではなく、確かめるための仕組みを作るべきだと言っているの」
「その間にも、被害者は裁きを待ち続ける」
「だから急いで殺して、間違っていたらどうするの?」
リディアは答えられなかった。
紋章は確かに熱を持った。
だが、それが何を基準に反応しているのかは、リディアにも分からない。
「ダリオを斬った時は、十四人を殺した直後だった」
「……」
「あなたは動揺していた。落ち着けば、また違う方法を選べると思ってた」
ミアは小さく息を吐いた。
「でも、違ったのね。あなたは自分で裁く道を選んだ」
「ああ」
リディアは否定しなかった。
「私は治療師よ。助けられる者を助けるために旅をしている」
「知っている」
「これ以上一緒にいれば、あなたが誰を殺すか決めることにも加わることになる」
ミアはリディアをまっすぐ見た。
「私は、ここであなたと別れる」
◇
翌朝。
ミアは治療道具の入った鞄を肩へ掛け、開かれた都市の門に立っていた。
門を守る兵士はいない。
都市へ入ろうとしていた荷馬車は街道で止まり、立ち上る煙を見て引き返していく。門の内側では、夜の間にも食料をめぐる争いで負傷した者が、治療を求めて運ばれていた。
「一人で大丈夫なのか?」
「街道へ出れば旅人もいるわ。それに、今の私には新しい治療スキルもある」
「そうだったな」
リディアは頷いた。
「引き止めるつもりはない。そなたが決めた道だ」
「あなたなら、そう言うと思った」
ミアは少しだけ笑った。
「一緒にしたことを、全部間違いだったとは思ってない。助かった人も大勢いるから」
「ああ」
「でも、これから先まで同じ道は歩けない」
「分かった」
短い返事だった。
ほかに何を言えばよいのか、リディアには分からなかった。
「怪我をしたら、今度こそ早めに治療師を探すのよ」
「善処しよう」
「最後まで、それなのね」
ミアは背を向け、門の外へ歩き始めた。
リディアは、その姿が見えなくなるまで見送った。
「俺は残る」
隣に立っていたカイルが言った。
「アンナのことを裁いてくれた。俺は、あなたについていきたい」
その後ろには、蜂起の中でリディアと共に戦った元奴隷たちが立っていた。
「私たちも連れていってください」
「この都市に残る者もいる。別の土地へ行く者もいる。それぞれが自分で選べばいい」
リディアは集まった者たちを見る。
「私についてくることも、そなたたち自身で決めてくれ」
「決めました」
一人の男が答える。
「あなたは、俺たちを奴隷ではなく人として扱った。だから、今度は俺たちが自分であなたを選びます」
同じ言葉に、何人もの声が重なった。
リディアは頷いた。
「承知した。ならば、ともに行こう」
自分がしたことを、間違いだったとはまだ思えなかった。
裁かずに残せば、また誰かが傷つけられたかもしれない。
それでも、ミアの言葉を否定しきることもできなかった。
斬ると決めたのは、あなたよ。
その言葉と、ミアが最後に向けた目だけは、いつまでも胸に残っていた。




