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第35話 蘇る白銀

 夕暮れの光が、薄く積もった雪を橙に染めていた。

 ボロアパートの前で足を止めた瞬間、胸の奥がざわつく。


「御剣……」


 逆光の中に立つ影。

 その声は、忘れようとしても忘れられない。


 エリス・神代かみしろ


 あの日、俺を罵倒し、憎悪をぶつけ――

 椿の死と向き合えず、抜け殻のように崩れ落ちた女。


 その彼女が、今は静かに、まっすぐ立っていた。


「……何をしに来たんだ、神代。俺を探していたのか?」


「そうだ。お前には、まだ確かめなくちゃならない事があるからな」


 神代は一歩、また一歩と距離を詰め、俺の目を射抜くように見据えた。


「桜子の家の前に置かれていたアタッシュケース……あれをやったのはお前だな、御剣?」


「……さてな」


「一千万。あの日お前が受け取った報酬金だ。通報されないように手紙まで添えて……丁寧な仕事だよ」


「…………」


 否定したかった。

「違う」と言えば、それで終わる。


 だが、喉が動かなかった。


 心臓を貫いた、あの感覚――

 正しい判断をしたという確信は、今でも揺らがない。


 それでも、彼女を殺した事実は、胸の奥に確かに刺さっている。


 その矛盾が、俺から言葉を奪った。


「――罪滅ぼしのつもりかっ!!」


 神代の声が雪を震わせる。

 俺は沈黙を貫いた。


「御剣……何とか言ったらどうだ……?」


「用件はそれだけか? なら、俺は行く――」


 背を向けた俺を、神代の手が掴んだ。


「――っつ! 待ってくれ!」


 冷たい指先。

 雪の中、俺を探し回っていたのだと分かる。


 震える指。

 弱い力だ、振りほどくのは容易い。


 だが、その震えは迷いではなく、決意の現れだった。


「違う……違うんだ……! 私は、お前を責めに来たんじゃない……!」


 神代は息を整え、俺の前に立ちふさがる。


「御剣……あの時は、済まなかった」


 深く、静かに頭を下げた。

 その振る舞いには、弱さではなく、戦士としての誇りがあった。


「私は未熟だった。お前はあの場で最良の判断をした。犠牲は最小限で済んだ。それなのに私は……自分が負うべき痛みから逃げた。桜子を失った現実を……受け止める、勇気がなかった。その弱さを、お前に押しつけたんだ。……すまない」


 顔を上げた神代の目尻には、涙が光っていた。

 だが、瞳は揺れていない。


 悟ったさ――

 この涙は、覚悟の証なのだ。


「桜子の亡骸を見た時、私は取り乱すばかりだった。お前はボスを倒し、桜子の髪留めまで回収してくれた。残された者達への配慮……本来、私が気付くべき事だったのに……」


 雪上に落ちた雫が、静かに染みていく。


「あまり自分を責めるなよ、神代」


 俺に正義なんてない。

 好き勝手に生きて、モンスターを殺すだけの機械みたいなもんだ。


 俺は過去に、失敗した。




『お前が……俺たちを惑わしたんだ…… 訳分かんねぇ事言って、惑わすから…… お前がっ、俺たちのギルドを潰したんだよっ!! 分かってんのかぁ!!!!』


 だからソロに逃げた。


 そんな俺だからこそ――


「あれだけデカいパーティーを導ける、アンタは凄い探索者だよ。その光は、俺には眩し過ぎたな。少し遅れたが……部隊長、お疲れ様だ」


 その言葉に、神代の瞳に光が差した。

 燃えるような、強い光だった。


 神代はポケットから小さな袋を取り出し、封を開ける。

 中から出てきたのは、銀の髪留め。


 それを前髪にそっと当て、パチンと留めた。


「その髪留めは――」


「……お揃いなんだとさ。あいつの考えそうなことだろう?」


 微笑む神代の横顔に、一瞬だけ彼女の笑顔が重なった気がした。


 幻だ。

 だが、胸の奥が熱くなるには十分だった。


 神代は拳を握り、胸の前で構える。

 その瞳には、もう迷いがない。


「御剣。私は変わる。帝国ギルドの『銀の乙女』として、その名を誇れる自分になる。次に会う時は、弱さを捨てた私を見てほしい。……お前に、胸を張って会えるように」


 その誓いは、静かで、強く、揺るぎなかった。


 胸の奥がわずかに熱を帯びる。

 こんな気持ちが、まだ俺の中に残っていたとはな……


 俺はゆっくりと、右手を突き出した。


「……その日を楽しみにしてるよ――エリス」


 自然に、その名が口をついた。

 呼ぶつもりなどなかった。

 ただ、胸の霧が晴れた瞬間、自然と零れ落ちていた。


 拳が触れ合う。

 その一瞬は、時が止まったように感じた。


 長く刺さっていた棘が、静かに抜け落ちていく。



 階段を昇る足が、ふと軽くなる。


 振り返った先に、神代の姿は既にない。

 辺りに満ちる雪の匂いが、少しだけ、澄んで感じられた。

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