第74話 “普通にしてるだけ”って言うやつほど、普通を武器にする
普通、という言葉は強い。
強いくせに、形がない。
だからこそ厄介だ。
普通にしてるだけ。
普通に話してるだけ。
普通の冗談。
普通の気遣い。
そう言われると、こっちは急に立場が悪くなる。
じゃあ何がおかしいのか。
どこからが嫌なのか。
何をもって“普通じゃない”と言うのか。
そういう説明を、全部こちら側が引き受けることになるからだ。
しかも、“普通”は人によって形が違う。
だから、その言葉を武器にするやつは強い。
自分の立ち位置を自然に見せたまま、相手だけを神経質な側へ押しやりやすい。
そして最近の黒崎蓮司は、まさにそこへ来ていた。
朝の教室。
空気は昨日より少し軽いようでいて、たぶん中身は逆だった。
表面だけなら、何でもない。
でも、水面の下で流れが変わっている感じがする。
木乃実は、いつものように僕の顔を見て言った。
「神代くん」
「何」
「今日、たぶんちょっと嫌な揺れ来る」
「ずいぶん雑な予言だな」
「でもたぶん当たる」
木乃実は頬杖をつく。
「しかも今日は、“黒崎くん別に普通じゃない?”みたいなやつ」
「……」
「図星」
「最近ほんと、人の顔から未来予測するな」
「神代くんが分かりやすすぎるの」
「その標語、そろそろ規制したい」
「でも当たってるし」
「かなりな」
「ほら」
後ろから佐伯が入る。
「昨日の流れの続きだろ」
「うん」
「“俺は普通にしてるだけなんだけど”ってやつ」
「うん」
「それ、今日あたり一部に効く気がする」
「……」
「やっぱりそう思う?」
僕が聞くと、佐伯は肩をすくめた。
「思うよ」
「何で」
「普通、って言葉つええもん」
「……」
「何だよ」
「いや」
僕は小さく息を吐いた。
「やっぱそこだよなって」
「だろ」
「うん」
少し離れた席から、エヴァの声が届く。
「“普通”の定義を奪うのが、いちばん簡単ですもの」
朝から、やっぱり切れ味がある。
「言い方が強いな」
僕が言うと、エヴァは平然としていた。
「事実です」
「普通の定義を奪う?」
「ええ」
エヴァは淡々と続ける。
「黒崎蓮司が“俺は普通にしてるだけ”と言う」
「うん」
「それを周囲がなんとなく受け入れる」
「うん」
「すると次に、神代恒一たちの側が“普通を大げさに受け取りすぎる人間”へ寄る」
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は苦笑した。
「やっぱり君、そこ本当に容赦なく言うなって」
「容赦して曖昧になる方が面倒です」
「便利な理屈だ」
「あなた方ほどではありません」
朱音は、今日は妙にむっとしていた。
「何だよ」
僕が聞くと、朱音は前の方を見たまま答える。
「“普通”って言われるの、嫌い」
「……」
「何で」
「だって」
朱音は腕を組む。
「その一言で、変な空気全部こっちの考えすぎみたいになるじゃん」
「……」
「そこが嫌」
「かなりな」
僕が答えると、朱音は小さく頷いた。
「でしょ?」
一時間目の休み時間、その“揺れ”は思ったより分かりやすく来た。
教室の中央あたりで、黒崎が男子何人かと話している。
声は大きすぎず、小さすぎず。聞こえるやつには聞こえる、ちょうど嫌な音量だ。
「いや、俺ほんと普通なんだけどな」
黒崎が笑う。
「何が」
相手の男子が聞く。
「何か最近さ、ちょっとしたことでも気にされる感じあるじゃん」
「……」
「え、そうか?」
「いや、分かんないけど」
黒崎は肩をすくめる。
「俺、普通にしてるだけなんだけど」
「あー」
「まあ、たしかに最近ちょっとピリついてる時あるかも」
「だろ?」
「……」
その会話が、嫌なくらい自然だった。
誰かの悪口を言っているわけじゃない。
自分は普通だと言っているだけ。
相手も“そうかも”と軽く乗るだけ。
それだけで、空気は少し動く。
「……うわ」
木乃実が小さく言う。
「来た」
「来たな」
僕も答える。
「かなりそれっぽく」
「それっぽくじゃなくて、かなりそのままだよ」
「分かる」
僕は苦笑した。
「でも、あまりにそのままで逆に嫌だ」
「かなり嫌」
木乃実は顔をしかめる。
「今の聞いた人、普通に“神代くんたちちょっと気にしすぎ?”って寄りうる」
「うん」
「そこが最悪」
「かなりな」
三田村も少し不安そうな顔で言った。
「これ」
「うん?」
「やっぱり、そっち行くかな」
「そっち?」
「“黒崎くん別にそこまでじゃないかも”って方」
「……」
「行くかもしれない」
僕は正直に言った。
「……」
「うわ」
木乃実が顔をしかめた。
「そこ、今日も正直だね」
「ごまかしても意味ないだろ」
「それはそうだけど」
木乃実はため息をつく。
「でも嫌だなあ」
「かなりな」
僕が答えると、三田村も小さく頷いた。
そのあと、さらに一つ小さい出来事が重なった。
昼前、先生がいない短い休み時間。
黒崎がノートを忘れた男子へ、自分のを少し見せながら言う。
「ほら、こういうのは助け合いだろ」
「助かる」
「普通にしてれば、別に揉めないし」
その“普通にしてれば”が、やっぱり耳に残る。
普通。
つまり、おまえらが普通じゃないんじゃないか。
そういう含みを、わざわざ名指ししないまま置いていく。
そこが、本当にうまい。
昼休み。
後ろの棚の近くへ集まると、木乃実がすぐ言った。
「今の、かなり効くよね」
「何が」
僕が聞くと、木乃実は腕を組む。
「“普通にしてるだけ”」
「……」
「だって、その言葉だけならおかしくないもん」
「うん」
「でも最近の流れに乗ると」
「うん」
「神代くんたちが“普通じゃない方”に寄る」
「……」
「何だよ」
「いや」
僕は小さく息を吐いた。
「やっぱりそこが一番嫌だなって」
「だよね」
木乃実は頷く。
「しかも一部の人、ちょっと乗ってる感じあるし」
「……」
「うん」
僕も頷いた。
「出てきたな」
「それ、やっぱ出るよね」
佐伯が言う。
「一部の“別にそこまでじゃなくない?”」
「うん」
「今の黒崎、そこ狙ってるんだろうし」
「……」
「かなりな」
僕が答える。
三田村は少しだけ曇った顔で言った。
「俺」
「うん?」
「また、前みたいに戻るのかなってちょっと思った」
「……」
「前みたい?」
「“やっぱ俺らが気にしすぎだったのかな”って方」
「……」
その言葉は、思ったより重かった。
たぶん、それが今いちばん怖いのだ。
せっかく見えてきた形が、また“気にしすぎ”へ戻されること。
「戻らないよ」
木乃実が先に言った。
「え?」
「少なくとも、前のゼロには戻らない」
「……」
「何で」
「だって」
木乃実はノートの方をちらっと見る。
「もう見た場面あるし」
「うん」
「重なってるやつもあるし」
「うん」
「先生にも一回じゃなくて二回話してる」
「……」
「だから、“何もなかった”には戻らない」
「……」
三田村は少しだけ黙って、それから小さく頷いた。
「……そっか」
「うん」
「何」
「いや」
僕は素直に言った。
「今の、かなり大事だなって」
「でしょ?」
「うん」
「珍しく素直」
「今日はたぶん、必要だからな」
「便利な言葉だな」
「便利だよ」
「おまえまでそれ言うのか」
「クラスで流行ってるから」
「嫌な流行だな」
少し離れたところから、エヴァが静かに言った。
「向こうは“普通”を武器にしていますが」
僕たちがそちらを見る。
「こちらには、もう“重なり”があります」
「……」
「一回の印象ではない」
「うん」
「一人の気のせいでもない」
「うん」
「何ですの」
「いや」
僕は少しだけ苦笑した。
「今の、かなり欲しかった言葉だなって」
「そうでしょうね」
「そこは迷わないな」
「迷う理由がありません」
朱音は、そのあとで少しだけやわらかく言った。
「だから、揺れるのは普通」
「……」
「何だよ」
「今の空気」
朱音は僕を見る。
「“黒崎くん別に普通じゃない?”に少し揺れるの」
「……」
「でも」
「でも?」
「そこで焦って、“普通じゃない!”って言い出すと、余計に向こうの思う壺」
「……」
「うん」
僕は頷いた。
「そこなんだよな」
「だから」
朱音は言う。
「今は揺れてもいいけど、戻らないことが大事」
「……」
「何その顔」
「いや」
僕は苦笑した。
「おまえも今日は、かなりいいこと言うなって」
「今日は本気」
「また割合なしだな」
「今日はそこ大事だから」
“普通にしてるだけ”って言うやつほど、普通を武器にする。
でもこちらには、もう見た場面の重なりがある。
そこを忘れなければ、たぶんまたゼロには戻らない。




