第80話 気づかれたと分かったやつは、今度は“外側”を使おうとする
人は、自分のやり方が効きにくくなったと分かった瞬間に、別の武器を探し始める。
それは別に、悪い意味に限らないのかもしれない。
勉強でもスポーツでも、同じやり方で壁に当たったら違う方法を試すのは当たり前だ。
ただ、その“違う方法”がどこへ伸びていくかで、面倒さの種類はかなり変わる。
黒崎蓮司の場合、それはたぶん“外側”だった。
教室の中だけで押しきれない。
先生の前だけの感じよさでも、少しずつ見え方が揺れ始めた。
じゃあ次は何を使うか。
親。
保護者。
学校の評判。
PTA。
そういう、“教室の外にある大人の論理”を、薄く匂わせる。
最近の黒崎は、そこへ行きかけている。
そして、それがいちばん嫌だった。
朝の教室は、妙に明るかった。
天気がよかったせいかもしれないし、週末が少し近づいてきたせいかもしれない。誰かがやたら元気で、誰かがそれに適当に返している。見た目だけなら、ごく普通の朝だ。
でも今の僕には、その普通の下に少しずつ別の流れができているのが見えてしまう。
「神代くん」
木乃実が振り向いた。
「何」
「今日、ちょっと嫌な方向に警戒してる」
「最近ほんと、診断が雑で精度高いな」
「だって分かるし」
木乃実は頬杖をつく。
「しかも今日は、“教室の中だけじゃ済まなくなるやつ来るかも”って顔」
「……」
「図星」
「そこまで読むのやめろ」
「無理」
「即答するな」
「便利だから」
「その言葉ほんと万能だな」
後ろから佐伯が入る。
「昨日の先生の沈黙の続きだろ」
「うん」
「向こうも、先生が少し揺れ始めたの感じてる」
「うん」
「なら次は、教室の外の話混ぜてくる」
「……」
「やっぱりそう思う?」
僕が聞くと、佐伯は肩をすくめた。
「思うよ」
「何で」
「黒崎って、自分の立ち位置悪くなったら絶対別の土俵持ってくるタイプだろ」
「……」
「何だよ」
「いや」
僕は小さく息を吐いた。
「やっぱり、そこだよなって」
「だろ」
「うん」
少し離れた席から、エヴァの声が届く。
「やはり、そちらへ行きますのね」
朝から、やっぱり確信が早い。
「何が」
僕が聞くと、エヴァは平然としていた。
「“外側”です」
「……」
「今までの黒崎蓮司は、教室の中の空気を使っていた」
「うん」
「でも最近は違う」
「うん」
「担任以外の先生の目も少し入った」
「うん」
「遠山先生の見え方も揺れ始めた」
「……」
「なら次は」
「……」
「学校の外にある力を、言葉として匂わせる」
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は苦笑した。
「そこまで迷わず言うの、ほんとに嫌なくらい正確だなって」
「嫌だからこそ、正確であるべきです」
「はっきり言うな」
「必要なので」
「便利な理屈だ」
「あなた方ほどではありません」
朱音は、その会話を聞いたあとで妙に静かだった。
静か、というより、考えている顔に近い。
「朱音」
「何」
「今日は珍しく、すぐ怒らないな」
「怒ってるよ」
「怒ってるのか」
「うん」
朱音は腕を組んだ。
「でも、今日の嫌さってちょっと種類違う」
「……」
「どう違う」
「教室の中で嫌なこと言うとかじゃなくて」
「うん」
「“もっと外の話”になりそうな感じ」
「……」
「何その顔」
「いや」
僕は正直に言った。
「それ、かなり分かるなって」
「でしょ?」
「うん」
「だから今、ちょっと本気で嫌」
「かなりな」
一時間目のあと、それは思ったよりさりげなく来た。
教室の前の方で、黒崎が男子二人と話している。
内容は部活のことから始まって、いつの間にか先生の話になっていた。
「でもさ」
黒崎が笑う。
「学校もいろいろ大変だよな」
「何が?」
男子の一人が聞く。
「いや、最近うちの学年ちょっと固いじゃん」
「……」
「まあ、そうかも」
「先生らも気使ってんだろうなって」
「へえ」
「親とかうるさいとこ、ほんとうるさいし」
「……」
「うわ」
木乃実が小さく言った。
「来た」
「来たな」
僕も答える。
「かなり薄く」
「薄いのが嫌なんだよ」
木乃実は顔をしかめる。
「今の、別におかしいこと言ってないようにも聞こえるし」
「うん」
「でも完全に“大人の都合”混ぜてる」
「……」
「そこが嫌」
「かなりな」
黒崎は、誰かを名指ししていない。
でも“親とかうるさいとこ”を混ぜた時点で、会話の土俵が一段外へずれる。
教室の空気の話だったものが、急に学校の評判とか、家庭の目線とか、そういう話へ寄る。
そこが、本当に面倒だった。
昼前には、もう一つ似た場面があった。
今度は廊下。
黒崎が別のクラスのやつと話していて、笑いながら言う。
「いや、学校ってそういうの面倒だろ」
「何が」
「ちょっとしたことでも、親が入ると一気にだるくなるやつ」
「まあ、それはある」
「だろ?」
黒崎は肩をすくめた。
「だから先生らも慎重なんじゃね」
「……」
今のも、別に直接誰かを脅しているわけじゃない。
でも、聞いてるこっちには十分すぎるくらい意味がある。
学校も面倒だろ。
親が入るとだるい。
先生も慎重になる。
そういう“大人側の事情”を、黒崎は少しずつ空気の中へ混ぜ始めている。
昼休み。
後ろの棚の近くへ集まると、木乃実が真っ先に言った。
「これ、ほんと嫌」
「うん」
僕も頷く。
「かなりな」
「今まではまだ、黒崎くんが普通とか、神代くんが真面目すぎるとか」
「うん」
「そういう教室の中の話だった」
「うん」
「でも今のは違う」
「……」
「“学校も大変”とか、“親がうるさい”とか」
「……」
「急に大人の都合混ぜてくる」
「……」
「そこが、ほんと嫌」
「かなり分かる」
佐伯が低く言った。
「しかも、今の言い方なら別に誰も責めてないように見える」
「うん」
「でもちゃんと、“こっちには外側もあるぞ”って匂わせてる」
「……」
「何だよ」
「いや」
僕は息を吐いた。
「やっぱり、向こうも次の段階入ったなって」
「だろ」
「うん」
三田村は少しだけ不安そうに言った。
「それって」
「うん?」
「前に黒崎くんが言った、“うちの親そういうの詳しい”の延長?」
「……」
「たぶん」
僕は答えた。
「かなり近い」
「……」
「そっか」
三田村は小さく息を吐く。
「やっぱり、そっち使うんだ」
「うん」
「何だよ」
「いや」
三田村は少しだけ顔を上げた。
「教室の中でうまくいかなくなったら、外の方に寄るんだなって」
「……」
「そうだな」
僕は頷く。
「それが今、かなり見えてる」
「怖いね」
三田村が言う。
「うん」
僕は正直に答えた。
「かなり」
少し離れたところから、エヴァが静かに言った。
「やはり、そこへ行きますのね」
僕たちがそちらを見る。
「教室内の空気だけでは押し切れない」
「うん」
「先生の見え方も揺れ始めた」
「うん」
「なら次は、“学校は面倒を嫌う”という一般論を使う」
「……」
「一般論」
木乃実が聞くと、エヴァは頷いた。
「ええ」
「“親が入ると面倒”」
「うん」
「“先生も慎重になる”」
「うん」
「“学校も大変”」
「……」
「そのどれも、表面だけなら正論です」
「……」
「でも」
「でも?」
「今そのタイミングで繰り返すなら」
「……」
「ただの雑談ではありません」
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は正直に言った。
「今の、かなり欲しかった整理だなって」
「そうでしょうね」
「そこ迷わないな」
「迷う理由がありません」
朱音は、その会話のあとで少しだけ声を落とした。
「これ、ほんと嫌な段階」
「うん」
僕が答えると、朱音は僕を見る。
「だって、教室の中だけ守ってても」
「うん」
「外から“学校も大変だよね”って押されたら」
「……」
「簡単に揺れる」
「……」
「うん」
僕は頷いた。
「それ」
「何その顔」
「いや」
僕は苦笑した。
「おまえ、今日はかなり真面目だなって」
「今日は本気」
「最近それ多いな」
「だって今そこ大事だし」
午後の授業中、僕はやけに“学校”という単位を意識していた。
遠山先生。
学年主任。
生徒指導寄りの先生。
そしてその外にいる保護者。
教室の中で見えていた理不尽は、少しずつその全部と繋がり始めている。
それは、正しさが広がるというより、面倒さが増える感じに近かった。
でも、ここまで来たらもう見なかったことにはできない。
放課後、窓際で少しだけエヴァと話した。
「やはり“外側”は重いですわね」
「うん」
僕は答える。
「かなり」
「何ですの」
「いや」
僕は息を吐いた。
「今までは教室の中の話として整理できてたけど」
「うん」
「今はそこに、学校の評判とか、親とか、先生の慎重さとかが混ざってくる」
「……」
「それ、急に固い」
「当然です」
エヴァは淡々と続ける。
「教室の中の正しさだけでは、もう足りないということです」
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は苦笑した。
「やっぱり、そこなんだなって」
「ええ」
「そして」
エヴァは少しだけ目を細めた。
「黒崎蓮司も、そこを使うつもりだと見ておくべきです」
「……」
「分かってる」
「なら結構です」
気づかれたと分かったやつは、今度は“外側”を使おうとする。
今日の黒崎は、そのことをかなり静かに証明していた。




