第56話 先生は、話し方が整うと少しだけ真面目に聞く
話し方が整うと、人は少しだけ真面目に聞く。
これは別に学校の先生に限ったことじゃないのかもしれない。誰だって、話の入口がぐちゃぐちゃだと受け取り方に迷うし、感情だけが先に来ると一歩引く。逆に、何が起きていて、何が問題で、どこまでが事実として見えているのか、そのあたりが並んでいると、少なくとも「ちょっと待って、それはどういうこと?」の段階までは行ける。
要するに、内容だけじゃなくて、入口が大事なのだ。
そしてその日の放課後、僕たちはその“入口”をかなり意識していた。
放課後の教室は、昼間より少し広く見える。
人が減るからだろう。机と机のあいだに妙な空白ができて、声も響きやすい。黒板に残ったチョークの跡も、夕方の光の中だと少しだけ薄く見える。
木乃実は教科書を鞄へ入れ終えたあとも、妙に落ち着かない様子で机の角を指で叩いていた。
三田村は、補足メモではなく自分の指先を何度も見ていた。緊張している時の癖なんだろうなと思う。
僕も落ち着いているつもりで、たぶん普段よりだいぶ言葉を選んでいた。
「神代くん」
木乃実が言う。
「何」
「今さらだけど」
「うん」
「やっぱちょっと緊張する」
「するよな」
僕が答えると、木乃実は少しだけ笑った。
「神代くんもするんだ」
「するよ」
「へえ」
「何だよ」
「いや、何か」
木乃実は肩をすくめる。
「最近、神代くんってもう“そういう時も頭の中で整理してるから平気”みたいな感じ出てたし」
「平気ではない」
「ないんだ」
「ない」
僕は少し苦笑した。
「ただ、緊張してても順番は崩したくないだけ」
「……」
「うわ」
「何」
「今の、ちょっと神代くんっぽい」
「それ褒めてる?」
「かなり」
「珍しく割合じゃないな」
「今日はわりと本気」
三田村が、小さな声で言った。
「俺」
「うん?」
「変なこと言ったらどうしよう」
「それはたぶん大丈夫」
僕が言うと、三田村は少しだけ目を上げた。
「何で?」
「今日必要なのって」
僕は答える。
「上手いこと言うことじゃない」
「……」
「見たことを、そのまま崩さずに言うこと」
「……」
「だから、言い方を完璧にしなくてもいい」
「……」
「見た順番が合ってれば、たぶんそれでいい」
三田村はしばらく黙って、それから小さく頷いた。
「……うん」
「何」
「ちょっとだけ、楽になった」
「それならいい」
その少しあと、遠山先生が教卓の方へ戻ってきた。
「待たせた?」
「いえ」
僕が答えると、先生は三人を見た。
「じゃあ、少しだけ話そうか」
「はい」
「ここでもいいけど」
先生は教室を見回す。
「職員室の方がいい?」
「ここで大丈夫です」
僕は答えた。
「……分かった」
先生は教卓の前の椅子を少し引いて座った。
「じゃあ、聞くね」
その“聞くね”が、前回より少しだけ重く聞こえた。
前はたぶん、“何か引っかかることがあるなら言って”の延長だった。
今日は違う。
少なくとも、三人で残ってまで話す内容として受け取っている。
そこは、もう前回と同じではなかった。
僕は一拍だけ置いてから話し始めた。
「最初に言っておきたいんですけど」
「うん」
「誰か一人を決めつけたい話ではないです」
「……」
「ただ」
「うん」
「班の準備の中で、資料とか進行メモとかの順番が、何度か不自然にずれたことがありました」
「……」
先生はすぐには口を挟まなかった。
「それが一回だけじゃなくて」
「うん」
「何度かあった」
「……」
「しかも、そのたびに“誰かが悪いことにされやすい流れ”があった気がしてて」
「……」
「その話を、今日は一人じゃなくて」
僕は横を見る。
「木乃実と三田村も、一緒に見てたこととして話したくて」
「……」
先生はその時点で、前回よりだいぶちゃんと聞く顔になっていた。
たぶん、“神代くんが気にしている話”から、“複数人が共有している違和感の話”に少し変わったのだろう。
「木乃実さん」
先生が言う。
「はい」
「木乃実さんから見ても、そういう感じはあった?」
「ありました」
木乃実は即答した。
そこに迷いがなかったのが、少しだけ心強かった。
「たとえば、進行メモに昨日なかった一文が急に増えてたり」
「うん」
「配付資料の順番が、最後に確認した時と変わってたり」
「……」
「それ自体も嫌だったんですけど」
「うん」
「それが起きたあと、誰かが悪いみたいに流れそうになる感じも、普通に嫌でした」
「……」
「嫌だった、か」
先生が小さく繰り返す。
「はい」
木乃実は頷いた。
「しかも、一回じゃなくて、何回かあったので」
「……」
先生はメモを取るでもなく、でもちゃんと視線を外さず聞いていた。
それだけで、前回よりずっと届いている感じがした。
「三田村くんは?」
先生が聞く。
三田村は少しだけ息を吸ってから答えた。
「俺は」
「うん」
「たぶん、その流れの中で一番悪い方に行きやすかったと思います」
「……」
「忘れ物した時とか」
「うん」
「何かずれた時とか」
「うん」
「黒崎くんとかが、先生の前で助けてくれることもあったんですけど」
「……」
「でも、その時に混ざる言い方で」
「……」
「“またこういうこと多いよな”みたいな空気になることが、何回かあって」
「……」
「それで」
三田村は少しだけ言葉を詰まらせてから続けた。
「自分でも、“俺が悪いのかな”ってなりやすかったです」
その一言は、思ったより重かった。
教室の中で何度も見てきたことなのに、こうして本人の口から出ると、急に輪郭がはっきりする。
先生も、そこで少しだけ表情を変えた。
「……そっか」
遠山先生はゆっくり言った。
「それは、しんどかったね」
「……はい」
三田村は小さく頷いた。
僕はそこで、話をもう一歩進めた。
「あと」
「うん」
「これは印象の話に近いかもしれないんですけど」
「うん」
「先生の前と、いない時で」
「……」
「空気の変わり方が違うように見えました」
「……」
「違う?」
先生が聞く。
「はい」
僕は答える。
「先生の前では、助ける側とか、落ち着かせる側に見えることが多い」
「……」
「でも、いない時とか、見てない場面だと」
「うん」
「軽く誰かを下げる言い方が混ざることがあった」
「……」
「それを、何度か見ました」
「……」
先生はそこで初めて、少し長く黙った。
黙り方が前回と違う。
前は“どう返そうかな”の黙り方だった。
今は、話を一度そのまま受け取っている黙り方に見える。
「……分かった」
やがて先生が言った。
「まず」
「はい」
「今日こうして三人で話してくれたのは、ありがたい」
「……」
「一人がそう感じてる、じゃなくて」
「うん」
「同じようなことを複数人が見てるっていうのは、やっぱり重いから」
「……」
「ありがとうございます」
僕はそう答えた。
先生は少しだけ頷いて続ける。
「ただ」
「はい」
「今の段階で、誰か一人を断定するのはまだ難しい」
「……はい」
「でも」
先生ははっきり言った。
「少なくとも、“何か気のせいではない違和感が続いていた”ってことは、ちゃんと分かった」
「……」
「だから」
「……」
「少し、注意して見てみる」
「……」
その一言が、思ったより重く落ちた。
前回は「様子を見よう」に近かった。
今回は違う。
今回は、“少し注意して見てみる”と、先生の側から言った。
それはたぶん、同じようでいてだいぶ違う。
「あと」
先生は続ける。
「もし次にまた、資料やメモのずれみたいなことがあったら」
「はい」
「その時に、今みたいに“誰が確認して、どの時点では合ってたか”を残しておいて」
「……はい」
「それがあると、こちらも見やすい」
「……」
「分かりました」
僕は頷いた。
木乃実も「はい」と答え、三田村も小さく頷く。
先生はそこで、僕たち三人を見た。
「あと」
「はい」
「三田村くん」
「……はい」
「何かがあった時に、自分が悪いって決めつけすぎないでね」
「……」
「そこは、先生も気をつけて見ます」
「……はい」
その言葉に、三田村は少しだけ目を丸くした。
たぶん、先生の口からそこまで直接言われるとは思っていなかったのだろう。
話が終わって、僕たちは教卓から少し離れた。
木乃実が最初に小さく息を吐いた。
「……思ったより、ちゃんと聞いてくれた」
「うん」
僕も答える。
「かなり」
「“少し注意して見てみる”って、前回よりだいぶ違うよね」
「違う」
「うん」
三田村も頷いた。
「俺、そこが一番びっくりした」
「……」
「何だよ」
「いや」
僕は少しだけ肩の力を抜いた。
「届く時って、こういう感じなんだなって」
「どういう感じ?」
木乃実が聞くと、僕は少し考えてから答えた。
「いきなり全部分かってもらうんじゃなくて」
「うん」
「前より一段だけ、ちゃんと重く受け取ってもらえる感じ」
「……」
「うわ」
「何」
「それ、すごい神代くんっぽい」
「褒めてる?」
「かなり」
「またそこか」
「今日はほんとにかなり」
少し離れたところで待っていたらしいエヴァと朱音が、僕たちの方へ来た。
「どうでしたの」
エヴァが聞く。
「思ったより、ちゃんと聞いてくれた」
僕が答えると、エヴァはほんの少しだけ表情を和らげた。
「そう」
「うん」
「“少し注意して見てみる”って」
「……」
「それは前進ですわね」
「かなりな」
「ええ」
エヴァは頷く。
「話し方が整うと、人はやはり少し真面目に聞くものです」
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は少し苦笑した。
「今日のタイトルみたいなことまた言ったなって」
「意味が分かりません」
「たぶん褒めてる」
「そうですの」
「うん」
「なら困りますわね」
「最近それ認めるな」
「認めないと面倒でしょう」
「また人のせいにした」
朱音は、僕の顔を見て少しだけ笑った。
「届いた?」
「少しだけ」
「うん」
「でも、その少しが前より大きい」
「……」
「何だよ」
「いや」
朱音は肩をすくめる。
「やっぱり、付き添う人間って大事だなって」
「……」
「わたし、今日は行かなかったけど」
「うん」
「木乃実ちゃんと三田村くんだったの、たぶん正解」
「……」
「何で」
「恒一くんの“順番”と」
「うん」
「木乃実ちゃんの“普通に嫌だった”と」
「うん」
「三田村くんの“実際にしんどかった”」
「……」
「その三つ、かなり強い」
「……」
「何だよ」
「いや」
僕は素直に言った。
「たぶんそうだなって」
「うん」
「そこ、今日はあんまり否定しないね」
「最近、ちゃんとそう思った時は言うようにしてる」
「……」
「何」
「それ、ちょっとずるい」
「何が」
「素直なやつ」
「またそれか」
先生は、話し方が整うと少しだけ真面目に聞く。
今日の僕たちは、たぶんその“少しだけ”をちゃんと取れた。
もちろん、まだ全部が解決したわけじゃない。
でも、前回より一段だけ届いた。
それだけで、今はたぶん十分だった。




