第72話 先生が一人増えるだけで、空気は少し固くなる
先生が一人増えるだけで、空気は少し固くなる。
別に誰かが怒鳴るわけでもない。
急に見張られている感じがするわけでもない。
ホームルームで何か大きく言われるわけでもない。
でも、分かる時は分かる。
廊下の向こうで、普段あまりこの時間に来ない先生が立ち止まっている。
教室を通り過ぎる視線が、いつもより半拍だけ長い。
担任と別の先生が、短く何か話している。
そういう小さな違いが重なると、教室の中の空気は少しだけ固くなる。
そして、その固さはたぶん、僕だけが感じているわけじゃなかった。
朝の教室。
見た目だけならいつも通りだ。
木乃実は朝から元気だし、佐伯は眠そうだし、三田村は以前よりかなり落ち着いている。黒崎も、相変わらず何でもない顔をしている。
でも、朝のホームルーム前に一つだけ、明らかにいつもと違うものがあった。
教室の前を、学年主任の新見先生が通ったのだ。
新見先生は普段、うちのクラスへ来ないわけじゃない。
でも来る時はもっと用事がはっきりしている。誰かを呼ぶとか、書類を持ってくるとか、そういう感じだ。
今日は違った。
通りすがりみたいな速度で歩いて、でも教室の中を一度しっかり見た。
ほんの数秒。
それだけ。
でも、その数秒が妙に長く感じた。
「……神代くん」
木乃実が小さく言う。
「何」
「今の」
「うん」
「別の先生、見たよね」
「見た」
僕が答えると、木乃実は頬杖もつかず、珍しく少し真面目な顔だった。
「しかも、何か用っていうより、教室の様子見る感じ」
「……」
「うん」
「何だよ」
「いや」
僕は少しだけ息を吐いた。
「やっぱり、来たなって」
「……」
「そこ、やっぱりそう思う?」
「思うよ」
木乃実はすぐ言う。
「昨日の“先生一人では見きれないかも”の続きっぽい」
「……」
「だよね」
「うん」
後ろから佐伯も会話へ入る。
「今の、新見だよな」
「うん」
「珍しいな」
「珍しい」
「……」
「何だよ」
僕が聞くと、佐伯は肩をすくめた。
「教室の中で何かあったのかって感じで見る先生じゃないだろ、普段は」
「……」
「うん」
「でも今のは、わりとそれ」
「……」
「やっぱり、共有されたか」
僕が小さく言うと、佐伯も小さく頷いた。
「たぶんな」
少し離れた席から、エヴァの声が届く。
「ようやく、“学校”の空気になってきましたわね」
その言い方が、妙にぴったりだった。
「何だよその表現」
僕が聞くと、エヴァは平然としている。
「そのままの意味です」
「……」
「昨日の時点で、遠山先生一人の違和感ではなくなった」
「うん」
「なら次は、学年の先生なり、別の大人の目が少し入る」
「……」
「ただし」
「ただし?」
「それは、助けが増えたという意味だけではありません」
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は苦笑する。
「最近の君、そういうとこだけ本当に容赦ないなって」
「容赦する方が危ないからです」
「便利な理屈だ」
「あなた方ほどではありません」
朱音は、その会話を聞いたあとで小さく言った。
「固いね」
「何が」
僕が聞くと、朱音は教室の前の方をちらっと見る。
「空気」
「……」
「今までの“クラスの中で気になる”とは違う」
「うん」
「先生が一人増えるだけで、急に学校っぽくなる」
「……」
「何その顔」
「いや」
僕は素直に言った。
「それ、かなり分かるなって」
「でしょ?」
「うん」
「嬉しくないけど」
「かなりな」
一時間目が始まる前、もう一度それはあった。
今度は新見先生ではなく、生徒指導寄りの佐々木先生だ。
教室の前を通って、遠山先生と短く何か話していく。
会話の中身は聞こえない。
でも、聞こえないからこそ逆に分かることもある。
遠山先生がいつもの雑談顔じゃない。
佐々木先生も、立ち話の軽さではない。
ほんの二十秒くらいなのに、空気が薄く固い。
「……神代くん」
今度は三田村が小さく言った。
「何」
「やっぱり」
「うん」
「昨日の話、少し外に出たんだね」
「……」
「たぶん」
僕が答えると、三田村は少しだけ黙った。
「怖い?」
僕が聞くと、三田村はすぐには答えなかった。
でも、やがて小さく頷く。
「ちょっと」
「……」
「何で」
「だって」
三田村は視線を落としかけて、でも途中で止めた。
「先生一人なら、まだ話せる感じがする」
「うん」
「でも、知らない先生まで入ると」
「……」
「急に、自分がすごく大ごとにしてるみたいな気もしてくる」
「……」
「うん」
僕は短く答えた。
「それ、分かる」
「……」
「でも」
「でも?」
「昨日の流れで、そうなるのは普通だと思う」
「……」
「遠山先生が一人で抱えないって決めたなら」
「うん」
「たぶん、こっちが大げさなんじゃなくて」
「……」
「それだけの話になったってことだ」
「……」
三田村はしばらく黙って、それから小さく息を吐いた。
「……そっか」
「うん」
「何」
「いや」
三田村は少しだけ苦笑する。
「神代くん、最近そういう時の言い方ちゃんとするなって」
「最近必要だからな」
「うん」
「嬉しくない必要だけど」
「かなりな」
昼休み。
後ろの棚の近くへ集まると、木乃実が真っ先に言った。
「やっぱり、空気変わったよね」
「うん」
僕が答えると、木乃実は露骨に顔をしかめた。
「別の先生が教室見るだけで、こんなに変わるんだ」
「……」
「何だよ」
「いや」
僕は少し息を吐いた。
「そこ、僕も思ってた」
「だよね」
「うん」
「しかも」
木乃実は続ける。
「助かったって感じより、固くなる感じが先」
「……」
「そこが嫌」
「かなりな」
佐伯が後ろから言う。
「学校になった途端、“面倒なことを面倒として処理する空気”も一緒に来る感じする」
「……」
「何その言い方」
木乃実が聞くと、佐伯は肩をすくめた。
「だってそうだろ」
「……」
「教室の中なら、まだ“気になる”で済む」
「うん」
「でも先生が増えると、“どう扱うか”になる」
「……」
「それ、だいぶ固い」
「うん」
僕も頷いた。
「かなり固い」
そこへ、エヴァが静かに言った。
「学校になった途端、空気が固くなるのは当然ですわ」
やっぱり、この人は当然みたいに言う。
「何が当然なんだ」
僕が聞くと、エヴァは平然としていた。
「学校は、面倒ごとを面倒ごととして扱います」
「……」
「生徒の感情ではなく」
「うん」
「どう共有し」
「うん」
「どう処理し」
「うん」
「どこまで広げるか」
「……」
「その論理が先に来る」
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は苦笑した。
「今の、すごく嫌なくらい正確だなって」
「嫌だからこそ正確です」
「はっきり言うな」
「必要なので」
朱音は、その会話のあとで少しだけ僕の方へ近づいた。
「でも」
「でも?」
「悪いことだけじゃない」
「……」
「何が」
「別の先生が見るってことは」
朱音は小さく言う。
「遠山先生一人の見え方じゃなくなる」
「……」
「そこは、たぶん大きい」
「……」
「何その顔」
「いや」
僕は少しだけ驚いた。
「珍しく、かなり前向きだなって」
「ひどい」
朱音は少しむくれた。
「わたしだって前向きなこと言うよ」
「そうだな」
「今日のは本気」
「珍しく割合なしだな」
「今日はそこ大事だから」
午後の授業中も、空気の固さは少し残っていた。
誰かが騒いでいるわけじゃない。
黒崎も、前より目立って何かをするわけじゃない。
でも、こういう時の教室というのは不思議だ。
何も起きていないのに、何かが少しだけ起きやすくなっている気がする。
そしてそういう空気は、黒崎みたいな人間もたぶん敏感に拾う。
実際、あいつは今日、朝から一度も無駄な軽口を混ぜていなかった。
それが逆に不自然だった。
放課後。
窓際で少しだけエヴァと話した。
「新見先生も佐々木先生も、たぶん少し共有されていますわね」
「やっぱりそう見えるか」
僕が聞くと、エヴァは頷く。
「ええ」
「でも」
「でも?」
「何か、助けが増えた感じというより」
「うん」
「空気が固くなった感じの方が強い」
「当然です」
エヴァは言った。
「学校の中で共有される話というのは、そういうものです」
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は少し息を吐いた。
「やっぱり、そこは覚悟しとかないとだめだなって」
「ええ」
「助けが来る、じゃなくて」
「うん」
「まずは慎重さが増える」
「……」
「そこを履き違えると、また焦りますわよ」
「……」
「何だよその言い方」
「事実です」
「便利な理屈だ」
「あなた方ほどではありません」
先生が一人増えるだけで、空気は少し固くなる。
今日の教室は、そのことをかなり静かに教えてきた。




