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第2話 名もなき紋章

 成人の儀は、リディアが想像していたよりもずっと地味だった。


「もっとこう……光でも出るものかと思っていた」


「儀式の最中に余計なことを言うものではない」


「承知した、父上」


 父にたしなめられ、リディアは素直に口を閉じた。


 屋敷の奥にある小さな礼拝室。


 普段は家族が祈りを捧げるために使われる場所で、今日は中央の長椅子がすべて壁際へ寄せられている。


 代わりに床へ置かれているのは、成人の儀に使う銀色の水盆。その向こうには、白い祭服を身につけた神官が立っていた。


 参列者は少ない。


 父、家令、リディア付きの侍女。そしてローデン。


 成人の儀そのものは、本来なら大勢を招いて行うようなものではない。


 現れた紋章を確認し、正式に成人したのち社交界へ出る。盛大な祝いはその後だ。


 リディアにとって重要なのは、祝いの席よりも今日だった。


 自分にどんな紋章が現れるのか。


 昨日から何度考えたか分からない。


「右手を水盆へ」


「分かった」


 神官に言われた通り、水へ指先を沈める。


 ひやりとした。


「力を入れる必要はございません。目を閉じ、普段通りに呼吸してください」


「承知した」


 リディアは目を閉じた。


 礼拝室が静かになる。


 聞こえるのは、神官が唱える祭詞だけだった。意味までは分からない。古い祭祀の言葉だと聞いたことがある。


 やがて、水へ沈めていた指先が温かくなった。


 その熱が腕を通り、肩を抜け、胸へ流れ込んでくる。


 温めた水が身体の中を巡っているような、不思議な感覚だった。


 痛くはない。


 むしろ、少しくすぐったい。


「……来ます」


 神官が呟いた。


 リディアは反射的に目を開ける。


「目を閉じたままで」


「失礼した」


 もう一度目を閉じた。


 胸の奥が熱い。


 そして次の瞬間、右の鎖骨の下が強く熱を持った。


「――っ」


 焼かれるような痛みではない。


 ただ、そこに何かが現れたのだと、見なくても分かるほど明確な熱だった。


「終わりました」


 その言葉と同時に、リディアは目を開けた。


「出たか?」


「ええ。無事に」


 真っ先に胸元を確認する。


「リディア。少しは落ち着け」


「昨日から待っていたのだ。これくらいは許してほしい」


 成人の儀のため、今日は鎖骨のあたりが見える簡素な白い衣装を身につけている。


 昨日までは何もなかった肌に、紋章が浮かんでいた。


「これが……」


 思わず指先で触れる。


 黒に近い深い色。


 中央には縦長の意匠があり、その周囲を複雑な線が囲んでいる。


 剣にも見える。


 翼にも見える。


 あるいは王冠のようにも見えた。


 見る者によって印象が変わりそうな、不思議な紋章だった。


「剣に見えないか?」


 期待を込めてローデンを見る。


 老騎士は顎へ手を当てた。


「そう見えなくもありませんな」


「やはりそうだろう」


「ですが、紋章の判別は私の仕事ではありませんぞ」


「それもそうだな」


 ならば専門家へ聞けばいい。


 リディアは神官へ向き直った。


「神官殿。これは何の紋章だ?」


「……」


 返事がない。


「神官殿?」


「失礼いたしました。もう少し近くで拝見してもよろしいでしょうか」


「構わない」


 リディアは姿勢を正す。


 神官が一歩近づき、鎖骨の下に浮かんだ紋章を覗き込んだ。


「……ふむ」


 指先が宙で紋章の輪郭をなぞる。


 その表情は真剣だった。


「珍しいものなのか?」


「少なくとも、よく見かける紋章ではございません」


「ならば強い紋章なのだろうか」


「珍しさと力の強さは、必ずしも一致いたしません」


「そうか」


 少し残念ではある。


 貴族の血筋には珍しく強い紋章が現れやすい。幼い頃からそう聞かされてきただけに、期待はしていた。


「では、どのような資質を示す紋章なのだ?」


「申し訳ございません。現時点では、私にも判別できません」


 今度は、リディアも少し驚いた。


「神官殿にも分からないのか」


「ええ。私の知る紋章には、完全に一致するものがございません」


「なるほど」


 リディアはもう一度、自分の紋章を見る。


 不安より、興味の方が勝った。


「では、随分と珍しいものを引いたらしいな」


「リディア」


 父が低い声で呼ぶ。


「珍しいというだけで喜ぶな」


「悪いものと決まったわけでもないだろう、父上」


「それはそうだが」


 父は何か言いたそうな顔をしたが、それ以上は続けなかった。


 リディアは神官へ向き直る。


「スキルについては?」


「紋章が現れたからといって、すぐに発現するとは限りません」


 紋章は、その人間の資質を示すものだ。


 だが、そこから生じるスキルは、適した経験を積んだ後に初めて現れることも多い。


 剣に関わる紋章を持ちながら、初めて実戦を経験した時にスキルを得た騎士もいる。


 農業に適した紋章なら、何年も畑に立った末に能力が発現することもある。


「今は何か感じますか?」


「特にはないな」


 リディアは手を握り、開く。


 身体が軽くなったわけでもない。


 力が増した感覚もない。


 昨日までの自分と変わらなかった。


「剣を持てば、何か分かるかもしれないな」


「お嬢様」


 ローデンがすかさず口を挟む。


「礼拝室で試されるおつもりではありませんな?」


「さすがにそこまで非常識ではない」


「それを聞いて安心いたしました」


「だが、早く試したいのは事実だ」


「今日くらいは大人しくされてはいかがです」


「成人した日に大人しくしろというのも妙な話ではないか?」


「成人したからこそです」


「……一理あるな」


 侍女が小さく笑った。


 父も呆れたように息を吐く。


 いつもの光景だった。


 ただ、神官だけは笑わず、もう一度リディアの紋章へ視線を戻していた。


「神官殿」


 父が声を掛ける。


「結局、現時点では不明ということでよいのだな」


「はい。確認せずに断定することはできません」


「何か心当たりは?」


「古い意匠に似たものを見た記憶はございます。ただ、それ以上は記録を調べなければ」


 リディアが反応する。


「古い紋章なのか?」


「その可能性がある、というだけです」


「そうか。分かったら教えてくれ」


「もちろんでございます」


 リディアは満足して頷いた。


 名前すら分からない紋章。


 剣に見えるのは自分の願望かもしれない。


 それでも、何か戦いに役立つ資質なら嬉しい。


 今まで以上に強くなれるかもしれない。


「早くスキルが出てほしいものだ」


「焦って出すものではございませんぞ」


「分かっている」


 ローデンを見る。


「だから明日の稽古も頼む」


「結局それですか」


「当然だ」


 成人の儀は、それで終わった。


 恐ろしいことが起きたわけでも、身体に異常が出たわけでもない。


 ただ、名前の分からない紋章が一つ現れた。


 礼拝室を出る頃には、リディアの意識は早くも次の稽古へ向いていた。


「ローデン」


「はい」


「明日の朝も、いつも通りで頼む」


「成人した翌日くらい、ゆっくりなさっては?」


「断る」


「でしょうな」


 老騎士が苦笑する。


 リディアは侍女と共に礼拝室を出た。


 扉が閉まり、廊下を進む足音が遠ざかっていく。


 礼拝室には、父と神官が残った。


「神官殿」


 先ほどまでとは違う低い声で、父が口を開く。


「娘には聞かせなかったが、ただ珍しいだけではないのだろう」


 神官はすぐには答えなかった。


「……まだ断定はできません」


「それは先ほど聞いた」


「はい」


「私が尋ねているのは、確認する必要があるほどの紋章なのかということだ」


 神官は少し迷い、それから頷いた。


「ございます」


 父の表情が固くなる。


「古い記録を調べます。私の記憶違いであれば、それで済みます」


「そうでなければ?」


「まず、何の系統に属する紋章なのかを確定させます。それまでは何も申し上げられません」


「……分かった」


 父は閉じられた扉へ視線を向けた。


「急いでくれ」


「承知いたしました」


 神官が頭を下げる。


 銀色の水盆には、儀式の名残で小さな波紋が残っていた。


 まだ、紋章の名は誰にも分からない。


 少なくとも、確かめられるまでは。

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