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第1話 剣の紋章が欲しい

 朝露の残る庭に、甲高い金属音が響いた。


「やっ!」


 リディアが踏み込み、木立の間を抜ける風よりも鋭く剣を振るう。


 狙いは正面。老騎士ローデンの肩。


 だが、剣先が届くより先に彼の剣がわずかに動いた。それだけでリディアの剣は外へ流される。


「あっ――」


「剣だけを見ておりますぞ」


 次の瞬間には、胸元へ剣先を突きつけられていた。


 リディアは動きを止める。


 もちろん刃は潰してある。それでも実戦なら、今ので終わりだ。


「……またか」


「またですな」


 ローデンが剣を引く。


 白髪の混じった短い髪。深く刻まれた皺。左頬には、昔の戦で負ったという長い傷跡がある。


 年齢だけを見れば、とっくに若い騎士へ役目を譲っていてもおかしくない。


 だが、この屋敷でローデンより強い騎士はいなかった。


 父が最も信頼する騎士。そして、リディアが幼い頃から憧れてきた人でもある。


「剣を見ずに避けるのは難しいな」


「だからこそ、剣だけを見てはならぬのです」


「相手の肩と腰、だったな」


「ええ。剣が動く前に身体が動く。剣先を追っていては遅いのです」


「昨日も同じことを教わった」


「そして今日もできておりませんな」


「その通りだ。もう一度頼む」


 リディアが剣を構え直す。


 ローデンが小さく笑った。


「その負けず嫌いだけは、昔から変わりませんな」


「負けたまま終わる趣味はない」


「では、参りますぞ」


「頼む!」


 再び剣がぶつかった。


 今度こそ剣先だけを追わない。


 肩。腰。足。


 ローデンが一歩踏み込む。


 右から来る。


 そう読んで剣を合わせようとした瞬間、足元を払われた。


「なっ――!」


 視界がひっくり返り、尻から地面へ落ちる。


「痛っ……!」


「剣士が剣だけで戦うとは限りません」


「……なるほど。確かに、今のは私が甘かった」


「おや。卑怯だとはおっしゃらぬので?」


「戦場で相手に正々堂々と戦えと言っても始まらないだろう」


「よく分かっておられます」


「分かってはいる。実際にやられると腹が立つだけだ」


 ローデンが差し出した手を取り、リディアは立ち上がった。


 身につけているのはドレスではなく、動きやすい訓練着。髪も後ろでひとまとめにしている。


 貴族令嬢らしい姿とは、少なくとも今は言い難い。


 母が生きていた頃なら、もう少し小言を言われただろう。


 それでも剣をやめるつもりはなかった。


 舞踏も嫌いではない。刺繍も、できないわけではない。貴族として必要な勉強も怠ってはいない。


 ただ、それらと比べれば、剣を振るっている時間が一番好きだった。


「明日ですな」


 ローデンが不意に言った。


「成人の儀か」


「ええ」


「忘れてはいない。むしろ、ここ数日はずっと気になっている」


 成人の日。


 誰もが生涯に一度、自らの身体に紋章を得る。


 剣に秀でる者。魔術に適性を持つ者。商売に才を持つ者。豊かな実りをもたらす者。


 紋章はその者の持つ資質を示し、時には人生すら左右する。


「楽しみか、それとも怖いですかな」


「楽しみだ」


 リディアは迷わず答え、自分の剣を見る。


「剣に関わる紋章なら申し分ない」


「ずいぶんと迷いがありませんな」


「当然だ。できれば、とびきり強いものがいい」


「欲張りですな」


「貴族の血筋には、強い紋章が現れやすいのだろう?」


「そう言われてはおります」


「ならば期待くらいしても構わないだろう」


 リディアは笑った。


「ローデンのような騎士になれる紋章なら、なお良い」


 老騎士は一瞬だけ黙った。


 それから、いつもの穏やかな顔で答える。


「どのような紋章であろうと、お嬢様はお嬢様でしょう」


「それはそうだが……」


 少しだけ肩透かしだった。


 もっと、「きっと剣の紋章が出ますぞ」くらいは言ってくれると思っていたのだ。


 リディアが再び剣を構えようとした時、庭の向こうから大きな声が聞こえてきた。


「何をしている! その皿はいくらすると思っている!」


 男の怒声。


 続いて、小さな謝罪の声がする。


「申し訳ございません……」


 リディアが振り返った。


 屋敷へ荷を運ぶ使用人たちのいる方角だ。


「見てくる」


「お嬢様」


「すぐ戻る。剣を頼む」


 剣をローデンへ預け、そのまま声の方へ向かった。


 屋敷の裏手では、若い侍女が青ざめた顔で頭を下げていた。


 足元には何枚もの皿が割れている。


 その前に立っているのは、使用人たちをまとめる中年の男だった。


「何があった?」


「お、お嬢様」


 男が慌てて姿勢を正した。


「この者が運んでいた皿を落としまして。まったく、不注意にもほどがあります」


 リディアは床の皿を見る。


 それから、侍女の腕にまだ残っている大きな籠へ目を向けた。


 中には皿や食器が何段にも重ねられている。


「これを一人で運ばせたのか?」


「本日の昼食の準備が遅れておりましたので、急がせました」


「なるほど」


 リディアは侍女を見る。


「落としたのは、この籠に入っていた皿か?」


「……はい」


「無理な量だった?」


 侍女は少し迷い、中年の男へ視線を向けた。


「答えて構わない」


「……はい。ですが、私がもっと注意していれば」


「そこまででいい」


 リディアは男へ向き直る。


「急げと命じ、これだけの量を一人で持たせたのはそなただな」


「ですが、お嬢様。この者が落としたことに違いはございません」


「それはそうだ」


 男が少し安心した顔をする。


 リディアは続けた。


「だから、この者にも注意は必要だ。だが、無理な量を持たせたそなたにも責任がある」


「私にも、でございますか?」


「当然だろう」


 リディアは籠を指す。


「部下に無理な命令を出しておいて、失敗した時だけすべて部下の責任というのは通らない」


「しかし――」


「次からは二人に分けろ。それで済む話だ」


 男は口を閉じた。


「割れた皿については?」


「この者の給金から――」


「それは認めない」


 リディアは即座に遮った。


「そなたの指示にも原因がある。侍女一人に負わせるべきではない」


「……承知いたしました」


「よし。ならば片づけを手伝え」


「私が、でございますか?」


「自分の指示で起きたことだろう?」


「……はい」


 男は観念したように頭を下げた。


 リディアは侍女へ向き直る。


「そなたも次から、無理だと思ったなら先に言え」


「ですが、私のような者が――」


「言わずに皿を割るよりいい」


「……はい!」


 侍女が深く頭を下げる。


「では、頼む」


 二人に任せ、リディアはその場を離れた。


「相変わらずですな」


「っ」


 いつの間にか、後ろにローデンが立っていた。


「気配もなく立つのはやめてくれ」


「騎士としては褒め言葉ですな」


「今は褒めていない」


 ローデンが笑う。


「お嬢様は昔から、曲がったことがお嫌いですな」


「嫌いというより、単純な話だ」


 リディアは割れた皿を片づけ始めた二人を見る。


「命令した者には、その結果に責任がある。立場が上だからといって、失敗だけ下へ押しつけてよい理由にはならない」


「ええ」


「ならば、正せばいい。それだけだろう?」


「そうですな」


 リディアにとっては、特別なことを言ったつもりはなかった。


 ローデンも否定しない。


「では、その正義のお嬢様」


「何だ?」


「稽古はまだ途中ですぞ」


「……そうだったな」


 ローデンが庭を指す。


「戻りましょう。明日は成人の儀です。今日くらいは一本取っていただきませんとな」


「言ったな」


 リディアは笑った。


「ならば、取るまで付き合ってもらうぞ」


「これは余計なことを申しましたかな」


「もう遅い」


 二人は再び庭へ戻っていく。


 明日、自分にどんな紋章が現れるのか。


 それはまだ分からない。


 だが、リディアには一つだけ望みがあった。


 もっと強くなりたい。


 そして、その力を正しいことのために使いたい。


 できることなら。


 剣の紋章がいい。

※毎日8:00・20:00の2話更新です。初日と最終日のみ複数話を投稿します。

全話完成済み、完結まで予約投稿済みです。

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