第65話 先生の前で崩れるのを待つより、先生が見る場面を揃えたい
失敗を待つ、というのはあまり好きじゃない。
もちろん、人は失敗する。
僕だってするし、してきた。
忘れ物もするし、言い方を間違えることもあるし、その場では正しいと思っていたことがあとでだいぶ恥ずかしくなることだってある。
でも、誰かが勝手に崩れるのを待って、その瞬間を使う、みたいな考え方はどうにも性に合わなかった。
たぶん黒崎蓮司に対しても、そこは同じだ。
あいつがいつか調子に乗りすぎて、先生の前で露骨に何かやらかす。
それを押さえて終わる。
そういう展開は、分かりやすい。
分かりやすいけど、最近の黒崎を見ていると、そこへ期待するのはたぶん違うと思う。
あいつは軽い。
でも雑ではない。
嫌なことをするくせに、先生の前で崩れるほどは粗くない。
なら、待っていてもたぶん遅い。
必要なのは、黒崎が失敗することじゃなくて、先生がちゃんと見える場面を揃えることだ。
そのことを、その日の朝、僕は妙にはっきり考えていた。
教室はいつも通りうるさい。
でも最近の僕にとっては、そのうるささの中にどこで誰が何を言うかまで少し意識が向いてしまう。
あまり健全じゃないなと思う。
でも、もう今さら元の鈍さには戻れない気もしていた。
「神代くん」
木乃実が振り向いた。
「何」
「今日、なんかすっきりしてる」
「何が」
「顔」
木乃実は頬杖をついたまま言う。
「最近ずっと、“どうしよう”“どう見える”みたいな顔だったけど」
「……」
「今日は、“やること決まった”顔」
「……」
「図星」
「最近ほんと、人の顔見て遊ぶのやめろ」
「遊んでないよ」
「遊んでるだろ」
「かなり真面目」
「そこ即答するな」
後ろから佐伯が笑う。
「でも分かるわ」
「何が」
僕が聞くと、佐伯は眠そうな顔のまま肩をすくめた。
「昨日の黒崎とのやり取りのあとだろ」
「うん」
「探ってくるってことは、向こうも余裕だけじゃない」
「うん」
「で、そこでたぶん神代の中で一個決まった」
「……」
「何だよ」
「いや」
僕は少しだけ苦笑した。
「最近のおまえら、ほんとに僕の心の実況うまいなって」
「神代が分かりやすすぎる」
「その標語、そろそろ没にしたい」
少し離れた席から、エヴァの声が届く。
「ようやく、“崩れるのを待つ”発想から離れましたのね」
朝から、やっぱり核心が早い。
「何だよその言い方」
僕が聞くと、エヴァは平然としていた。
「そのままの意味です」
「……」
「今までのあなたは」
「うん」
「黒崎蓮司のやり方を見て、順番を揃え、記録し、相談するところまでは来ました」
「うん」
「でも、その先で少しだけ」
「……」
「“黒崎蓮司が自滅してくれれば早い”の期待も混ざっていた」
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は息を吐いた。
「そこまで見えるの、ほんとに嫌なくらい正確だなって」
「嫌なら聞かなければいいのでは?」
「当たるから聞くんだよ」
「なら結構です」
朱音は、今日はわりと上機嫌だった。
「何だよ」
僕が聞くと、朱音は少しだけ笑う。
「今日の恒一くん、前より好き」
「急だな」
「だって」
朱音は僕の机の横に立った。
「待つんじゃなくて、作る方に行った顔してる」
「……」
「何を」
「先生がちゃんと見る場面」
「……」
「図星」
「おまえもか」
「読むよ」
朱音は肩をすくめる。
「だって、昨日までで分かったじゃん」
「うん」
「黒崎くんが失敗するの待ってても」
「うん」
「たぶんあの人、そこまで雑じゃない」
「……」
「だから、先生が前後ごと見える場面を揃えるしかない」
「……」
「何その顔」
「いや」
僕は素直に言った。
「やっぱり、そこなんだなって」
「でしょ?」
「うん」
「今日のわたし、かなり冴えてる」
「自分で言うんだ」
「言うよ」
「強いな」
一時間目のあと、廊下で少しだけ時間が空いた時、僕はノートの最後のページを見直していた。
日時。
場所。
誰がいたか。
何が起きたか。
先生が見た範囲。
そこへ、今日からもう一つだけ足そうと思った。
先生と同じ場面にできそうか。
それはまだ、具体的な作戦というほどじゃない。
でも視点としてはかなり大きい。
たとえば、先生が近くにいる時の前後をもっと意識するとか。
誰か一人じゃなく、複数人が同じ場面をその場で共有できるようにするとか。
あとで話すだけじゃなく、“先生が見たこと”と“僕たちが見たこと”の差を小さくするとか。
そういう方向だ。
「うわ」
木乃実が横から覗き込んだ。
「何」
「増えてる」
「何が」
「考えること」
「嫌な言い方だな」
「でもそうじゃん」
木乃実は笑う。
「前は“何が起きたか”残してた」
「うん」
「今は“先生も見えるか”まで考えてる」
「……」
「何だよ」
「いや」
僕は少し苦笑した。
「そこ、やっぱり大事だなって」
「うん」
「先生にあとで説明するだけじゃ、ずれる」
「うん」
「だったら最初から、できるだけ同じ場面にしたい」
「……」
「それ」
木乃実は頷いた。
「かなりいいと思う」
「そうか?」
「うん」
「何で」
「待つ感じじゃないから」
「……」
「黒崎くんがミスするの待つより」
「うん」
「先生がちゃんと見える方を考える方が、神代くんっぽい」
「……」
「それ、褒めてる?」
「かなり」
「最近その割合なし多いな」
「今日は本気だもん」
昼休み。
後ろの棚の近くで、僕はその話を木乃実、三田村、佐伯にした。
「つまり」
佐伯が言う。
「黒崎が勝手に崩れるの待つんじゃなくて」
「うん」
「先生の見える範囲で、前後も含めて共有できる場面を狙う?」
「狙う、っていうか」
僕は少し考えてから言った。
「そういう場面があった時に、見逃さない」
「……」
「なるほど」
木乃実が頷く。
「無理に罠張るんじゃなくて」
「うん」
「先生が近くにいる場面で、こっちもちゃんと同じ前後を見てるようにする」
「そう」
「それ、かなり大事かも」
「……」
「何だよ」
「いや」
僕は少し笑った。
「木乃実、最近ほんとにそこ言語化うまいな」
「でしょ?」
「自分で言うんだ」
「便利だから」
「その言葉ほんと万能だな」
三田村は少しだけ考えてから言った。
「それって」
「うん?」
「俺たちも、その場にいた方がいいってこと?」
「うん」
僕は頷く。
「一人じゃ弱いから」
「……」
「でも」
「でも?」
「最近、それは少し分かる」
三田村は小さく言った。
「誰か一人が見たより」
「うん」
「二人とか三人で同じ場面見た方が」
「うん」
「あとで、ずっと話しやすい」
「……」
「そう」
僕は答えた。
「今はたぶん、それが一番大きい」
「うん」
「何」
「いや」
僕は少しだけ息を吐いた。
「三田村がそこまで自然に言うようになったなって」
「最近、神代くんたちがずっとそこ見てるから」
「……」
「うつったかも」
「嬉しくない感染だな」
「でも必要だったし」
「そこなんだよな」
少し離れたところから、エヴァが静かに言った。
「その考え方なら、かなり強いですわ」
今日は珍しく、かなりまっすぐだった。
「何が」
僕が聞くと、エヴァは視線を逸らさなかった。
「“先生の前で崩れるのを待つ”のではなく」
「うん」
「“先生がちゃんと見る場面を揃える”」
「うん」
「その発想です」
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は少しだけ苦笑した。
「今の、かなり素直に褒めたな」
「違います」
「いや」
「違います」
「二回言った」
「必要だったのです」
「便利だな」
「あなた方ほどではありません」
「でも今のは、たぶん本音だろ」
「……」
エヴァは少しだけ黙ってから、
「かなり」
と小さく言った。
「うわ」
木乃実が笑う。
「今日のエヴァさん素直」
「木乃実さん」
「はい?」
「少し黙っていてくださいません?」
「無理です」
「即答ですわね」
朱音はその会話を聞いて、少しだけ満足そうだった。
「うん」
「何」
「前の恒一くんだったら」
「うん」
「“黒崎くんが失敗するまで待つ”か、“その場で止める”の二択だった」
「……」
「でも今は違う」
「……」
「“先生がちゃんと見える場面を揃える”って考えてる」
「……」
「それ、たぶんずっと強い」
「……」
「何だよ」
「いや」
僕は正直に言った。
「今日、みんなやたら褒めるなって」
「だって褒めるよ」
朱音は悪びれない。
「そこ、かなり大事だもん」
「今日は割合なしなんだな」
「今日は本気」
先生の前で崩れるのを待つより、先生が見る場面を揃えたい。
その考え方に辿り着いた時、少しだけ次の動き方が見えた気がした。




