第75話 正しい側が孤立すると、だいたい流れは向こうへ寄る
空気というものは、正しさより先に多数派へ寄る。
これはあまり気持ちのいい事実じゃない。
誰が本当に正しいか。
どこで何が起きていたか。
どちらの言い分に筋があるか。
そういうものが大事じゃないわけじゃない。
でも、教室の空気はまずそこから判断しない。
あっちの方が自然そう。
こっちの方がちょっと気にしすぎに見える。
何となく、面倒じゃない方に乗りたい。
そういう雑で、でも現実的な流れの方が、先に場を決めてしまう。
だから正しい側が孤立すると、だいたい流れは向こうへ寄る。
そのことを、その日の僕はかなりはっきり思い知ることになった。
朝の教室は、妙に軽かった。
いや、明るいという意味じゃない。
表面だけが軽い。
何でもない雑談が流れていて、笑い声もある。でもその軽さの下に、ここ数日で少しずつ変わってきた空気が混ざっている。
黒崎は今日も、何でもない顔で笑っていた。
その“何でもない”の中に、
俺は普通にしてるだけ。
最近ちょっと周りが気にしすぎじゃない?
そういう匂いが薄く混ざっているのを、今の僕はもう見逃せない。
「神代くん」
木乃実が振り向く。
「何」
「今日、ちょっと嫌な予感する」
「最近それ多いな」
「でも当たることも多いし」
木乃実は頬杖をついた。
「しかも今日は、“空気がちょっと向こう寄りになるかも”って顔」
「……」
「図星」
「最近ほんと、顔から未来読むな」
「神代くんが分かりやすすぎるの」
「その標語、ほんと寿命長いな」
「名作だからね」
「勝手に昇格させるな」
後ろから佐伯が入る。
「でも分かるわ」
「何が」
僕が聞くと、佐伯は肩をすくめた。
「昨日からの“普通にしてるだけ”のやつ」
「うん」
「一部、ちょっと乗り始めてる感じある」
「……」
「やっぱり?」
「うん」
佐伯は眠そうな顔のまま言った。
「“黒崎って別にそこまでじゃなくない?”って顔してるやつ、増えた」
「……」
「何だよ」
「いや」
僕は小さく息を吐いた。
「やっぱ出るよなって」
「そりゃ出る」
「……」
「普通、って言葉強いし」
「かなりな」
少し離れた席から、エヴァの声が届く。
「当然ですわね」
相変わらず、朝から結論が早い。
「何が当然なんだ」
僕が聞くと、エヴァは平然としていた。
「“普通”は空気を取りやすい言葉です」
「……」
「そこへ、黒崎蓮司は“自分は普通”を置いた」
「うん」
「なら、一部がそちらへ寄るのは自然です」
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は苦笑する。
「やっぱり君、そこを本当に容赦なく言うなって」
「容赦して現実が変わるならしますけれど」
「しないからな」
「ええ」
「便利な理屈だ」
「あなた方ほどではありません」
朱音は、その会話のあとで小さく言った。
「だから嫌なんだよ」
「何が」
僕が聞くと、朱音は黒崎の方を見たまま答える。
「“普通”ってやつ」
「……」
「だって、一部の人って」
「うん」
「そこへ逃げたいじゃん」
「……」
「“別に大したことない”って思えた方が楽だし」
「……」
「何その顔」
「いや」
僕は素直に言った。
「そこ、かなり本質だなって」
「でしょ?」
「うん」
「嬉しくないけど」
一時間目のあと、その“寄り”は思ったより分かりやすく出た。
教室の真ん中あたりで、黒崎が男子数人と話している。
その中の一人が、昨日までならそんなこと言わなかったはずの口調で笑った。
「でもさ、最近ちょっと神代ピリついてない?」
軽い言い方だった。
冗談っぽく。
だから余計に嫌だった。
「え」
別の男子が笑う。
「まあ、分からんでもない」
「だろ?」
最初に言ったやつが肩をすくめる。
「何か最近ずっと、空気の細かいとこ見てる感じ」
「……」
「いや、でも神代って前からそういうとこあるじゃん」
黒崎が笑う。
「真面目っつうか」
「うわ」
木乃実が小さく言った。
「来た」
「来たな」
僕も答える。
黒崎は直接、僕を悪く言っていない。
むしろ少しフォローっぽくすら聞こえる。
でも、それがいちばんうまい。
神代はピリついてる。
でも、悪いやつじゃなくて真面目なだけ。
つまり、ちょっと気にしすぎるタイプなんだよ。
そういう着地だ。
それは、今の流れの中だとかなり効く。
「……最悪」
木乃実が言う。
「かなりな」
僕も答える。
「しかも一番だるいやつ」
「うん」
「黒崎くん、自分では悪く言わない」
「うん」
「でも周りに言わせて、最後だけ丸くする」
「……」
「そこが本当に嫌」
「かなり分かる」
三田村は、その会話を聞いたあと、少しだけ黙っていた。
「三田村」
「うん」
「大丈夫か」
「……ちょっとだけ」
「何」
僕が聞くと、三田村は苦笑した。
「やっぱり、そっち行くんだなって」
「……」
「そっち?」
「“神代くんたちが気にしすぎなのかも”って方」
「……」
「うん」
僕は頷いた。
「それは、ある」
「……」
「怖い?」
三田村が聞き返してきた。
「うん」
僕は正直に答えた。
「かなり」
「……」
「何」
「いや」
三田村は少しだけ顔を上げた。
「神代くんが、そこちゃんと怖いって言うの」
「うん」
「ちょっと安心する」
「……」
「何で」
「前みたいに、“でも大丈夫”って先に言わないから」
「……」
「たしかに」
木乃実も言う。
「最近の神代くん、そのへん変わった」
「変わった?」
「うん」
木乃実は頷く。
「怖いものを怖いまま見てる」
「……」
「何だよ」
「いや」
僕は苦笑した。
「それ、褒めてるのか?」
「かなり」
「最近そこ割合なし多いな」
「今日は本気」
昼休み。
後ろの棚の近くへ集まると、木乃実が珍しく少し強めに言った。
「これ、やだ」
「うん」
僕が頷くと、木乃実は腕を組んだ。
「分かるけど、それ今そっち行くんだ、って感じ」
「……」
「黒崎くんの“普通”に乗って」
「うん」
「神代くんの“真面目すぎる”へ流す」
「……」
「そこ、ほんと最悪」
「かなりな」
佐伯が低く言った。
「しかも一部にしか効いてなくても、十分だるい」
「うん」
「空気って、全員じゃなくても動くし」
「……」
「それ」
僕は小さく言った。
「たぶん今すごく大事」
「何が」
木乃実が聞く。
「正しい側が、一人か二人だけの感じになると」
「うん」
「流れって簡単に向こうへ寄る」
「……」
「……うん」
木乃実は頷いた。
「それ、分かる」
「だろ」
佐伯も言う。
「神代と木乃実と三田村だけが気にしてる、みたいになると」
「うん」
「一気に“あっちが普通”になる」
「……」
「そこが怖い」
三田村は少しだけ不安そうな顔で言った。
「じゃあ」
「うん?」
「俺たち、孤立しない方がいいんだよね」
「うん」
僕は頷いた。
「かなり」
「……」
「何だよ」
「いや」
三田村は少しだけ考えてから言う。
「最近、前よりそういうの分かるようになってきた」
「……」
「どういう」
「神代くん一人が見てるんじゃなくて」
「うん」
「木乃実さんもいて」
「うん」
「佐伯くんもいて」
「うん」
「そうやって、“気にしてるのが一部だけ”にならない方が大事なんだなって」
「……」
「そう」
僕は短く答えた。
「今はたぶん、そこ」
「何その顔」
「いや」
僕は正直に言った。
「三田村がそこまで整理して言うの、かなり大きいなって」
「それ、褒めてる?」
「かなり」
「最近そこ割合なし多いね」
「今日は本気」
少し離れたところから、エヴァが静かに言った。
「だからこそ、神代恒一が一人で抱える形へ戻ってはいけないのです」
「……」
僕たちがそちらを見る。
「今の空気で、あなたが一人で正しさを抱えたら」
「うん」
「ただ浮きます」
「……」
「でも」
「うん」
「木乃実さんがいて」
「うん」
「三田村くんがいて」
「うん」
「佐伯くんのような“少し離れて見ている側”もいる」
「……」
「そこまであれば、“神代恒一だけが過敏”には寄りにくい」
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は少しだけ息を吐いた。
「今の、かなりその通りだなって」
「そうでしょうね」
「そこ迷わないな」
「迷う理由がありません」
朱音は、そのあとで少しやわらかく言った。
「だから、一人で抱えないでね」
「……」
「何だよ」
「今の流れ」
朱音は僕を見る。
「ちょっと向こう寄りになるの、たぶん止めきれない」
「うん」
「でも」
「でも?」
「そこで恒一くんが一人で何とかしようとすると」
「……」
「余計に“神代くんだけがピリついてる”になる」
「……」
「うん」
僕は頷いた。
「そこは分かってる」
「ならいい」
「……」
「何」
「いや」
僕は苦笑した。
「おまえ、最近そういう言い方増えたな」
「何それ」
「ちゃんと一歩引いたとこから支えるやつ」
「……」
朱音は少しだけ目をそらした。
「だって必要だから」
「便利な言葉だな」
「便利だよ」
「そこほんとぶれないな」
正しい側が孤立すると、だいたい流れは向こうへ寄る。
今日の空気は、そのことをかなりはっきり見せてきた。
でも逆に言えば、孤立しなければまだ戻せる余地はある。




