第79話 先生が一回でも違和感を持つと、次からの沈黙は少し意味が変わる
沈黙には、いくつか種類がある。
何も考えていない沈黙。
どう返せばいいか分からない沈黙。
そして、一度違和感を持ったあとに、それをすぐ言葉にしないための沈黙。
この最後のやつが、たぶんいちばん厄介で、いちばん重い。
表面だけ見れば、何も変わらない。
先生は相変わらず大きな声を出さないし、その場で誰かを問い詰めるわけでもない。黒崎も、何でもない顔でそこにいる。教室の空気も、ぱっと見は昨日までと同じだ。
でも、一回でも先生の中に「あれ?」が入ると、そのあとの沈黙は少し意味が変わる。
それを、その日の僕はかなりはっきり感じていた。
朝の教室。
窓から入る光は明るいのに、教室の空気は少しだけ薄い膜を張ったみたいだった。
たぶん、僕だけじゃない。
木乃実も、佐伯も、三田村も、言葉にしないまま昨日の場面を引きずっている。朱音は朝から黒崎の方を見ている回数が多いし、エヴァはいつも通り静かな顔をしているが、たぶん何も見落としていない。
そして遠山先生は、昨日と同じくらい、いや少しだけそれ以上に静かだった。
「神代くん」
木乃実が振り向く。
「何」
「今日、先生のこと見てる」
「最近ほんとに、人の顔から全部読むな」
「だって分かるし」
木乃実は頬杖をついた。
「しかも今日は、“黒崎くんじゃなくて先生の沈黙の方見てる”って顔」
「……」
「図星」
「そこまで読むのやめろ」
「無理」
「即答するな」
「便利だから」
「その言葉ほんと万能だな」
「便利だよ」
後ろから佐伯が入る。
「でも分かる」
「何が」
僕が聞くと、佐伯は肩をすくめた。
「昨日の先生」
「うん」
「一回あれってなっただろ」
「……」
「だから今日から、何も言わなくても前とは違う」
「……」
「何だよ」
「いや」
僕は小さく息を吐いた。
「やっぱり、そこなんだなって」
「だろ」
「うん」
少し離れた席から、エヴァの声が届く。
「ようやく、“見えたあとの沈黙”を拾う段階に来ましたのね」
相変わらず、この人は朝から核心が早い。
「何だよその言い方」
僕が聞くと、エヴァは平然としていた。
「そのままの意味です」
「……」
「今までは、遠山先生の沈黙はただの保留でした」
「うん」
「でも昨日、前後の空気に一度引っかかった」
「うん」
「なら、今日からの沈黙は違う」
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は苦笑した。
「最近の君、そこを本当に迷いなく言うなって」
「迷う理由がありません」
「強いな」
「必要なので」
「便利な理屈だ」
「あなた方ほどではありません」
朱音は、その会話のあとで小さく言った。
「今日、たぶん先生の“間”増えるよ」
「具体的だな」
僕が言うと、朱音は肩をすくめた。
「だって昨日、ちょっと止まったし」
「うん」
「一回“あれ?”ってなった人って」
「うん」
「次から、同じところで少し止まる」
「……」
「何その顔」
「いや」
僕は正直に答える。
「それ、かなりありそうだなって」
「でしょ?」
「うん」
「今日はそこ見てて」
「分かった」
一時間目。
遠山先生が出欠を取る。
それ自体は、いつも通りだった。
名前を呼んで、返事を確認して、欠席を記入する。それだけの時間。教室にいる誰も、そこへ特別な意味なんて感じないはずだ。
でも、今日は一度だけ、その“いつも通り”に小さな引っかかりがあった。
「黒崎くん」
「はい」
「……うん」
それだけ。
本当にそれだけだ。
名前を呼び、返事があり、先生が頷く。
ただ、その最後の頷きの前に、ほんの一拍、目が止まった。
気のせいと言われれば、それまでかもしれない。
でも今の僕たちは、そういう“一拍”を見逃さないところまで来てしまっている。
「……今の」
木乃実が小さく言う。
「うん」
僕も返す。
「少し」
「止まったよね」
「うん」
「うわ」
木乃実が机の上に顎を乗せた。
「こういうの、見えるようになると嫌だな」
「かなりな」
僕が答えると、佐伯も小さく頷いた。
「でも昨日までなら、そこただの間で終わってた」
「うん」
「今は違う」
「……」
「そうだな」
二時間目のあと。
提出物の回収で、また小さな場面があった。
黒崎が前の列から回ってきたノートを受け取り、机の端へ整えて置く。
その横で三田村が少しだけ遅れてノートを出した。
「遅」
と、黒崎が小さく言った。
ほとんど聞こえないくらいの声だ。
でも近くにいた僕と三田村には届く。
木乃実もたぶん聞いた。少しだけ顔が上がったから。
その直後、黒崎はノートを受け取って平然と重ねる。
「はい」
と先生へ渡す。
その動きだけ見れば、何でもない。
むしろきれいなくらいだ。
「ありがとう」
遠山先生が言う。
でも、今度はそこで終わらなかった。
先生はノートを受け取ってから、黒崎ではなく三田村を一度見た。
そして、何も言わずにまた視線を戻した。
それだけだ。
たったそれだけ。
でも、その視線の順番は、昨日までと違う。
「……今の」
三田村が小さく言う。
「うん」
僕が返す。
「見た」
「先生」
「うん」
「俺、一回見たよね」
「見た」
木乃実もすぐ言った。
「今の、ちょっと違った」
「……」
「何だよ」
「いや」
僕は少し息を吐く。
「やっぱり、先生の中で昨日の違和感残ってるんだなって」
「うん」
木乃実は頷く。
「何かあった時、前みたいに黒崎くんだけ見て終わらない」
「……」
「そこ、かなり大きい」
昼休み。
後ろの棚の近くへ集まると、木乃実が最初に言った。
「先生、やっぱ変わった」
「うん」
僕は頷く。
「でも」
「でも?」
「言葉にはまだなってない」
「……」
「そこが逆に大きい気もする」
「うん」
佐伯が低く言った。
「一回違和感持った先生って、すぐ言わない方が怖い」
「怖い?」
三田村が聞くと、佐伯は肩をすくめた。
「だって、今は様子見てるってことだろ」
「……」
「前みたいに、ただ流してるわけじゃない」
「うん」
「でも、まだ止めるところまでは行ってない」
「……」
「そのあいだの沈黙って、前より意味ある」
「……」
「何だよ」
「いや」
僕は少し苦笑した。
「おまえ、たまに本当に言うこと鋭いな」
「たまに、は余計だろ」
「でも事実だろ」
「まあな」
三田村は少しだけ考えてから言った。
「俺」
「うん?」
「前まで、先生が何も言わないと」
「うん」
「“やっぱり何も伝わってないんだ”って思ってた」
「……」
「でも今は」
「……」
「何も言わなくても、少し違うかもって思う」
「……」
「それ、かなり大きいな」
僕が言うと、三田村は小さく頷いた。
「うん」
「まだ、安心はできないけど」
「うん」
「前と同じ“何もなかった顔”じゃない」
「……」
「そう」
僕は短く答えた。
少し離れたところから、エヴァが静かに言った。
「ようやく、そこが見えるようになりましたのね」
「何が」
僕が聞くと、エヴァは平然としている。
「沈黙の質です」
「……」
「今までは、“拾えていないから何も言わない”」
「うん」
「でも今は、“違和感を持ったうえで、まだ様子を見ているから言わない”」
「……」
「その差は大きいです」
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は息を吐いた。
「今の、かなり欲しかった整理だなって」
「そうでしょうね」
「そこ迷わないな」
「迷う理由がありません」
朱音は、そのあとで少しやわらかく言った。
「だから」
「何」
「今日の沈黙って、前よりちょっと怖いけど」
「うん」
「悪い意味だけじゃない」
「……」
「何その顔」
「いや」
僕は素直に答える。
「最近のおまえ、そこ言うのうまくなったなって」
「長いからね」
「またそれか」
「便利だよ」
「その便利、ほんと無敵だな」
放課後。
黒板の文字が消されて、夕方の光が少しだけ斜めになるころ、僕は今日の場面を頭の中でもう一度並べていた。
黒崎の返事。
先生の一拍。
三田村への視線。
そして、何も言わないまま通り過ぎたこと。
先生が一回でも違和感を持つと、次からの沈黙は少し意味が変わる。
今の僕たちにできるのは、たぶんその変化を見逃さないことなんだろう。




