第69話 静かな青春を守りたいなら、二度目はもう少し踏み込むしかない
静かな青春がほしかった。
それはたぶん、今でも変わっていない。
朝、教室へ入って。
席について。
隣のやつとどうでもいい話をして。
昼休みに購買のパンが売り切れていることへ理不尽を感じて。
放課後、寄り道するかしないかで少し迷う。
そういう、半径数メートルの面倒だけで済む毎日がよかった。
でも現実は、気がついたらずいぶん別のことを考えるようになっていた。
誰が何を言ったか。
どこで流れが変わったか。
先生が何を見ていて、何を見ていないか。
誰と共有した記憶なら、あとで崩れにくいか。
どの順番なら届くか。
そういうことばかり考えている高校一年生というのは、あまり健全ではない気がする。
気がするけれど。
それでも、ここまで来たらもう分かっていた。
静かな青春を守りたいなら、二度目はもう少し踏み込むしかない。
朝の教室は、いつもより少しだけ明るかった。
天気のせいかもしれないし、週の真ん中あたり特有の、中途半端な気の抜け方のせいかもしれない。木乃実は朝から元気で、佐伯は相変わらず眠そうで、三田村は以前よりだいぶ落ち着いている。小坂も、前みたいに肩だけで縮こまる感じは減った。
たぶん僕の周りだけ見ても、少しずつ変わっている。
変わっているからこそ、ここで止まるわけにもいかなかった。
「神代くん」
木乃実が振り向く。
「何」
「今日、かなり決めてる」
「最近それしか言われてないな」
「だってそうだし」
木乃実は頬杖をついて笑う。
「しかも今日は、“緊張してるけどもう行く”って顔」
「……」
「図星」
「最近ほんとに顔で全部ばれるな」
「神代くんが分かりやすすぎるの」
「その標語、そろそろ著作権取るぞ」
「やめて」
後ろから佐伯が小さく笑った。
「でも実際そうだろ」
「何が」
僕が聞くと、佐伯は肩をすくめる。
「前は“どうしよう”の時間が長かった」
「……」
「今は“どう行くか”の顔」
「……」
「何だよ」
「いや」
僕は少しだけ息を吐いた。
「最近、おまえらほんとに人の変化拾うなって」
「神代の周りいると嫌でも鍛えられる」
「嬉しくない成長だな」
「でも必要そうだったし」
「そこなんだよな」
少し離れた席から、エヴァの声が届く。
「ようやく、そこまで来ましたのね」
相変わらず、この人は朝から核心が早い。
「何が」
僕が聞くと、エヴァは平然としていた。
「静かなままで守れる段階は終わったと、ちゃんと理解したことです」
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は苦笑する。
「朝からそういうこと、まっすぐ言うなって」
「必要なので」
「便利な理屈だ」
「あなた方ほどではありません」
「で?」
「で、とは何ですの」
「今の僕」
僕が言うと、エヴァは少しだけ目を細めた。
「一回目の相談までは、まだ“静かに修正したい”の範囲でした」
「うん」
「でも今は違う」
「……」
「二回目は、前より一段重い」
「うん」
「つまり、少し踏み込む」
「……」
「そこを理解している顔です」
「……」
「何だよ」
「いえ」
エヴァは一拍置く。
「悪くありません」
「珍しく素直だな」
「気のせいです」
「いや」
「気のせいです」
「押し切るなあ」
「必要なので」
朱音は、その会話のあとで机の横まで来た。
「今日、ちゃんと届くといいね」
「……」
「何その顔」
「いや」
僕は少しだけ驚いた。
「珍しく、すごく普通に優しいな」
「ひどい」
朱音は頬をふくらませた。
「わたし、普段から優しいよ?」
「それはどうだろうな」
「どうだろうじゃない」
朱音は小さく鼻を鳴らしてから、でもすぐにやわらかく言った。
「でも本当に」
「うん」
「今度は前より、ちゃんと届く気がする」
「そうか?」
「うん」
「何で」
「だって」
朱音は僕を見る。
「前回は、“違和感があります”だった」
「うん」
「今回は、“これだけ重なってます”になってる」
「……」
「そこ、かなり違うよ」
「……」
「何」
「いや」
僕は素直に言う。
「今の、かなり救われるなって」
「……」
「何で黙る」
「困るから」
「最近それ認めるな」
「認めないと面倒だから」
「また人のせいにした」
「事実だもん」
昼休み。
後ろの棚の近くで、僕たちは最後の確認をしていた。
木乃実。
三田村。
僕。
それから少し離れたところに、佐伯と小坂もいる。直接同席するわけではないが、必要ならすぐ話せる位置だ。
「じゃあ」
木乃実が言う。
「もう一回だけ」
「うん」
「最初に言うのは、教室内で起きたずれとか流れ」
「うん」
「次に、見てた人が複数いること」
「うん」
「で、先生の前と見えないところの差」
「うん」
「そのあと、教室外の空気作り」
「うん」
「必要なら、最後に親とか先生の立場の話」
「……」
「そう」
僕は頷く。
「その順番」
「大丈夫?」
三田村が少し緊張した声で聞く。
「たぶん」
僕は答えた。
「完璧じゃないけど、今の僕たちにはこれが一番崩れにくい」
「……」
「うん」
三田村は小さく頷いた。
「俺もそう思う」
木乃実はそこで、少しだけ笑った。
「何」
僕が聞くと、木乃実は首を振る。
「いや」
「何だよ」
「神代くん、変わったなって」
「……」
「どう変わった」
「前なら」
木乃実は少し考えてから言う。
「たぶんもっと、“自分が言わなきゃ”って感じだった」
「……」
「今は違う」
「……」
「ちゃんと、私たちも立たせてる」
「……」
「何その顔」
「いや」
僕は苦笑した。
「そこ、自分ではあまり意識してなかった」
「でも、そうだよ」
木乃実は頷く。
「それ、かなり大きい」
「……」
「何」
「いや」
僕は小さく息を吐いた。
「たぶん今の、かなり嬉しいなって」
「うわ」
木乃実が笑う。
「今日の神代くん、ほんと素直」
「最近ずっとそう言われるな」
「だって本当だし」
三田村も少しだけ笑った。
「俺も、ちょっとそう思う」
「何を」
僕が聞くと、三田村は少しだけ照れくさそうに言う。
「前は、神代くんが前に立って、俺たちは後ろって感じだった」
「……」
「でも今は」
「うん」
「ちゃんと、一緒に立ってる感じする」
「……」
「何」
「いや」
僕は正直に言う。
「それ、たぶん今いちばん欲しかった言葉かも」
「……」
「神代くん、今日ほんとにどうしたの」
木乃実が笑う。
「今日だけ急に真っ直ぐすぎる」
「最近いろいろ嫌なこと見すぎた反動かもな」
「嬉しくない反動だな」
少し離れたところから、エヴァが静かに言った。
「それでいいのです」
僕たち三人がそちらを見る。
「今の神代恒一に必要なのは」
エヴァは淡々と続ける。
「全部を一人で背負うことではありません」
「……」
「見たことを」
「うん」
「見た人間と一緒に持つこと」
「……」
「それができていれば」
「うん」
「二回目は、一回目より届きます」
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は苦笑した。
「今の、かなりそのまま欲しかったなって」
「褒めても何も出ません」
「今のはかなり褒めてる」
「……困りますわね」
「最近それ認めるな」
「認めないと面倒でしょう」
「また人のせいにした」
「事実です」
放課後が近づくにつれて、胸の奥が少しずつ固くなる。
緊張している。
たぶん、かなり。
でも一回目の時と違うのは、その緊張が“自分だけで何とかしなきゃ”ではないことだ。
木乃実がいる。
三田村がいる。
見たことがある。
重なっている場面がある。
そして今は、順番もある。
それだけで、前よりずっとましだった。
帰りのホームルームのあと、遠山先生へ声をかけに行く前。
教室の後ろを通った時だった。
黒崎が、ふいにこちらを見て笑った。
「神代」
声は軽い。
「何」
僕が返すと、黒崎はほんの少しだけ口元を上げた。
「最近ほんと、先生と仲いいよな」
その一言は、冗談っぽかった。
でも、その皮は薄い。
仲いい、じゃない。
先生と何をしている。
先生に何を渡している。
そこを気にしている。
そういう意味が、かなり見えていた。
「そう見える?」
僕は平坦に聞き返す。
「見えるよ」
黒崎は肩をすくめる。
「前よりだいぶ」
「……」
「何だよ」
「いや」
僕は少しだけ首を傾ける。
「おまえ、ほんとそこ気にするなって」
「別に?」
「便利な言い方だな」
「おまえ最近それ好きだな」
「最近のおまえにちょうどいいから」
「……」
黒崎は一瞬だけ黙って、それから笑った。
「ほんと面倒」
「知ってる」
「自覚あるんだ」
「かなり」
「……」
黒崎はそのまま視線を外した。
静かな青春を守りたいなら、二度目はもう少し踏み込むしかない。
たぶん今日は、その覚悟がちゃんと形になった日だった。
そして同時に、向こうもそれを感じ始めている。




