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天空都市のコーデックス 世界遺産編

二話目の投稿です。

誤字脱字が多くなると思いますが、よろしくお願いいたします。

途中で、脱線することもあると思いますが、ゆっくりと見守ってください。

作品の内容が前後することが多々あると思いますが、大目に見て頂ければ、うれしく存じます。

突然の転移です。スキルなしです

では、参ります!! 長くなっております

天空都市のコーデックス:マチュピチュ殺人事件

【前編】天空の不協和音

第1章:時空流体の反転

1. ミラノの光、反転する幾何学

西暦1498年、あるいは人間の浅薄な暦が刻むいかなる数字であれ、その日、ミラノの私の工房を支配していたのは、極限まで張り詰めた静寂と、油蝋の微かな匂いだった。


私は机に向かい、一本の細い金属筆スタイラスを握りしめていた。机上には、イル・モーロ(ルドヴィーコ・スフォルツァ公)から命じられた新しい城壁の要塞図面、そして個人的な探求である「真球の表面における光の乱反射と、流体の不連続性に関する数学的考察」を記したノートが広げられていた。窓の外では、北イタリアの湿った、どこか粘り気のある夜雨が、レンガ造りの街並みを「しとしと」と濡らしている。私の視界にあるすべては、私がこれまでの生涯をかけて解剖し、数式と素描によって制御してきた「見慣れた世界」のはずだった。


「……光は直進する。しかし、水という動的な媒体を通過する時、その粒子の進行方向は、媒体の密度勾配に従って微細な曲線を呈する。ならば、この空間そのものの密度が、もし熱対流のように不均一に揺らいだとしたら、視覚の幾何学はどう変化するか」


私は独り言を呟き、ノートの端に渦巻く水のスケッチを描き加えた。その瞬間だった。


突如として、部屋の隅の暗がりに灯っていた一本の蝋燭の炎が、不自然なほど垂直に立ち上がり、次いで「パチリ」と、ガラスが割れるような乾いた音を立てて消えた。いや、消えたのではない。炎の放つ黄色い光が、まるで目に見えない巨大な注射器で吸い出されるように、空間の一点へと収束していったのだ。


「フム……対流の異常か? いや、気圧の急激な変化ではないな」


私は椅子から立ち上がり、眼鏡のブリッジを指先で押し上げた。私の天才的な観察眼は、部屋の中央の空気が、まるで沸騰する油のように激しく「陽炎」を起こしているのを捉えていた。その陽炎の中心からは、私がこれまでの人生で一度も聞いたことのない、しかし耳の奥底を直接削るような、超低周波の地鳴りが響いていた。それは、巨大な布地が、目に見えない神々の手によって力任せに引き裂かれるような音――「バリバリ」という、空間そのものの悲鳴だった。


「流体力学における、速度ベクトルの破綻……。空間そのものが、渦を巻いているのか」


私がその現象を物理的に定義しようと一歩踏み出した瞬間、視界の色彩が完全に反転した。天井の木製の梁は目も眩むような白銀に輝き、床の黒い影は底なしの深淵へと変化した。網膜の裏側で、無数の幾何学的な数式が、互いに噛み合わない歯車のように激しく衝突し、火花を散らす。私は激しい眩暈めまいに襲われ、自分の身体の質量が、一瞬にして十倍にも、あるいはゼロにもなったかのような奇妙な浮遊感に包まれた。


息を吸おうとした。だが、私の肺を満たしたのは、ミラノの工房の、あの暖炉の熱と油絵具の混ざった親しみやすい空気ではなかった。


それは、驚くほど薄く、刃物のように鋭く、そして極限まで冷たく澄み切った「山の空気」だった。空気が薄すぎるあまり、一呼吸ごとに肺胞が引き裂かれるような錯覚を覚える。私は激しく咳き込みながら、這いつくばるようにして床に手を触れた。


「……ここは、どこだ。私の工房の床板は……どこへ行った」


手のひらに触れたのは、粗末な木製の床ではなかった。それは、驚くほど滑らかに、まるで鏡面のように磨き上げられた、冷徹な花崗岩の巨石の表面だった。その石と石の継ぎ目には、漆喰しっくいも泥も一切使われていない。にもかかわらず、私の薄い指先を滑らせても、髪の毛一本すら通さぬほどの狂気的な精度で、巨石同士が完全に噛み合わされていた。


私は荒い呼吸を繰り返しながら、老体に鞭を打ってゆっくりと頭を持ち上げた。眼鏡のレンズが、急激な気圧と温度の変化によって白く曇っていた。私はそれを上着の袖で乱暴に拭き取り、再び周囲を見渡した。


その瞬間、私は己の理性が、生涯で初めて激しく揺らぐのを感じた。


「……これは、地獄の頂か。それとも、聖書に描かれたバベルの塔の残骸か」


眼前に広がっていたのは、人間の想像力を遥かに超越した、文字通りの「天空の幾何学都市」だった。


私が立っていたのは、幅わずか数メートルほどの狭い尾根の上だった。その尾根の両側は、底の知れない漆黒の峡谷へと、垂直に何千メートルも落ち込んでいる。谷底からは、巨大な怪獣の咆哮のような、凄まじい川の轟音が響いてくるが、立ち上る濃密な雲海によって、その水面を見ることは叶わない。白銀の雲は、まるで生き物のように幾重にも渦を巻き、私が立つ断崖絶壁を、激しい流体の波濤はとうとなって洗っていた。


そして、その絶望的な絶壁を覆い尽くすようにして、数千、数万の白い花崗岩で組まれた建築物が、整然とした棚田アンデネスとともに、山の稜線に沿って美しく鎮座していた。それらの建築物は、台形の窓と、わずかに内側に傾斜した強固な壁を持ち、地震の振動を完璧に受け流すための力学的合理性を体現していた。


だが、何よりも私の観察眼を驚かせたのは、その都市全体を包み込んでいる「空気の不調和」だった。


標高は、私の知るいかなるアルプスの険峰よりも高い。おそらく二千四百メートル、あるいはそれ以上だろう。それほど高高度であるならば、辺りは永遠の氷雪に閉ざされているはずだった。しかし、私の肌を撫でたのは、極冷の山の風の中に、不気味に混ざり合う「ねっとりとした生温かい湿気」だった。遥か上空を見上げれば、天を突く山々の頂の向こう側に、見たこともないほど巨大な、黒紫色の積乱雲が、まるで世界の終わりを告げる巨大な防壁のようにそびえ立っていた。その雲の内部では、音のない稲妻が「ピカピカ」と青白く走り続け、古代の巨石群を、その都度、怪異な影とともに浮かび上がらせていた。


「地球の気候の、急激な熱力学的反転……。これは、氷河期の終わりだ。それも、何千年もかけて行われる緩やかな変化ではない。地球の地殻そのものが悲鳴を上げ、すべての氷床が一気に融解しようとしている、まさに『大洪水』の直前の位相だ」


私は、自分が時空の歪みを経て、ヨーロッパのいかなる歴史にも記録されていない、恐るべき「紀元前一万二千年」の超古代インカ、その崩壊前夜の世界へと転移してしまったことを、直感的に、そして数学的に理解した。


2. 異形の影、鱗と毛皮の軍勢

「グルル……曲者だ。太陽のインティプンクの警備を潜り抜け、中央広場の聖石インティワタナの前に突然現れるとは。クスコからの隠密か、それとも北の反乱部族が放った呪術師か」


背後から響いたのは、人間のものとは思えない、低く地を這うような咆哮ほうこう混じりの声だった。


私は驚きとともに振り返った。石組みの狭い通路の向こうから、複数の足音が近づいてくる。その足音の響きは、私の知るミラノの衛兵たちの鉄靴の響きとは全く異なっていた。一つは、硬質な爪が岩を引っ掻くような「カチカチ」という変則的な音。もう一つは、肉厚な肉球が巨石の表面を重々しく踏みしめる「ズシン、ズシン」という重量感のある音だった。


雲海が風に流され、都市の一角に、不気味な赤紫色の太陽光が差し込んだ瞬間、私は息を呑んだ。そこに現れたのは、私の解剖学のノートのいかなるページにも存在しない、「異形の亜人たち」の小隊だった。


先頭に立っていたのは、身長が二メートル近くある、筋骨隆々とした男だった。しかし、彼の全身を覆っていたのは、人間の皮膚ではなく、鈍い灰色の光沢を放つ、硬質な「うろこ」だった。トカゲ、あるいはワニのそれを思わせる皮膚は、山の冷気と湿気を完全に弾き、腰の後ろからは、筋肉の塊のような長い尾が、バランスを取るように左右に激しくなびいていた。彼の目は、縦に割れた黄金色のスリット状の瞳孔を持ち、その奥には、獣の凶暴性を完全に制御した、冷徹なまでの高度な「知性」が宿っていた。


そして彼の背後に従う四人の兵士たちは、さらに異様だった。彼らの頭部は、完全に「白銀の毛皮に覆われた狼」そのものだったのだ。鋭い耳が不気味な地鳴りに向けてピクリと動き、長い顎からは、人間の骨など一瞬で噛み砕くであろう白く鋭い牙が、覗いていた。しかし彼らの身体は、人間と同様に直立歩行を行い、その胸筋と腕力は、並の騎士を遥かに凌駕しているように見えた。


彼らは一様に、見たこともない鮮やかな幾何学模様――赤、黄、黒の複雑な格子縞――が織り込まれた、最高級の毛織物のチュニックを身にまとい、その手には、鈍い輝きを放つブロンズ製の巨大なチャンピを携えていた。


「動くな、老いぼれ。その奇妙な衣服、そして顔につけた二つのガラスの輪は何だ。神聖なるマチュピチュの平穏を乱す者は、たとえ老人であっても、この崖から突き落としてウルバンバの濁流の藻屑もくずにしてくれる」


狼の頭部を持つ亜人の兵士の一人が、鋭い牙を剥き出しにしながら、私の首元にその重厚なブロンズ斧を突きつけた。斧の刃先からは、冷たい雨の滴が「ポタリ、ポタリ」と私の衣服に落ちる。


しかし、私は恐怖を感じるどころか、胸の奥から湧き上がる、抑えきれない「観察の衝動」に身体を震わせていた。私は腰のポーチから、常に持ち歩いている虫眼鏡ルーペを取り出すと、首元に突きつけられた斧の刃、そして兵士の毛皮の繊維に向けて、一歩にじり寄った。


「おい、この老いぼれ、何を考えている!? 死にたいのか!」兵士が困惑して斧を引いた。


「フム……実に見事だ」私は虫眼鏡を覗き込みながら、恍惚とした声で呟いた。「このブロンズの配合、すずの割合が私の世界のそれよりもわずかに高いな。それによって、硬度を増している。だが、何より素晴らしいのは、君たちの骨格構造だ。狼の頭部を持ちながら直立歩行を行うために、骨盤の傾斜角度が人間のそれよりも深く設計されている。トカゲの君、君の尾の可動域は、大臀筋だいでんきんの伸縮と完璧な流体力学的バランスを保っている。これによって、この標高二千四百メートルの断崖絶壁にあっても、一切体幹をブレさせずに疾走できるわけだ。非常に美しい、生命の傑作だよ!」


私が怯えるどころか、彼らの衣服の織り目を指先でなぞり、皮膚の鱗の並び方を数え始めようとしたため、亜人の兵士たちは完全に面食らった。彼らは互いに顔を見合わせ、この「衣服の奇妙な老人」が、狂人なのか、あるいは一瞥いちべつして測れないほどの恐るべき呪術師なのか、判断に迷っているようだった。


トカゲの亜人であり、この小隊の指揮官である男――彼の名はカパックといった――が、低い声で喉を鳴らし、兵士たちを制した。


「待て。この老人の目を見ろ。これは、我がクスコの朝廷を脅かす隠密の目ではない。万物の理を解剖し、世界のすべての構造を紙の上に吸い取ろうとする、異様な知識の化物の目だ。おい、お前は何者だ。衣服の仕立てから見て、北の砂漠の民でも、東の密林の部族でもないな。どこからこの天空都市に迷い込んだ」


「私の名はレオナルド・ダ・ヴィンチ。トスカーナの生まれだ。もっとも、君たちがその地名を知っているとは思えんがね」私は虫眼鏡を収め、衣服の泥を払った。「どうやら私は、時空の流体力学的な歪み、あるいは空間の位相幾何学的な破綻に巻き込まれ、君たちのいる世界へと『転移』してしまったらしい。君たちの言う『天の怒り』とは、上空のあの不気味な積乱雲と、この高山地帯の異常な湿気から見て、急激な気候変動による氷床の融解、それに伴う大規模な海面上昇と洪水の前兆だろう」


カパックは私の高度な言葉を完全に理解したわけではなかったが、私の佇まいから、計り知れない知恵を持った存在であることを察知したようだった。


「お前の戯言たわごとの真偽は、最高神官トゥパック様が判断される。ついてまいれ。今、世界は天の怒りによって崩壊しようとしている。このような時に、呑気な観察をしている場合ではないぞ」


3. 太陽をつなぎとめる石、最高顧問への階梯

私はカパックたちに囲まれ、都市の中央にある最も高い丘へと連行された。磨き抜かれた石の階段を上り詰めた先にあったのは、マチュピチュの心臓部、「インティワタナ(太陽をつなぎとめる石)」が鎮座する大広場だった。


そこには、天然の巨大な花崗岩の基盤から、直接削り出された奇妙な形の突起石がそびえ立っていた。その石の全周は、天文学的な方位を正確に指し示すように、冷徹な幾何学によって角を落とされていた。しかし現在、その聖なる石の周囲には、都市の支配者層と思われる大勢の人々が集まり、誰もが祈りと、そして迫り来る終末への恐怖によって、激しくざわついていた。


広場の中央で、私を待っていたのは、この天空都市の最高神官、トゥパックという名の老人だった。


彼はカパックたちのような亜人ではなく、人間の姿をしていた。しかし、その容貌は異様だった。彼の耳たぶは、巨大な純金製の円盤状の耳飾り(オレホン)の重みによって、異常なほど長く、肩に届くほど垂れ下がっていた。彼のまとう衣服は、アルパカの中でも最も希少なヴィクーニャの嬰児の毛だけを使用し、全周に金糸で太陽の紋様が刺繍された、眩いばかりのチュニックだった。彼の瞳には、数千年の歴史と星の運行を見通すかのような深い知恵が宿っていたが、その知恵の瞳もまた、大地の底から響く不気味な地鳴りによって、微かに小刻みに震えていた。


「異国の賢者よ。カパックから話は聞いた」トゥパックは、長く垂れ下がった耳飾りの金を「ジャラリ」と鳴らしながら、厳かに私を見下ろした。「お前がどこの空から降ってきたかは問わぬ。だが、このマチュピチュは神聖なる太陽の都。迫り来る大洪水の水の手から逃れ、次の世界へと命を繋ぐための、選ばれし者たちの最後の砦だ。無能な者が立ち入ることは許されん。お前に、この都に生きて留まる価値があるか、今ここで証明してみせよ」


トゥパックはそう言うと、傍らにいた仕え女に命じ、私に一枚の大きな未乾燥の粘土板と、先端を鋭く尖らせた黒曜石の片を突きつけた。


「今、我が都の水路は逆流し、山の頂からは不気味な温かい風が吹き下ろしている。下方のウルバンバ川は、神々の血のように赤く濁り、水位は日ごとに棚田を侵食しつつある。神々の怒りを鎮め、この都の崩壊を止める術を持たぬなら、貴様をこの崖から突き落とし、生贄いけにえとするまでだ」


広場を取り囲む狼の亜人兵士たちが、一斉にブロンズの斧を地面に打ち付けた。「ズシン!」という重々しい衝撃が、私の足の裏に伝わる。


私はフッと不敵に微笑み、その黒曜石の片を受け取った。


「価値の証明、かね? よろしい。ならば、君たちが気づいていない、この都市の重大な『力学的破綻』を指摘してあげよう。そして、君たちが恐れている大洪水のメカニズムを、数学的に解き明かしてあげようじゃないか」


私は粘土板に向かい、猛烈な速度で筆を走らせた。黒曜石の先端が、未乾燥の粘土を「サクサク」と削り取り、そこに見事な幾何学模様が描き出されていく。私が描いたのは、マチュピチュ全体の構造計算図、そして山頂から網の目のように張り巡らされた複雑な給排水路の流体力学的な解析図だった。


「君たちの土木技術は実に見事だ。接着剤を一切使わぬこの石組みは、地震の振動を完璧に逃がす。だが、神殿の裏手にある第三水路の分岐点、ここの角度がわずかに狂っている」


私は粘土板の特定の箇所を黒曜石で強く突き刺した。


「このままでは、紀元前一万二千年のこの激しい氷河期の終わりの大雨、そして山頂の氷河が急速に融解して一気に流れ落ちてくる濁流の圧力に耐えきれず、棚田の土台が内部から液状化を起こして崩壊する。流体の侵入角度をあと三分の一ラジアン、外側へ逃がすように石を削り直すべきだ。さもなければ、大洪水が街を完全に飲み込む前に、この都は自らの重みによって、崖下へと滑り落ちることになるぞ」


私の描いた精密な解剖図と数式、そして未来の災害を予言するような言葉に、広場にいたすべての亜人、そして最高神官トゥパックが息を呑んだ。


石工の親方である、禿頭で巨体の亜人ウルコが、私の図面に這いつくばるようにして見入った。彼の大きな鼻が、粘土の匂いを嗅ぐようにしてピクピクと動く。


「……信じられん。この人間の老いぼれ、俺たちが三ヶ月間、原因が分からずに頭を抱えていた湧き水の漏水箇所を、一瞬で見抜きやがった! 傾斜の計算が完璧だ! それに、山頂の氷が溶けて押し寄せるという予測……俺が肌で感じていた不気味な地鳴りの正体はこれだったのか!」


最高神官トゥパックは私の図面を凝視した後、長く垂れ下がった耳飾りを揺らし、厳かに手を挙げ、周囲の兵士たちに告げた。


「この者は天の知恵を持つ者、ヤチャチク(知恵の精霊)である。今日より、このレオナルドを我がマチュピチュの最高顧問として迎え、神殿に並ぶ石造りの工房を与えるものとする。彼に都のすべての水路と防壁の補強を指揮させよ。迫り来る終わりの日に備えるのだ」


こうして、私はフィレンツェやミラノの工房から、紀元前一万二千年の天空都市マチュピチュへと完全に居場所を移し、彼らの知恵袋として暮らし始めることとなったのである。


4. 結縄の記録、終末へのカウントダウン

最高顧問としての地位と、神殿に隣接する最高級の石造り工房を与えられた私は、彼らの情報記録システムである「キープ(結縄)」の解析に没頭した。


インカの亜人たちは文字を持たなかった。しかし、その数理的感覚は驚くほど発達していた。キープとは、一本の太い主縄から、何本もの色鮮やかな細い紐を垂らし、その紐の結び目の形、位置、紐の色、そして紐のり方向によって、文字の代わりに膨大なデータを記録するシステムだった。彼らはこれを用いて、人口、兵力、食料の備蓄、そして何よりも「星の運行と大地の周期」を記録していたのだ。


私は彼らの天才的な石工や神官からキープの読み方を学び、代わりに私の知る高度な天文学と力学の知識を提供した。工房の机の上には、色鮮やかな紐の束が山のように積み上がり、私は毎夜、ランプの油を惜しみながら、それらの結び目を一つずつ指先で解きほぐしていった。


だが、彼らの過去数百年の記録を紐解けば紐解くほど、私の脳内の数式は、恐るべき一つの結論へと収束していった。


「フム……この、青い紐の三重の結び目は、南十字星の高度の変化を示しているな。そして、その隣にある茶色い紐の変則的な結び目は、大地の気温の上昇と、ウルバンバ川の水位の相関関係か。……待てよ。この数式、周期の極値が、まさに『今年』に集中している」


私はパピルス(マチュピチュの現地の植物繊維で代用したもの)に、キープから得られた数値を方程式として展開していった。


クスコの朝廷、そしてこのマチュピチュの神殿は、数百年も前から、地球規模の気候変動のサイクルを正確に予測していたのだ。そして、この「紀元前一万二千年」という特異な年が、大いなる洪水の周期と完全に一致していることを突き止めていた。彼らがこの断崖絶壁の頂に、これほどまでの巨石都市を築いた真の理由――それは、ただの王の静養所などではなく、世界が水に沈むその瞬間に、神に最も近い場所で生き残るための「ノアの方舟」としての機能だったのだ。


私の生活は、この天空都市の圧倒的な美しさと、多様な亜人たちの生命力、そして常に背中合わせにある終末への焦燥感に彩られていた。


毎朝、谷底を流れるウルバンバ川から湧き上がる朝霧が、巨大な白いカーテンのように都市を覆い隠す。太陽が東の山脈から顔を出した瞬間、その霧がパッと黄金色に弾け飛び、磨き抜かれた石造りの宮殿や神殿が、まるでそれ自体が発光しているかのように輝き出すのだ。棚田では、毛深い猿の亜人たちが実に見事な手際でクワを振るい、ジャガイモやトウモロコシの原種を育てていた。彼らもまた、夜な夜な遠くの山々から響く、氷河が裂ける音に耳を澄ませ、怯えていた。


水路からは、私が改良した傾斜によって、常に濁りのない清廉な水が「さらさら」と心地よい音を立てて都市の隅々まで流れていく。私は毎日のように都市を歩き回り、鳥の羽を持つ亜人の飛行力学をスケッチし、トカゲの亜人の皮膚の構造を解剖学的にノートに書き留めた。


だが、そんな平和で知的な、そしてどこか退廃的な暮らしは、転移から三ヶ月が経ったある日、突然やってきた「もう一人の異邦人」によって、大きく揺れ動くことになる。


5. 霧の門から現れた、第二の異邦人

その日、マチュピチュを包む霧は、これまでになく深く、そして冷たかった。大洪水の前触れとして、大気の対流が完全に狂い始めていたのだ。


私は都市の入り口である「太陽のインティプンク」の近くで、石垣の強度を測定していた。すると、前方から湧き上がる白い霧の向こうから、一人の奇妙な男が歩いてくるのが見えた。


現地の亜人たちが着るアルパカの毛皮を雑に羽織ってはいたが、その下に着ているのは、明らかにヨーロッパ風の仕立てが施された、しかし随所が擦り切れたトレンチコートのような衣服だった。痩せ型で、鷹のように鋭い鼻を持ち、その瞳には世界中のあらゆる欺瞞を見透かすかのような、冷徹なまでの観察力が宿っていた。彼の口元には、この古代世界には存在しないはずの、黒い木製のパイプがくわえられていた。


男は私を見るなり、不敵な笑みを浮かべて、古いイタリア語と英語が混ざったような奇妙な言葉で話しかけてきた。


「やあ、巨匠マエストロ。やはりあんたも、この『世界の屋根』に飛ばされていたんだな。ミラノの天才がこんなところで石のパズルを解いているとは、ロンドンの新聞記者も夢にも思うまい」


彼の名はシャーロック・ホームズ。私とは異なる平行世界の、それも十九世紀のロンドンから、やはり時空の歪みを経てこの紀元前一万二千年のインカへと流れ着いた「異国の探偵」だった。彼はその圧倒的な推理力と観察力によって、すでに首都クスコの朝廷でも一目置かれ、このマチュピチュで進行しつつある「ある恐るべき陰謀」を調査するために派遣されてきたのだという。


「のんびりと写生をしている時間はないようだ、ダ・ヴィンチ」ホームズはパイプから紫色の煙を吐き出し、霧の向こうの神殿を睨みつけた。「この都市の空気は、大雨の前の湿気だけでなく、人間の、いや亜人たちの悪意の臭いで満ちている。最高神官トゥパックは、大洪水の危機を利用して、クスコの朝廷から大量の黄金をこの都へ隠匿した。そして、彼はその黄金を使って、ある狂気的な計画を実行しようとしている。それを止めなければ、この都市は近いうちに、天の洪水に飲み込まれる前に、身内同士の血で染まるだろう」


ホームズが私の工房の木椅子に腰掛け、現地で見つけたハーブをパイプに詰めて火をつけながらそう言った時、私は胸の奥で、冷たい数式の歯車が静かに噛み合うのを感じた。世界が滅びようとするその刹那にあっても、知性を持つ者は牙を剥き出しにして奪い合う。天才探偵の予言は、それからわずか数日後に、もっとも最悪な形で現実のものとなるのだった。


【第1章:時空流体の反転・了】

みなさま、どんな風に感じてもらったのでしょうか?

少しでも面白いかもと思って頂けましたら幸いです。

励みになりますので、☆☆☆☆☆をチェックしてもらえると嬉しく存じます。

これからもお付き合いのほどよろしくお願いいたします。

パラレルワールドで魔法と多種族の住む下町ローマで起こる事件を魔法とスキルで解決していく物語です。時代背景は読者の描く時代に当てはめてくださいね。

よろしくお願いします。

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