5-5 ジョンとの出会い
髪飾りの事件から数ヶ月がたった。今夜もルビアは美しい歌声で拍手を浴びている。ショーが終わると、酒の入った客達が自分の席にルビアを呼ぼうとする。イライザは、ルビアを決して酒の席に出さず、客が勝手にルビアの虚像を作り上げていくのを待った。
ジョン・コックスはリーズ駅を擁するコックス領の男爵である。男爵といっても、まだ26歳、黒髪、黒目の精悍で爽やかな青年である。
今夜は事業仲間からルビアの歌を聴きに行かないかと誘われ、初めてサロン・ルージュにやってきた。ルビアは確かに上手であったが心引かれるものはなかった。
(やはり来るんじゃなかったなぁ)
こうした場所が苦手なジョンは、ホールの喧噪から逃れるように中庭に出たのだが、ブラブラしているうちに館の奥の方まで来てしまったようだ。引き返そうと思ったとき、どこからか歌が聞こえてきた。
♪りんごの花が芽吹く頃
そっと会釈をかわしたの
言葉を交わすこともなく
あなたは戦に旅立った~
少女の声だった。自分を主張しない、聴く者が癒やされていく温かな声だった。声のする方に行ってみると、どうやらリネン室で歌っているようだ。ジョンが、しばらくそこで佇んでいると、声が止んでドアが開いた。たくさんの折りたたんだシーツを持った少女…
(えっ、少年?)
その少年は、ドアの前に人がいるとは思わなかったのだろう。ジョンに驚いて目を見開き、申し訳なさそうにぺこりとお辞儀をして横を通りすぎた。
「き、君、名前は?」
ジョンは声をかけたが振り向くこともなく、少年は去って行った。
(少年?いや声は少女のものだ。後ろ姿の髪も男ならあんなに長くはしない…きっと少女だ)
◇
サロン・ルージュには、館の横に馬車停まりがあるのだが、裏庭からはそこがよく見えた。リリは、馬車を停めに来る御者や従者の顔を覚え、彼らの主、つまり客の顔は知らないが、その従者の主のつまみや料理の好みを覚えていた。先回りをしてそれを準備しておくと、客からも従業員からも喜ばれるのだ。
ここのところ、昼間に見慣れぬ従者をたびたび目にする。リリは、お館様に何用だろうと気になっていた。そこへ男衆がリリを呼びにきた。
「リリ、お館様がお呼びだ。表の応接室だ、急げ。」
(表?)
リリが表に呼ばれることなど今まで一度もなかった。この格好でいいのだろうか、といってもリリにはこの格好しかない。男衆に急かされてリリは走った。
応接室にはいるとリリは固まった。お館様と一緒に居たのは、先日リネン室の前で出会った客だった。何か叱られるのだろうか…。イライザに自分の横に座るように言われて、リリはお客にお辞儀をすると腰を下ろした。
「この子はウチの下女だった者の子供で、同じ仕事をしているんですよ。ほんとにこの子でいいんですか?」
「ああ。君、先日は驚かせてすまなかったね。私はジョン・コックスだ。悪いが、少し歌を聴かせてくれないか?」
リリは、イライザの様子を伺ってから、小さな声で1フレーズ歌った。
「ああ間違いない、この子だ。イライザ夫人、コックス家の事情は先日話したとおりだ、この子を譲ってくれないか?養女にして学校に行かせることも約束する。そちらの言い値でいいよ。」
「いや、この子は娼婦じゃないんでね。まあ、ここだけの話し、北の男爵様がルビアを気に入って下さいましてね、左の棟に出す前に身請けしたいとおっしゃられて、それはもう破格の値段を提示頂いていたのですよ。それが奥様に見つかったとかで…話しがなくなりましてね。
このお話は、私どもにとっても渡りに舟ではあるのです。でも、私も鬼ではございません。リリが生まれた時から知っているんです。学問をつけさせてくれるならリリのためにもなりましょう。リリは頭がいいですからね。ただ、リリが抜けると次の働き手を捜さないといけないので、その辺の心付けだけお願いしますよ。」
リリは、どうやら二人が自分のことで何か大変なことを話しているようで混乱した。それに気がついたのかジョンが、リリアに優しい眼差しを向けた。
「一方的に話してすまないね。君、ウチの養女になってくれないか?ウチには心の病になったお祖母様がいてね、君の歌を聴かせて欲しいんだ。事情はまたゆっくり話すがね。その代わりといっては何だが学校に通わせてあげるよ。学校に行くためには身元がいるからね、養女になって欲しいんだ。」
「ヨウジョ?ガッコ?」
「リリを男爵様の家の子に欲しいとおっしゃって下さっているんだ。こんないい話、天地がひっくり返ってもないよ。いいかい?」
リリは、イライザの様子を伺って「はい」と答えた。お館様が決めていることに「否」はなかった。どこに行っても働く、それがリリの全てだった。
「よかった、よろしく頼むよ。」
ジョンは、リリに手を差し出した。リリはまたイライザの様子を伺って、おずおずとその手に触れるとジョンは優しくリリの手を包んだ。
(大きな手…)
そして温かな手だった。幼い時、男衆に手を引かれたり抱っこをされた微かな記憶はあるが、はっきりと男の手に触れたのはこれが初めてだった。
ジョンはリリの手を放さず聞いてきた。
「ところで、リリという名前は親御さんがつけたのかな?」
「いえね、リリの母親はしゃべることができなくてね。皆が勝手につけた名前なんですよ、いつの間にかリリって。男爵様が気に入らなかったら別の名に変えて頂いて差し支えないかと。」
イライザがリリのかわりに答え、リリは頷いた。
「そうか…リリ…リリ…リリアはどうだろうか?」
「リリア?」
「そうだ、リリアだ。君は今日からリリア・コックスだ、いいね?」
「リリア・コックス?」
「そうだ、明日の今頃迎えにくるよ。では、イライザ夫人宜しくお願いする。」
ジョンは、イライザが算段した以上の額の小切手を切って去って行った。
◇
リリはその日も律儀にすべての仕事を終わらせ帳場に行くと、イライザから水色のワンピースと白い靴を渡された、急遽見繕ったのだろう。
「リリ、長い間ご苦労だったね。コックス男爵の言うことをよく聞いて大事にしてもらうんだよ。今夜は最後に風呂に入りな。男衆に湯を運ばせているよ。明日はこの服を着ていきなさい。その化粧もしなくていいよ。」
サロン・ルージュには当時としては珍しい風呂があった。客が所望すれば、別料金で風呂に入れるのだ。
衛生上の問題で娼婦たちも1ヶ月に一度風呂に入れた。当たり前だが上から順番だ。リリも最後に入れたが、桶の底に冷たくなった水がはいっているだけで、風呂掃除に行っているようなものだった。
それが今日は、なみなみと入った温かい湯に身体を沈めることができた。リリは、湯涌のすみに縮こまって座り湯のにおいを嗅いだ。こんなことがあっていいのだろうかと逆に不安になった。
翌朝、リリは着古した衣類を処分し部屋を掃除した。欠けた鏡をきれいに磨き、ちびたろうそく立ての蝋をぬぐった。小さな窓を開けて風をいれ、ドアの前に立つ。リリが持って行くものは何もない。マーサと過ごした日々、男の子として過ごした日々、リリなりの感傷で涙がこぼれた。
リリは部屋に深々とお辞儀をしてドアを閉めた。
◇
リリは、館の一人一人に挨拶をして回った。イライザから皆には、知人に引き取られると知らされていた。男衆、従業員の人々、娼婦たち、ルビアは横を向いてこちらを見ようとはしない。
料理人ジーナは、手作りの菓子を持たせてくれた。
「どこに行くか知らないが、手土産くらい持っていきな。私の菓子は子爵家でも評判だったんだ、きっと喜ばれるさ。リリ、元気にするんだよ。」
「ありがとう、ジーナ」
リリは、リリの腕では回りきらない膨よかなジーナの腰に抱きついた。
リリは、最後にローザのところに寄った。
「リリ、こっちにおいで」
ローザは、リリを鏡の前に座らせると、いつものように一つに束ねている髪を解いてブラシで丁寧に梳いてくれた。
「いい?リリは女の子だよ。これから女の子として生きるんだ。いつかリリのことを大事にしてくれる人と幸せになるんだよ。」
「はい」
ローザは、たくさんある髪結びの紐の中からワンピースと同じ水色を選び、リリの髪にリボン結びにしてくれた。
リリは、ローザのあの水色の便箋と、送られてくるピンクの封筒を思い出した。




