エジプト ギザピラミッド 世界遺産編 3章
## 第九話:第四の審判、肉体なき死
ギザの緑深き夜は、もはや安息の場ではなかった。
ピラミッドの頂が放つ星光は、冷徹に地上の惨劇を照らし出し、左右に並び立つオシリスとアヌビスの巨像は、まるで被造物たちの狂気を見物する観客のように佇んでいる。
アシャの血相を変えた叫び声が、レオナルドの仮初めの工房に響いた。
レオナルドはパピルスに走らせていたペンを止め、深く溜息をついた。彼の前には、これまでの事件の相関図が描かれていたが、そこにはいかなる幾何学的な調和も見出せず、ただ混沌の糸が複雑に絡み合っているだけだった。
「今度は誰だ、アシャ。そして、どの種族だ?」
「大地族のガラクの叔父にあたる、長老のバロルだ。でも、様子が変なんだ。今までの事件とは何もかもが違っている!」
現場は、第二のピラミッドの真下に位置する、大地族の巨大な石造りの集会所だった。
そこには、ガラクが四本の腕で自身の頭を抱え、大粒の涙を地面にこぼしながら絶望していた。中央の台座には、大地族の長老バロルが、まるで眠っているかのように腰掛けている。
レオナルドは近づき、鋭い目でその遺体を観察した。
「ふむ。外傷がない。ナイフによる刺し傷も、首を絞められた痕跡も、羽をもぎ取られた跡すらないな。衣服にも乱れはない」
レオナルドがバロルの頑強な岩の皮膚に触れると、その肉体はまだ微かに温かかった。しかし、呼吸はなく、心臓の鼓動も完全に停止している。
「おかしいわ」天空族のリィアが上空から舞い降り、怯えた声で言った。「バロル長老の体から、魔力の残滓がひとかけらも感じられないの。まるで、最初から魂なんて存在しなかったみたいに、空っぽなのよ」
「魔力の完全な消失、か」
レオナルドはバロルの口元を開け、鼻を近づけた。
「毒物の形跡もない。だが、見てみろ。彼の目、瞳孔が異常なほどに収縮している。これは、肉体的な苦痛ではなく、精神が耐えきれないほどの『絶対的な恐怖』に直面した時の反応だ。物理的な攻撃ではない。これは、魂そのものを削ぎ落とすような、未知の凶行だ」
第四の殺人事件。それは、これまでの物理的な殺戮とは一線を画す、不可視の呪いのような死であった。
手がかりを探すレオナルドの足元に、微かな違和感があった。バロルの座る台座の真下の地面が、わずかに焦げ付いている。それは、非常に高温の熱、あるいは「純粋なエネルギーの放射」が起きた証拠だった。
「ガラク、叔父上は亡くなる前、何か不審な行動をしていなかったか?」
レオナルドの問いに、ガラクはむせび泣きながら答えた。
「叔父上は最近、夜になると、右側のスフィンクス、アヌビスの像の足元へ通っていたんだ。『死の神が、俺たちに新しい知恵を授けてくれる』って、わけのわからないことを呟きながら!」
死を司るアヌビス。
レオナルドは、夜空に黒くそびえ立つジャッカルの頭部を見上げた。その鋭い眼光が、まるでバロルの魂を喰らった張本人であるかのように、妖しく光っているように見えた。
(第九話:本文文字数:1,348文字)
## 第十話:第五の濁流、神の庭の反乱
バロルの不可解な死は、各種族の猜疑心を頂点へと押し上げた。
「大地族の長老が呪い殺された! これは精神感応の力を持つ天空族の仕業だ!」
「ふざけないで! 私たちを疑うなら、大気中の魔力をすべて遮断して、あなたたちを窒息させてあげるわ!」
広場で激しい口論が繰り広げられる中、大地が突如として激しく脈動した。
それは地震ではなかった。ピラミッドを起点とする、世界の構造そのものが悲鳴を上げている音だった。
「大変よ! 大河の分岐点で、水精族たちが!」
リィアが上空から叫びながら戻ってきた。彼女の先導でアシャとレオナルドが川辺へと急行すると、そこには信じがたい光景が広がっていた。
ギザの生命の源である「原初のナイル」が、真っ赤な血の色に染まっていたのだ。
そしてその濁流の中に、第五の犠牲者が浮いていた。水精族の戦士長であり、集落の守護者でもあった頑強な男・タトだった。彼の身体は、無数の「目に見えぬ刃」によって滅多刺しにされており、その青い皮膚はズタズタに裂け、川面を赤く染め上げていた。
「タト! 誰がこんなことを!」
水精族たちが槍を構え、川岸にいる人間や大地族を睨みつける。
「お前たち地上に住む者が、我らの川を汚し、タトを殺したんだ! 神々の法は破られた! 我々はもう、お前たちに一滴の水も与えない!」
「待ちなさい!」レオナルドが濁流に足を踏み入れ、タトの遺体を引き上げた。
「これは人間の仕業でも、大地族の怪力によるものでもない。傷口を見てみろ。切り口が完全に凍りついている。熱帯のこのギザにおいて、肉体を凍結させながら切り裂く武器など、どの種族も持っていないはずだ」
第五の殺人事件。その手口は、これまでの「ナイフ」「絞殺」「精神破壊」のどれとも異なる、「氷結の刃」によるものだった。
「レオナルド! 早く来てくれ、またまた出たんだ!」
最初の盗みと殺人は、神の結晶を巡る「強欲」のようだった。
第二、第三の事件は、種族間の「憎悪」を煽るための工作のようだった。
第四の事件は、神の領域に触れた者への「神罰」のようだった。
そしてこの第五の事件は、世界そのものを混沌に陥れるための「純粋な破壊」のようだった。
「目的がバラバラだ」アシャは頭を抱え、地面にへたり込んだ。「これじゃ、まるで、別々の犯人が、それぞれの理由で、好き勝手に人を殺しているみたいじゃないか。そんなの、あり得ないよ! 僕たちの世界は、神々が作った完璧な調和の中にあったはずなのに!」
「いや、アシャ。あり得ないことなどないのだよ」
レオナルドは血に染まった水を手のひらですくい、それを凝視しながら言った。
「目的が繋がって見えないのではない。犯人たちの『主導権』が、すでに神々の手を離れ、制御不能の連鎖反応を起こしているのだ。パンドラの箱から飛び出した悪意は、一人の中だけに留まらない。それは伝染病のように、この世界のすべての住人の心へと、一瞬にして燃え広がったのだよ」
レオナルドの背後で、三つのピラミッドが不気味に明滅を始めた。オリオンの三つ星の配列が、わずかに歪み始めている。それは、このギザの支配者である神々すらも、この事態を予期していなかったことを示唆していた。
## 第十一話:盲目の探偵と、神々のアポリア
集落の中心にある大樹の工房に籠り、レオナルド・ダ・ヴィンチは限界に達しつつある脳細胞をフル回転させていた。
彼の前には、五つの事件の遺体から採取した微物や、現場の土壌サンプルの入ったガラス瓶が並んでいる。しかし、どれほど観察を重ねても、犯人を特定する決定的な「一本の糸」が見つからない。
中世のミラノやフィレンツェであれば、足跡や動機、目撃証言を組み合わせることで、どんな狡猾な犯罪者も引きずり出すことができた。だが、この十万年前の神々の世界では、自然法則そのものが神の意志によって歪められているため、彼の持つ従来の「科学」が通用しない部分が多すぎた。
「事件の手がかりすら、既存の枠組みでは捉えきれん。これほど知的好奇心を刺激され、同時に絶望させられる場所が他にあるだろうか」
レオナルドは自嘲気味に微笑み、自身の白い髭をなぞった。
そこへ、アシャが疲れ果てた表情で入ってきた。彼の目からは、かつて大密林を駆け巡っていた頃の、あの無邪気な輝きは完全に消え失せていた。
「レオナルド神々が、動いたよ。さっき、第一のピラミッドから、神の使い(メッセンジャー)が降りてきた。明日の朝までに犯人を差し出さなければ、このギザの全生命を一度『消去』し、また最初から作り直すって」
「世界の初期化か。実にあっさりとした解決策だな、神とやらの割には」
レオナルドは冷ややかに言った。
「彼らにとって、我々はやはり、不具合を起こした機械の部品に過ぎないというわけだ。直す手間をかけるくらいなら、溶かして新しいものを作った方が早い。実につまらん職人根性だ」
「そんなこと言ってる場合じゃないよ! どうすればいいんだ? 手がかりは何もない。容疑者は全員で、目的もバラバラだ。君なら、何か分かったんじゃないのか!?」
レオナルドは立ち上がり、窓の外に広がる、血の色に染まった大河と、互いに武器を構えて見張り合う各種族の姿を見つめた。
「アシャ、一つだけ、私が確信していることがある。これらの事件は、別々の犯人が行ったものでありながら、同時に『一人の意志』によって誘導されている」
「え? どういうこと?」
「パンドラの箱を開けた者がいるのだ。そいつは、自らの手で直接すべてを殺したわけではない。ただ、住人たちの心にほんの少しの『猜疑心』と『魔力への渇望』という火種を落とした。すると、どうなる? 人間も他種族も、勝手に互いを疑い、勝手に次の殺人を犯し始めた。第四の長老の死も、第五の戦士長の死も、最初の殺人に怯え、あるいは触発された別の誰かが、自らの欲望や防衛本能のために引き起こした二次災害に過ぎん」
「じゃあ最初の犯人は? パンドラの箱を最初に開けて、結晶を盗んだ奴は誰なんだ!?」
「それが分かれば、私はとっくにミラノへ帰っているさ」
レオナルドは肩をすくめた。
「だが、安心したまえ。神々が世界を滅ぼすというのなら、その前に、その『最初の道化師』の正体を暴いてみせよう。天才レオナルドの名に懸けてね」
だが、時間は残されていなかった。夜の闇はさらに深まり、オシリスとアヌビスの巨像の影が、集落を完全に飲み込もうとしていた。
## 第十二話:終わりなき夜のプレリュード
ギザの地を包む最後の夜が訪れた。
天空のオリオン座の三つ星は、今や血のような赤色に変色し、ピラミッドの結晶体からは、生命の波動ではなく、世界を滅却するための不気味な高周波が鳴り響いている。神々の怒りのカウントダウンは、すでに始まっていた。
集落の広場には、人間、天空族、大地族、水精族の生き残った者たちが、互いに距離を置きながら集まっていた。彼らの顔にあるのは、犯人への憎しみではなく、ただ明日訪れるであろう「神罰」への絶対的な恐怖だった。
「もう終わりだ。神々は僕たちを見捨てたんだ」
若者の一人が地面を叩いて泣き叫ぶ。
「神々の愛は、偽りだったのよ。私たちはただのおもちゃだったのね!」天空族の女性が羽を丸めて震えている。
その絶望の渦の中心へ、レオナルド・ダ・ヴィンチはゆっくりと歩み進み出た。彼の右手には、これまで集めた現場の証拠をまとめたパピルスの束があり、左手には、カイルの胸に突き刺さっていた、あの魔物の緑の粘液が付着したオリハルコンのナイフが握られていた。
「素晴らしい夜だな、諸君」
レオナルドの場違いなほどに朗らかな声が、広場の静寂を破った。
「神々が世界を消去するまで、あと数時間といったところか。だが、その前に、少しばかり面白い幾何学の証明をしようじゃないか。なぜ、完璧だったはずのこの世界で、これほど見事な混沌の連鎖が起きたのかをね」
全住人の視線が、異界の探偵へと集まる。アシャも、ガラクも、固唾を飲んでレオナルドを見つめた。
「犯人は、この中にいる。いや、正確に言えば、この中の『数人』が犯人だ。だが、彼らを裏から操り、このギザを砂漠の死の世界へと導こうとしている『大いなる存在』が、すぐそこに隠れている」
レオナルドがナイフを高く掲げ、その刃の先を、ピラミッドの背後に佇む、ある一つの巨大な影へと向けた。
「お前だ。お前が、人間に知恵を授け、魔物の肉を喰らわせ、神々への反逆の心を芽生えさせた。最初のパンドラの箱を開けた真犯人は、人でも他種族でもない――」
その瞬間、地鳴りのような咆哮がギザの大地を揺るがした。
ピラミッドの左右に座していたスフィンクスの一体、死を司るアヌビスの漆黒の巨像が、ゆっくりとその巨体を動かし始めたのだ。ジャッカルの頭部がギチギチと音を立ててレオナルドを見下ろし、その眼腔から、世界の終わりを告げる暗黒の光が放たれた。
「フッ、やはりな。手がかりは最初からそこにあった。自然界において、生と死を完全に分離することなど不可能なのだ。神々よ、お前たちの実験は、最初から失敗していたのだよ」
レオナルドは不敵な笑みを浮かべ、押し寄せる暗黒のプレッシャーの前に、堂々と立ち尽くした。
事件の真相の扉は、今まさに開かれようとしている。しかし、神々の消去の光が地上を覆う方が先か、それともレオナルドの推理が世界を救うのが先か。
万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチは、まだ元の世界へ帰ることはできない。
この十万年前のギザの地で、神々と人間の運命を賭けた、最大最悪の謎解きは、ついに最終局面――次の章へと続いていくのである。




