5-2 マーサとリリ
マーサのお腹が大きくなり始め、人々が気がついた時には、もう後戻りのできない時期になっていた。イライザは、マーサに父親は誰か問い詰めたが、しゃべることも書くこともできない。マーサが誰かを指し示すこともなかった。
男衆が娼婦に手を出すのは御法度だ。下女はどうかわからないが、イライザが様子をみる限り、マーサが男衆の誰かと恋仲のようでもなく、また誰かに乱暴されて恐れているようでもなかった。行きずりの男であったのだろうか、まさか客がマーサに言い寄ったのだろうか。
マーサは産気づくまで一日も休まず働き、お産経験のある従業員の世話で女の子を産んだ。
女の子は、柔らかなブラウンの髪で、ヘーゼルの瞳がくりくりとして可愛かった。マーサはしゃべれなかったので我が子を呼ぶこともない。やがて誰かがリリと呼びはじめ、いつの間にか女の子の名はリリとなった。
マーサは、子育ての知識は何もなかったが愛情にあふれた母親だった。あちこちで布端をもらいリリのおしめや服を縫った。リリを背負って働き、その合間にリリに乳を飲ませた。幸いマーサは乳がよく出たのだ。
サロン・ルージュは夢を売るところだ。子供の泣き声などあってはならない。
マーサは、リリがぐずり始めると裏庭のさらに向こうの野原でリリをあやし、夜泣きするときは、そこで一夜を明かした。
離乳食はジーナが作ってくれた。じゃがいもや人参の皮を細かくして煮つめたものだが栄養にはなった。この母にしてこの子なのか、与えられるものは嫌がることもなく口にした。
「おや、リリちゃん、元気でちゅかぁ~」
「おおリリ、おいちゃんがおんぶしてやるぞ」
香水臭い娼婦や無骨な男衆が、リリを抱き、あやし、おんぶしてくれた。リリは反応の薄い赤子ではあったが、普通ではない優しい世界で育ったのだ。
◇
マーサは「ああ」「いい」「うう」しか言えないが、それを使い分けているようで、リリはそれを聞き分けることができた。
マーサはいつも「いい」と言いながら優しく頭をなでてくれる。多分「リリ」と声をかけてくれているのだろう。
マーサはいつも「うう、うう…」と言いながらリリの背中をトントンと叩きながら身体を揺すってくれる。多分子守歌を歌ってくれているのだろう。
リリは、母親が話さないためか言葉を発するのが遅かった。1歳半を過ぎてようやく初めての一言を発した。
「まー」
真っ直ぐに見つめるリリの瞳は何ひとつ曇りがなくて、マーサはリリを抱きしめた。
「まーしゃ」
「まー」の次は「まーしゃ」と言った。リリは自分の世話をしてくれるこの人が、別の人からマーサと言われているのを聞いて、この人はマーサなのだと思った。マーサは「あーい」と応えてくれた。リリは嬉しくて「まーしゃ、まーしゃ」と何度も繰り返した。
◇
リリは3歳になると、とことことマーサの仕事について回った。
朝は湯を運ぶマーサの後ろを、手ぬぐいを持って走った。朝食の支度をするマーサの横で皿をならべ、マーサがイライザに朝食を運ぶ時は一緒についていって、イライザにぺこりとお辞儀をして挨拶をした。箒をもつマーサの横で、ちりとりを構え落ち葉を集めて手伝った。
娼婦たちのリネンを集めてまわる時、マーサは時々、機嫌の悪い娼婦に当たり散らされた。昨晩の客がひどかったのだろう。散々悪態をつかれたり、物を投げつけられたりする。マーサは娼婦の機嫌が直るまで静かに聞き続けじっとしていた。
リリは本能的に厭だなと思ったが、マーサがそうしているので、そういうものなのだと思った。
午後になると、表のステージで楽器や歌の練習がはじまる。リリはそれを聞くのが好きだった。意味はわからないが、聞き覚えたフレーズを裏庭でクルクルまわりながら歌った。
その後もマーサは忙しい。リリも一緒に忙しくするのだが、まだ3歳だ。客が来る前に部屋に連れ戻される。絶対に部屋から出てはいけないと言われているから、暗い部屋で、いつマーサが帰ってくるかとドアを見つめ続け、やがて眠ってしまうのだった。
リリの世界は、サロン・ルージュが全てだった。そしてマーサがすることがリリの学ぶ全てだったのだ。
◇
いくつか季節が巡り、リリはあと半年もすれば7歳となる。
貴族の子女は、社交界へのプレデビューとして10歳の誕生日を盛大に祝うが、平民は7歳まで無事に育った祝いに教会の導師様から祝福をもらえる。と同時に貧しい家の子は本格的に働きに出るのだ。
リリは7歳になったら教会に行けることを楽しみにしていた。なにせサロン・ルージュから一歩も外に出たことがないのだ。
神の前で全ての者は平等であるはずだが、リーズは田舎である。教会で娼館の者と一緒になることを快く思わない者もいて、サロン・ルージュの者はほとんど教会に通っていない。だがイライザが多額の寄付をしているお陰で、特別の行事がある時は出席を許された。
貿易都市サンプールでは、近年、海を隔てた西の大陸から綿を輸入するようになった。綿は水の豊富なブナンに運ばれ糸となり織物となる。ブナンでは紡績工場、織物工場が建ち並び、男は炭鉱、女子供は工場で働く。織物はリーズまで列車で運ばれ、さらに王都や各地方都市に運ばれるのだ。
そんなわけでリーズでも、布地を容易に手にいれることができた。イライザはリリの祝いに白い布をマーサに贈ってやった。
マーサは深夜のわずかの時間を使って、リリのためにワンピースを縫っていた。衣装材料の残りであろうか、襟元には水色のパイピングが施されている。
リリは、髪を短く刈られ、いつもグレーの筒状の胴着に黒っぽいトラウザーを着せられていた。こんな所で女の子とわかるとまずいからだ。リリは、初めてのワンピースに胸がときめいて教会に行く日を指折り数えていた。
マーサは時々、胸を押さえて眉根を寄せ苦しそうにしている。リリは、その度マーサの背中をさするのだが、大丈夫と言うように「ああう」と言うのだった。
教会にいく日まであと数日という朝、リリが目を覚ますとマーサがまだ寝ていた。マーサはリリが目覚める頃には、いつも働いている、こんなことは一度もなかった。リリはマーサを起こそうと身体を揺すると、いやに冷たい。顔に表情がない。
「マーサ?」
リリは驚いてベッドから飛び降り、裸足のまま裏庭に走って行った。
「マーサが、マーサが!」
◇
リリが初めてサロン・ルージュを出たのは、母親の葬儀となった。
「マーサがせっかく作ってくれたのだからワンピースを着てお別れなさい。」
娼婦のローザがそう言ってリリの着替えを手伝い、その上から黒いショールを掛けてくれた。
男衆が棺をかついで運ぶ。教会の無縁墓地で、導師様が簡単な祈りを捧げてくれた。イライザ、ローザ、ジーナ、そしてお産のときリリを取り上げてくれた従業員、男衆、参列はそれだけだった。
次々と花を手向け、棺の蓋をするとマーサが見えなくなった。土をかぶせる音がバサー、バサーとリリの心を打っていった。




