5-3 リリのお使い
リリは、マーサの死が理解できなかった。
部屋に一人きりだ、でもマーサはここに居ないだけ。そのうち戻ってきて、またリリを優しくなでてくれる。マーサが帰ってきたとき、リリが居ないと困るから、リリはここに居なければ…。リリはマーサの葬儀の日から部屋にこもっていた。
葬儀から3日めの朝、荒々しくドアが叩かれ男衆の一人が入ってきた。もとより鍵などない部屋だ。リリはのろのろとベッドから起き上がった。
「リリ、大丈夫か?お館様がお呼びだ。帳場で待ってらっしゃる。」
サロン・ルージュの者は、イライザのことをお館様と呼ぶ。リリは急いで支度をして、帳場の戸口でぺこりとお辞儀をした。
「リリかい?お入り。そこに座りな。」
何か書き物をしていたイライザは、戸口のリリを認めると顎でソファを指し、自分もリリのそばに座った。
「リリ、マーサのことは残念だったね。おまえには酷なことだったろう。おまえはまだ小さい。でもここには働かない者は置いておけない。わかるね?」
リリは、こくりと頷いた。
「マーサの仕事はだいたいわかっているだろ?左の棟には近づいちゃいけない。湯は男衆に運ばせる。それからリネンは女どもに持ってこさせる。それ以外はやれるところからやるんだ。リリ、どうだ?やれるか?」
リリは再び、こくりと頷いた。
「はい、と返事をするんだ。それから朝食を私が食べている間に、読み書きと算術を教えてやるよ。これから必要になるからね。」
リリは驚いてイライザの顔を見上げた。
イライザは、リリの顎に手を伸ばし、さらに顔を上げさせてリリをまじまじと見た後、戸棚から何か入れ物を出してリリに渡した。
「いいかい、よくお聞き。今まで通り髪は伸ばしちゃいけない。トラウザーを履くこと。そして朝起きたらこれを顔と手に塗りなさい。」
リリが入れ物の蓋を開けると、どろっとした茶色い液体が入っていた。
「まだよくわからないだろうが、おまえが女の子とわかると、おまえが辛い思いをする。だから男の子の格好をするんだ、いいね。それから客に絶対会ってはいけない。男衆にも気をつけるんだ。男と二人きりになってはいけないよ。」
「うん」
「はい、だ。」
「はい」
リリは働き出したが、自分が働くのと手伝うのとでは全く違う。数々の失敗にイライザや娼婦から叱責された。夜、部屋に戻ると、ちびたろうそくに灯をともし、欠けた鏡にうつる自分の顔に声をかけた。
「マーサ…」と。
◇
リリは10歳になった。マーサがやっていたことは、もうほとんどできる。
この3年間にリリが悟ったことは、与えられたこと以上の働きを自分で考えてすることだ。そうすると人は認めてくれる。ここに居ていいと自分で自分を認められる。人の言動を観察し次を察して動く、リリは人一倍動くことが苦ではなかった。
きっとマーサもそうしていたのだろう。マーサには愚痴も、文句も、怒りや悲しみもなかった。その感情を知らないようでさえあった。もしマーサに人としての誇りがあったとしたら、与えられたことを日々やり遂げる、その積み重ねにあったのだろう。
リリがマーサと違ったのは、繕い物を自分の部屋に持ち込まず、衣装部屋で作業したことだ。衣装部屋は表のステージに近く、楽器の演奏や歌がよく聞こえたからだ。
リリは歌が好きだった。リリは誰もいない衣装部屋で、こっそりリボンを自分の頭にさし、大きな鏡に自分を映して踊りながら歌を歌ってみるのだ。だがイライザに言いつけられている茶色い顔の自分は醜くて悲しい気持ちになった。
サロン・ルージュの娼婦は驚くことに全員が貴族出身だ。没落貴族が後を絶たず、悲しい話だが、生活力のない貴族の娘は即、娼館に売られる。貴族は礼儀作法を教えられているし教養もある。サロンで教えなくても客が喜ぶ術をすでに持っている。ブローカー達も貴族の娘となると、まず高級娼館であるここに連れてくるのだ。
リリも、薄々ここがどんな所かわかっている。そして読み書きや算術を教えてくれるのも、10歳になってから髪を伸ばすよう言われたのも、いずれ自分にも客の相手をさせるためだろう。リリは、どうなったとしても働くだけだ。
◇
イライザは機転のきくリリを信用して、時々街までお使いに出してくれるようになった。館の用事だけでなく、たまに娼婦からも買い物を頼まれた。娼婦は、イライザの許可をもらって男衆がついていないと外出できないからだ。
ローザは、サロン・ルージュのトップの売れっ子だ。左の棟の2階に自分の部屋を持ち、ローザが客を選ぶほどの人気である。
娼婦は自分を誇示してなんぼの世界だ。人を蹴落として這い上がらなければ上にはなれない。心がすり切れていく娼婦が多いなかで、ローザは今も品があり、リリにも優しかった。
リリがリネンを運ぶため小走りで廊下を通っていた時だった。リリはいつも小走りだ。急がないと一日の仕事が終わらない。
「リリ、ちょっと…」
ローザが、部屋から手招きをしている。リリの顔がぱぁと明るんで部屋に入っていく。
「リリ、また水色の便箋とインクを頼まれてくれるかい?」
「はい!」
リリは、ローザが好きだった。リリは、ローザがその便箋で手紙を出す相手がたった一人だと知っている。そしてピンクの便箋に女性名でローザ宛てに届く手紙は、おそらく女性ではない。
その手紙を読むローザの切なそうな顔をリリは忘れられなかった。きっとローザのとても大切な人に違いない。だからそのお使いは、リリにとっても、とても大切なものだったのだ。
ローザは、リリに駄賃とあめ玉を握らせて小声で言った。
「あめ玉は、そこの角を曲がって館が見えなくなってから口にいれて、店に着くまでに食べてしまうんだよ。これは内緒ね!」
ローラは、リリの口元に人差し指をあてるとにっこりと笑った。リリがコクコクと頭をふると、その頭を優しくなでてくれた。
文房具の店はリーズ駅の踏切を越えて東の大通りの先にあった。館からは少し距離があるのだが、リリは遠出が楽しかった。
目当ての物を買い求め、持って行った布袋に大事にしまうと、ふと通りの向こうの宝飾店が目にはいった。
いつになく気になってショーウインドウを覗くと、花を模った髪飾りが置いてあった。赤い花のものと、白い花のもの、小ぶりで若い娘用だろう。
「きれいだなぁ」
ただそう思っただけだ。欲しいとは思わなかった。リリは自分のものを持っていない。持つことを教えてもらっていないのだ。
同時にそのショーウインドウにリリ自身が映った。今も男の子の格好をして顔を茶色くしている。髪を伸ばし始めたとはいえ、まだ肩くらいで手入れもされておらずボサボサだ。店の中から店主がこちらを睨んでいるのが見えた。
リリはそっと店を離れた。




