第27話 歪みの兆し
世界がどう始まり、どう狂っていったのか。
そんな歴史の話は、今を生きる人間たちにとっては、ただの背景に過ぎない。
だが――
その背景が、いま静かに動き始めていた。
そしてエリス・神代は、この日初めて、それを実感する事になる。
――――
「…………い、一千万、ですか……!?」
神代の呼吸が止まった。
同時に、桜子の母が不思議そうに首を傾げる。
「え……? このお金……ギルドの方々が置いて行った物じゃないんですか……?」
黒いアタッシュケースに敷き詰められた万札。
正体不明、出所の分からぬ大金を前に、神代の背筋は粟立つ。
「いえっ!! 我々が置いて行ったわけでは――――!!」
「でも、中にはあの子の髪留めが入っていました。それに……手紙を書いたのは、いったい誰なんでしょう……?」
「……髪留めと、手紙、ですか……?」
神代が眉を潜めると、母は立ち上がり、部屋の奥から白い封筒を持ってきた。
ちゃぶ台の上にそっと置かれた封筒を、神代は慎重に手に取る。
「拝見しても?」
母は静かに頷いた。
封筒を傾けると、一通の手紙と、銀色の髪留めが神代の手のひらに転がり落ちる。
その瞬間、神代は息を呑んだ。
目に涙が浮かぶ。
「――――っつ、桜子っ……!」
髪留めを握りしめ、震える指で手紙を開く。
その様子を、母は固唾を飲んで見守っていた。
読み終わった神代は、しばし呆然としたまま動かない。
胸の奥で、何かが静かに軋んだ。
髪留めを握りしめた指先が、白くなるほどに、力が入った。
そしてふと、脳裏にひとつの影がよぎる。
あの日の事件の顛末を知っており、なおかつ、桜子の髪留めを回収できた人物。
一千万円という報酬金を手に、ギルドを去った。
あの男――――
「…………御剣?」
――――
ダンジョンが生まれて三十年。
世界は落ち着いたように見えて、その実、常にどこかが歪んでいた。
国もまた、異変を見逃してはいなかった。
今、この日本において。
歪みを生み出している存在――――それは。
2026年 12月 25日
公安本庁 タワービル。
公安一課 ダンジョン災害対策専門室。
「茂宮さ~ん。俺もう嫌ですよ、こんなデスクワークばっかり! 俺たちの仕事って足使ってなんぼじゃないですか」
「泣き言言ってんじゃねぇぞ、吉田ぁ! 無駄口叩く暇があったら、一件でも多く処理しろや!」
「だってもう一週間以上も缶詰ですよ! なんで一課の俺らが、こんな事務処理しなくちゃいけないんすか!」
文句を言いながらも、吉田の手は止まらない。
業務の処理速度を落とさぬままでの会話、慣れた物だった。
普段なら茂宮の一喝で黙る吉田だが、今日は妙に反抗的。
よほど今の状況に不満があるのだろう。
茂宮はキーボードを叩く手を止め、対岸の席の吉田に向き直る。
「仕方ねぇだろ。年末年始はゲート発見の通報が、いつもの倍以上は来るんだ。酔っ払いがふざけ半分で通報入れたりな……真偽を見極めるだけでも大変なんだよ」
「それ、許せませんよね! 虚偽通報はもっと厳罰にすべきです!」
腕組みしてうんうん頷く吉田に、茂宮は苦笑した。
デスクの缶コーヒーを手に取り、飲み口に視線を落とす。
「ダンジョン対策法、第3条。『ダンジョンにまつわる如何なる虚偽の申告を禁ず』だ。大衆を煽る様な悪質なのは牢屋行き……まあ、今の法律じゃここが限界だわな」
「曖昧ですよね、あの条文。あんなん律儀に守ってる人、今時いるんすかね?」
「さてな。馬鹿みたいなに糞まじめな野郎なら、守ってんじゃねぇか?」
缶コーヒーを飲み干し、茂宮は再びモニターに向き直る。
「さっさと片付けて帰んぞ。三日連続で日付跨ぎたくねぇだろ」
「ひぇ~! それはおっかねぇですって、茂宮さん! ……よし、がんばろっ!」
吉田は気合を入れ、書類の束と格闘を再開した。
そのとき――――
「茂宮少佐……少し宜しいでしょうか」
「ん?」
斜め後ろからの声に、茂宮が振り返る。
「お勤めご苦労様です、少佐。突然すいません。少しばかり、お時間を頂けないでしょうか?」
「……そいつぁ別に構いませんが……」
白を基調としたコートをまとう男。
公安でその服を許される者は限られている。
(【執行部隊】の連中が、一課のオフィスまで降りて来るなんて珍しいな……)
茂宮の目が細まり、無意識に身構えた。
「では早速。ついて来てください」
促されるまま、茂宮はオフィスを出る。
エレベーターに乗り込むと、白コートの男がICカードをかざし――階層を押した。
「お、おいっ!! 待てって!! 77階って、あの方の部屋じゃねぇか……!」
「ええ、そうです。桐生様が、少佐に少しお話があるとの事で」
「そういう事は最初に言ってくれって!! 桐生さんに会うなんて、心の準備が出来てねぇよ!」
背中を冷や汗が伝う。
エレベーターはもう動き出していた。
40。
50。
60。
そして――77階。
最上階。
扉が開くと、長い一本道の通路。
歩きながら、茂宮は必死に身なりを整えた。
通路の終わりに、ひとつだけ佇むドア。
白コートの男がノックすると、中より声が返る。
ドアが開いた。
部屋に足を踏み入れた瞬間、悪寒が全身を這いずる。
「よく来たな、茂宮少佐。こうして直接顔を合わせるのは久々か?」
中央に鎮座する、大きなデスク。
そこに坐する男こそ、この部屋の主――――
視線を向けられただけで、茂宮の背筋が自然と伸びた。
桐生 正臣。
公安が保有する、最高戦力。
それは剣聖と呼ばれる、稀代の剣豪であった。
――――用語一覧――――
【執行部隊】
公安における、ダンジョン攻略のプロフェッショナル集団。
団員は皆が白いコートに身を包み、卓越した戦闘能力を誇る。主に公安特務部隊だけでは解決できない、イエローゲート以上の案件に介入し、ダンジョンを攻略へと導く役割を担う。




