第10話 若き騎士エドガー
町の門を出てから、一刻ほどが過ぎていた。
二人は次の町へ続く街道を、馬に乗って進んでいた。
空はよく晴れている。街道の両側には草原が広がり、時折吹く風が伸びた草を揺らしていた。
「次の町までは、あとどのくらいだ?」
リディアが尋ねると、ミアは片手で手綱を握ったまま地図を開いた。
「このまま進めば、日が暮れる前には着くと思う」
「そうか。ならば、もう少し急がせよう」
「やめた方がいいわよ」
「なぜだ?」
「馬が疲れるから。町を出てから、ずっと同じ速さで走らせてるでしょ」
リディアは自分の乗る馬を見る。
「まだ動けそうだが」
「あなたじゃなくて、馬の話をしてるの」
「……少し速度を落とそう」
「そうした方がいいわね」
二人は馬の速度を緩めた。
リディアは馬に乗ること自体には慣れている。
屋敷にいた頃も、遠乗りや狩りへ同行する機会はあった。
だが、その時は馬の世話をする者が必ずそばにいた。どの程度走らせれば疲れるのか、自分で考えたことはほとんどない。
「疲れているかどうかは、どこを見れば分かる?」
「息遣いと汗。それから、足取りね」
ミアはリディアの馬を横から確認した。
「今すぐ倒れるほどじゃないけど、このまま走らせ続けるのはよくないわ」
「そうか。覚えておこう」
街道の先には、大きな木が一本立っている。
枝が広く伸び、その下には十分な日陰ができていた。
ミアも同じ木に気づいたらしい。
「あそこで一旦休みましょう」
「承知した」
「それに、あなたも少し休んだ方がいいんじゃない?」
「私は疲れていない」
「そう言うと思った」
二人は街道を外れ、木陰へ馬を進めた。
木のそばには、すでに一人の旅人が腰を下ろしていた。
こちらを見てもいない。
帽子を深くかぶり、荷物へ背を預けて休んでいる。
リディアは一度だけ男へ視線を向けたが、それ以上は気にしなかった。
二人は少し離れた場所で馬から降りた。
「鞍を緩めてあげて。私は水を用意するから」
「分かった」
リディアは教えられた通り、鞍を固定する帯へ手を掛けた。
金具を外そうとしたところで、背後から声を掛けられた。
「リディア様」
手が止まった。
ミアが訝しげにリディアを見る。
「リディア?」
リディアは答えず、ゆっくりと振り返った。
先ほどまで休んでいた若い男が立ち上がり、こちらを見ている。
旅人らしい気の抜けた雰囲気は、すでに消えていた。
鍛えられた身体。隙のない立ち方。そして腰に差した剣。
リディアの手が剣の柄へ向かう。
「何者だ?」
「エドガー・ヴェインと申します。旦那様に仕える騎士です」
エドガーは丁寧に一礼した。
「私を知っているのか」
「屋敷で何度かお見かけしました。覚えていただけていなかったようですが」
「騎士は多かった。悪く思わないでくれ」
「いえ。今日、覚えていただければ十分です」
エドガーの手が剣へ触れる。
リディアはその動きを見逃さなかった。
「町で私たちを見ていたのも、そなただな」
「ええ。大罪の紋章がどれほどの力を持つのか、確かめておきたかったので」
ミアが息をのむ。
「大罪……?」
「説明は後だ」
リディアは短く答え、エドガーへ視線を戻した。
「ローデンは生きているか?」
「ええ。傷は深かったようですがね」
「そうか」
胸の奥に残っていた不安が、わずかに軽くなる。
「そなたへの命令は?」
「リディア様を討てと」
エドガーは剣を抜いた。
迷いのない動作だった。
リディアも抜剣する。
「ミア。馬を連れて離れてくれ」
「一人で戦うつもり?」
「狙われているのは私だ。近くにいれば巻き込まれる」
「でも――」
「頼む」
ミアは唇を結んだ。
しばらくリディアを見つめてから、二頭の馬の手綱を取る。
「後で全部話してもらうからね」
「承知した」
「それと、死なないで」
「善処する」
「そこは約束しなさいよ」
ミアが街道から離れていく。
エドガーは追わない。
最初から、リディアだけを見ていた。
ミアが十分に離れたことを確認してから、エドガーは改めて剣を構えた。
「始めてもよろしいですか」
「ああ。来い」
エドガーが踏み込んだ。
剣を斜めに合わせて受け流す。
エドガーは無理に押し込まず、すぐに距離を取った。
次は右からの斬撃。
それも浅い。
リディアが防ぐと、エドガーは再び下がる。
「随分と慎重だな」
「ローデン殿を退けた方ですから」
言葉とは裏腹に、その顔にはまだ余裕があった。
エドガーは小さく踏み込み、剣先をリディアの肩へ向ける。
受けようとした瞬間、剣が止まった。
刃が下から跳ね上がる。
「っ!」
リディアは後ろへ跳んだ。
着地したところへ、すでに次の剣が来ている。
右へ避ける。
だが、その動きも読まれていた。
切っ先がリディアの上着を裂く。
追撃が来る。
「ぐっ……!」
どうにか剣を合わせたが、力を流せない。正面から押し込まれ、数歩後退する。
エドガーは深追いせず、また距離を取った。
今の攻防でも、こちらの動きを調べていた。
「同じ剣を学んだ者は戦いにくいな」
「やはりお気づきになりましたか」
「ローデンが騎士団へ広めた型だろう」
「ええ。ですから、あなたが教わった基本も存じております」
エドガーの構えは、リディアのものとよく似ていた。
剣を受ける時は、力を正面から止めない。
足運びを崩さず、常に次の一撃へ備える。
リディアが幼い頃から教わってきたものを、エドガーも身につけている。
しかも、騎士としての実戦経験は向こうが上だ。
再び剣がぶつかる。
リディアが攻めれば、動き始めを読まれる。
エドガーの剣を避けても、逃げた先へ次の攻撃が来る。
構えを崩され、立て直そうと右足を引いた瞬間、エドガーが一気に距離を詰めた。
刃が左肩をかすめる。
「くっ……!」
熱い痛みが走り、服に血がにじんだ。
リディアは大きく後退する。
呼吸が乱れていた。
エドガーは、まだ落ち着いている。
「やはり、そういうことでしたか」
「何がだ」
「ローデン殿は、本気であなたを討とうとはしなかった」
否定はできない。
ローデンは剣を渡し、戦いながら教え、最後には自ら隙を作った。
だからリディアは逃げられた。
目の前の男は違う。
「正直に申し上げれば、警戒しすぎていたようです」
エドガーの攻撃が変わった。
先ほどまでの探るような剣ではない。
鋭い斬撃が立て続けに迫る。
リディアは受けるだけで精いっぱいだった。
一撃ごとに腕が痺れる。
防御を崩され、剣先が頬をかすめた。
血が一筋流れ落ちる。
「町での戦いを見て、どれほどの怪物かと思いましたが」
エドガーが踏み込む。
「どうやら、この程度らしい」
横薙ぎを受けたリディアの剣が、大きく弾かれる。
胸元が空いた。
エドガーは剣を止め、勝利を確信した笑みを浮かべた。
「ローデン殿を退けた大罪持ちを討てば、もう誰も私を若造とは呼ばないでしょう」
「……主命だけではなかったのか」
「もちろん主命は果たします」
エドガーが剣先をリディアへ向ける。
「その功績で私の名も上がる。これほどよい機会はありません」
「そのために、私を殺すのか」
「ええ」
エドガーは当然のことのように頷いた。
「私の名を上げるために、ここで死んでいただきます」
胸元が熱を持った。
リディアはエドガーを見据える。
家の命令に従う騎士。
それだけなら、ローデンと同じだった。
忠義のために剣を振るう者を、悪だとは断じ切れなかった。
だが、この男は違う。
リディアの命を、自分が出世するための踏み台としか考えていない。
「それは認められない」
「今さら命乞いですか?」
「違う」
リディアは剣を構え直した。
「名を上げるために、何の罪もない者を殺す。そなたの行いは悪だ」
胸元が熱を持った。
身体の奥から力が湧き上がる。
《断罪》
「そなたを、ここで止める」
エドガーが踏み込んだ。
先ほどまで避け切れなかった剣が迫る。
今度は見えた。
肩の動き。
腰のひねり。
踏み込む足。
剣が来るより早く、リディアはその軌道へ自分の刃を合わせる。
甲高い音が鳴った。
エドガーの剣が止まる。
「なに……?」
リディアは押し返し、そのまま斬り込んだ。
一撃目を受けられる。
ならば二撃目。
エドガーが後退する。
三撃目。
剣を受け止められた瞬間、リディアはさらに踏み込んだ。
近い間合いから膝を蹴る。
「ぐっ!」
エドガーの体勢が崩れる。
リディアの剣が胸元を浅く裂いた。
エドガーが素早く距離を取り直す。
先ほどまで浮かべていた余裕は、もう消えていた。
「これが大罪の力か……!」
エドガーは胸元の傷を一瞥し、剣を握り直した。
右腕が淡く光り、袖口の下から剣をかたどった紋章が浮かび上がる。
「だが、私の紋章は《迅剣》! 剣を振るうために選ばれた者の紋章だ!」
直後、振るわれた剣が急激に加速した。
「っ――!」
リディアは身体を引いた。
避け切れず、切っ先が頬を裂く。
さらに二撃目。
反応は間に合ったが、剣を弾かれ、腕に強い痺れが残った。
エドガーは間を与えず、さらに攻め込んでくる。
身体そのものが速くなったわけではない。
肩も腰も、動き始めは見える。
だが、そこから剣が届くまでが異常に速い。
分かっていても、防御が間に合わない。
腕。
肩。
外套。
致命傷は避けているものの、斬撃を受けるたびに傷が増えていく。
《断罪》があれば、誰にでも勝てるわけではない。
自分が紋章の力を得たように、相手にも力がある。
それでも、リディアは退かなかった。
剣速が上がっているなら、その剣が振るわれる前に動けばいい。
リディアはエドガーの踏み込みに合わせ、自分から距離を詰める。
剣を振り切る前に動きを止めるつもりだった。
だが、エドガーは無理に剣を振らない。
半歩だけ斜めへ退き、リディアの剣を受け流す。
そのまま乱れのない足運びで間合いを取り直した。
追おうとしたリディアの喉へ、鋭い突きが放たれる。
顔をそらして避ける。
剣はすぐに引かれ、正眼の構えへ戻った。
しかし、エドガーの呼吸は荒くなっていた。
正確だった剣筋にも、わずかな焦りが混じり始めている。
「なぜ倒れない……!」
エドガーが苛立たしげに吐き捨てた。
「お前を討てば、私の名が上がるのだ! だから、さっさと死ね!」
右腕の紋章が再び光る。
高速の斬撃をリディアが受けた。
衝撃に耐え、剣を押し返す。
リディアの剣が脇腹を狙い、エドガーの刃に防がれる。
攻撃の速さは変わらない。
だが、一撃ごとの動きが大きくなっていた。
互いの剣が離れた瞬間、同時に踏み込む。
エドガーの剣が首へ迫る。
リディアは身を沈めて避けた。
頭上を刃が通り過ぎる。
低い姿勢から、リディアが胴を薙ぐ。
エドガーは後ろへ跳び、紙一重でかわした。
着地と同時に剣を振り上げる。
紋章がこれまで以上に強く輝いた。
「これで終わりだ!」
力任せに加速した刃が、リディアの頭上へ振り下ろされる。
受ければ、剣ごと叩き切られる。
リディアは地面へ転がった。
エドガーの剣が、頭のすぐそばを通った。
全力で振り下ろされた刃は止まらず、街道の土へ深く食い込んだ。
エドガーが慌てて剣を引く。
だが、すぐには抜けない。
「しまった――!」
その瞬間。
エドガーの胸元が、完全に空いた。
ほんの一瞬だけ生まれた、致命的な隙。
ローデンとの戦いが脳裏をよぎる。
あの時も、剣を伸ばせば胸へ届いた。
だが、ローデンがわざと隙を見せたと分かったから、リディアは剣を逸らした。
今は違う。
エドガーは剣を引き抜こうとしている。
この機会を逃せば、次の一撃が来る。
迷う時間はなかった。
リディアは地面を蹴り、剣を突き出した。
刃がエドガーの胸へ入った。
「――ぐっ」
エドガーの動きが止まる。
驚いたように、自分の胸へ視線を落とした。
リディアの両手に、肉を貫いた感触が残っている。
エドガーが何かを言おうとした。
だが、言葉にはならなかった。
口元から血があふれる。
剣を握っていた手から力が抜け、その身体がリディアへもたれかかった。
リディアは剣を引き抜く。
エドガーは膝から崩れ、地面へ倒れた。
「リディア!」
ミアが駆け寄ってくる。
「座って。傷を見せて」
「エドガーは……」
「あの傷では助からない。今はあなたが先よ」
ミアは返事を待たず、リディアを街道脇へ座らせた。
すぐに鞄を開き、血に染まった衣服を切り開く。
「動かないで。傷が開く」
「この程度なら耐えられる」
「耐えられるかどうかは聞いてない。じっとして」
「……分かった」
ミアは薬を塗り、清潔な布を傷口へ押し当てた。
その間も、リディアは自分の剣から目を離せなかった。
刃が赤く染まっている。
これまでにも人を斬った。
ローデンへ重傷を負わせ、町の男たちを何人も倒した。
それでも、命を奪ったことはなかった。
今は違う。
「私が殺した」
言葉にした途端、剣を持つ手が震え始めた。
「殺さなければ、あなたが殺されていたわ」
「分かっている」
呼吸がうまく整わない。
胸元から《断罪》の熱が消え、代わりに傷の痛みと血の感触が戻ってくる。
「リディア」
ミアの声から、普段の軽さが消えていた。
リディアは動かなくなったエドガーを見る。
「殺したかったわけではない」
その言葉を口にしても、震えは止まらなかった。
「だが、あそこで急所を外せば、私が死んでいた」
人を殺したという事実に、身体は震えている。
それでも、あの瞬間に剣を逸らすべきだったとは思わなかった。
剣を突き出すと決めたのは、リディア自身だ。
ならば、この結果も自分で背負わなければならない。
町で《断罪》を得た時、リディアは悪を止めるための力だと信じた。
その考えは、今も変わらない。
ただ、正しいと信じて振るった剣であっても、人の命を奪うことがある。
それを、今日初めて知った。
リディアは震える手で、血に濡れた剣を鞘へ収めた。
正しいと思う道を進む。
その道で流れた血からも、もう目を逸らさない。
それが、リディアが自分で選んだ答えだった。




