第71話 担任が抱えきれない話は、少しだけ“学校の話”になる
教室の問題が、教室の外へ出る時。
それはたぶん、何かが急に大きくなる瞬間ではない。
むしろ逆だ。
声は少し小さくなる。
言い方は慎重になる。
誰かを悪者にする言葉は減って、代わりに“少し相談するかもしれない”みたいな曖昧な表現が増える。
でも、その曖昧さの中にこそ、重さがある。
担任一人で抱える話ではなくなる。
それはつまり、“学校”という単位に少しだけ触れ始めるということだ。
そのことを、僕は翌日になってじわじわ実感していた。
朝の教室は、見た目だけなら相変わらず普通だった。
木乃実は元気だし、佐伯は眠そうだし、三田村は最近少しずつ表情が上がる時間が増えた。黒崎も、何でもない顔でそこにいる。
でも、僕の中ではひとつだけ前日と違うものがあった。
遠山先生が、
「少し、私一人だけでは見きれないかもしれない」
と言ったこと。
あの言葉は、思っていた以上に重かった。
放課後の教室で聞いた時は、とにかく届いたことへの安堵の方が大きかった。
でも一晩経ってみると、別の重さが出てくる。
先生一人じゃない。
ということは、教室の外へ行く。
教室の外へ行くということは、もう“僕らのクラスの空気”だけでは済まない。
それが、少し怖かった。
「神代くん」
木乃実が振り向いた。
「何」
「今日、ちょっと固い」
「何が」
「顔」
木乃実は頬杖をついたまま言う。
「昨日の“届いた”のあとに、“あ、これ教室の外に行くんだ”って気づいた顔」
「……」
「図星」
「最近ほんとに、僕の顔から全部読むな」
「神代くんが分かりやすすぎるの」
「その標語、しつこいな」
「でも当たってるし」
「かなりな」
「ほら」
「そこで毎回勝つなよ」
後ろから佐伯が小さく笑う。
「でも実際そうだろ」
「何が」
僕が聞くと、佐伯は肩をすくめた。
「昨日の先生の言い方」
「うん」
「“私一人では見きれないかもしれない”ってことは」
「……」
「学年の先生とか、そういう方に少し出るかもってことだろ」
「うん」
「そりゃ重い」
「……」
「何だよ」
「いや」
僕は少しだけ息を吐く。
「やっぱり、そこだよなって」
「だろ」
「うん」
少し離れた席から、エヴァの声が届く。
「ようやく、その重さを実感し始めましたのね」
相変わらず、言い方に遠慮がない。
「何だよその言い方」
僕が聞くと、エヴァは平然としていた。
「昨日の時点で、そうなることは分かっていたでしょう」
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は苦笑する。
「ほんとに最近の君、そこだけは一歩先に言うなって」
「一歩ではありません」
「二歩か?」
「そのくらいです」
「認めるんだ」
「必要なので」
「便利な理屈だな」
「あなた方ほどではありません」
エヴァは少しだけ目を細めて続けた。
「担任が抱えきれない話というのは」
「うん」
「担任と生徒だけの空気では済まなくなる、ということです」
「……」
「つまり?」
「つまり」
エヴァは静かに言う。
「学校の中の、別の大人の論理が入ってくる」
「……」
「その意味を、今のあなたはちゃんと怖がった方がいい」
「……」
「何だよ」
「いえ」
エヴァは視線を逸らさず答えた。
「怖がること自体は、悪くありません」
「珍しく優しいな」
「気のせいです」
「いや」
「気のせいです」
「押し切るなあ」
「必要なので」
朱音は、今日は朝から少し静かだった。
珍しい。
いや、静かというより、普段より言葉を選んでいる感じかもしれない。
「朱音」
「何」
「珍しく静かだな」
「考えてる」
「何を」
「昨日のやつ」
朱音は小さく答えた。
「先生一人じゃない、ってこと」
「……」
「やっぱりそこか」
「うん」
「どう思う」
「正直」
朱音は少しだけ眉を寄せた。
「ちょっと怖い」
「……」
「何その顔」
「いや」
僕は正直に言った。
「同じこと思ってた」
「だよね」
朱音は頷く。
「だって、教室の中で変なことあった、ならまだ分かる」
「うん」
「でも“学校の話になるかも”って」
「……」
「急に空気固くなる」
「……」
「うん」
僕は短く答えた。
「それ」
「でも」
「でも?」
「それでも、そこまで行かないと止まらないなら」
「……」
「止まるわけにもいかない」
「……」
「何だよ」
「いや」
僕は苦笑した。
「今の、おまえにしてはだいぶまっすぐだなって」
「今日は本気」
「珍しく割合なしだな」
「今日はそこ大事だから」
一時間目のあと。
遠山先生は教室へ入ってきた時、昨日よりさらに少しだけ真面目な顔をしていた。
ほんのわずかだ。
でも分かる。
昨日の相談を忘れていない顔。
いや、それどころか、どこまでどう扱うかをまだ考えている顔だ。
その顔を見た瞬間、胸のあたりにまた別の重さが出てきた。
先生は、たぶん本当に考えている。
でも考えるということは、もう簡単には戻らないということでもある。
昼休み。
後ろの棚の近くで、僕と木乃実と三田村は自然と集まっていた。
「昨日の先生」
木乃実が言う。
「うん」
「今日ちょっと、顔違くない?」
「違う」
僕は答えた。
「かなり少しだけだけど」
「うん」
木乃実は頷く。
「でも、あれ昨日の話まだ持ってる顔だよね」
「持ってる」
三田村が小さく言う。
「たぶん」
「……」
「何だよ」
「いや」
僕は少しだけ息を吐いた。
「やっぱり、昨日で終わってないんだなって」
「終わってないでしょ」
木乃実は即答した。
「そこまで話したんだから」
「うん」
「で、先生一人じゃ抱えきれないって言った」
「うん」
「そしたらもう、教室だけの話じゃなくなるよ」
「……」
「そこ、やっぱ重いよな」
「かなり」
僕が答えると、三田村が少し迷ってから言った。
「俺」
「うん?」
「昨日は、届いたって方が大きかった」
「うん」
「でも今は」
「……」
「ちょっと不安」
「……」
「何が」
三田村は視線を落としかけて、でも途中で止めた。
「もし別の先生とかに話が行った時」
「うん」
「俺たちが、大げさみたいに見えたらどうしようって」
「……」
その不安は、すごく分かる。
一度届いた。
でもそれが、別の場所へ移った時に同じ形で届くとは限らない。
むしろ、話が広がるほど“慎重に”という言葉の下で薄まることだってある。
そこが怖い。
「……それは」
僕は少し言葉を選んだ。
「たぶん、普通に怖がっていいと思う」
「……」
三田村が顔を上げる。
「怖がっていい?」
「うん」
「何で」
「だって」
僕は答える。
「もう、教室の中だけの空気じゃなくなるから」
「……」
「そこは前より固くなる」
「……」
「でも」
「でも?」
「だからって、昨日の話が無かったことになるわけじゃない」
「……」
「そこは、たぶん大事」
「……」
三田村はしばらく黙って、それから小さく頷いた。
「うん」
「何」
「神代くん」
「うん」
「最近、怖いって言ってもいい感じになったよね」
「……」
「前は、もっと“でも大丈夫”って先に言いそうだった」
「……」
「そうかもな」
僕は苦笑した。
「最近は、怖いものを怖いまま置いといた方がいい時もあるって分かってきた」
「……」
「何だよ」
「いや」
三田村は少しだけ笑った。
「そこ、前より強いかも」
「それ、褒めてる?」
「かなり」
「また割合なしだな」
「今日は本気」
少し離れたところから、エヴァが静かに言った。
「その感覚で正しいですわ」
僕たちがそちらを見る。
「今の段階で大事なのは」
エヴァは淡々と続ける。
「大きく動いたと勘違いしないこと」
「……」
「昨日の相談は、たしかに前進でした」
「うん」
「でも」
「うん」
「学校の中で共有されるかもしれない話になった瞬間」
「……」
「慎重さは一段上がる」
「……」
「つまり」
「つまり?」
「届いたから終わり、ではありません」
「……」
「そこからの方が、むしろ固い」
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は息を吐いた。
「今の、かなり欲しかった整理だなって」
「そうでしょうね」
「そこは迷わないんだ」
「迷う理由がありません」
朱音は、その会話を聞いたあとで少しだけやわらかく言った。
「でも」
「でも?」
僕が聞くと、朱音は僕を見る。
「それでも、昨日の相談は無駄じゃない」
「うん」
「先生一人で抱えきれないってなったなら」
「うん」
「ちゃんと“問題”にはなったってことだから」
「……」
「何その顔」
「いや」
僕は素直に答える。
「今の、かなり救われるなって」
「……」
「何で黙る」
「困るから」
「最近それ認めるな」
「認めないと面倒だから」
「また人のせいにした」
「事実だもん」
担任が抱えきれない話は、少しだけ“学校の話”になる。
その重さは、思っていたより静かで、思っていたより固かった。




