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普通の青春をしたいだけなのに、隣の席も幼馴染も全然“普通”じゃない。~つくば市の県立高校に入学した俺は静かに青春するはずだったのに、隣の席の毒舌美少女と世話焼き幼馴染が放っておいてくれない~  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第57話 見ます、は動きますとは少し違う

見ます、という言葉は、一見すると心強い。


 少なくとも、見ないよりはいい。

 見えていないまま流されるより、ずっといい。

 でも同時に、見ますは動きますではない。


 その差は、思っているより大きい。


 誰かが少し注意して見ている。

 でも、その場で止めるとは限らない。

 違和感を持つ。

 でも、それをすぐ言葉にするとは限らない。


 要するに、“前よりまし”と“もう大丈夫”のあいだには、ちゃんと距離がある。


 そのことを、相談の翌日、僕はかなり実感することになった。


 朝の教室は、昨日より少しだけ空気が軽かった。


 いや、本当は軽いというより、僕の中で一段だけ重さが整理されたのかもしれない。

 遠山先生は、ちゃんと聞いた。

 少なくとも前回よりは、ずっと真面目に。

 それは事実だ。


 でも、事実だからこそ次はそこから先を見なきゃいけない。

 先生が見ますと言ったあと、何がどう変わるのか。

 変わらないものは何なのか。


 最近の僕は、そういう面倒な見方ばかりうまくなっている気がする。


「神代くん」


 木乃実が、もはや朝の定型文みたいな調子で呼んだ。


「何」

「今日、ちょっと安心してる」

「それも分かるのか」

「分かるよ」

 木乃実は頬杖をつく。

「でも同時に、“まだ終わってない”って顔もしてる」

「……」

「図星」

「最近ほんとに逃げ場ないな」

「神代くんが分かりやすすぎるの」

「その標語、そろそろ黒板に書くぞ」

「やめて」

 木乃実は少し笑ってから、声を落とした。

「でもさ」

「うん」

「昨日、ちゃんと話せたのはよかったよね」

「よかった」

「先生も、前よりは聞いてくれた」

「うん」

「だから」

「だから?」

「ちょっと安心した」

「……」

「何」

「いや」

 僕は少しだけ息を吐く。

「それ、たぶん僕も同じだなって」

「でしょ?」

「うん」

「でも」

 木乃実はすぐ続ける。

「まだ、見ますって言っただけだもんね」

「……」

「そこは分かってる」

「うん」

「だから、今日がちょっと大事」

「……そうだな」


 後ろから佐伯も会話に乗ってくる。


「昨日の先生、たしかに前進だった」

「うん」

「でも」

「でも?」

「今日すぐに何か変わるかっていうと、そこは別」

「……」

「見ます、は見ますであって、動きますじゃないし」

「おまえ、その言い方かなり正確だな」

「神代の周りいると、そういう変な日本語だけ育つ」

「嬉しくない成長だな」

「でも必要そうだし」

「そこなんだよな」


 少し離れた席から、エヴァの声が届く。


「ようやく、その差をちゃんと見ようとしていますのね」


「何の差」

 木乃実が聞くと、エヴァは淡々と答える。


「“聞いてくれた”と“動く”の差です」

「……」

「昨日の相談で、遠山先生はたしかに一段真剣になりました」

「うん」

「でもそれは、“今すぐ何かが変わる”と同じ意味ではない」

「……」

「先生は先生の立場で、慎重にしか動けません」

「うん」

「つまり、前進ではあります」

「うん」

「ただし、即解決ではありません」

「……」

「何ですの」

「いや」

 僕は少し苦笑した。

「最近の君、ほんとにそういう言い方うまいなって」

「褒めても何も出ません」

「今のはかなり褒めてる」

「……困りますわね」

「最近それ認めるな」

「認めないと面倒でしょう」

「また人のせいにした」


 朱音は今日は珍しく、朝から少しやわらかかった。


「恒一くん」

「何」

「昨日、ちょっと届いたのはよかった」

「うん」

「でも、今日からが本番」

「……」

「そこも分かってる顔してる」

「おまえも大概だな」

「読むよ」

 朱音は肩をすくめる。

「だって、昨日で終わりだと思ってる顔じゃないもん」

「……」

「何」

「いや」

 僕は苦笑した。

「最近みんな、ほんとそこだけ一致してるなって」

「必要だからね」

「便利な言葉だな」

「便利だよ」


 一時間目のあと、小さな変化があった。


 配布物の回収で、遠山先生が教室の前を回っている。

 いつもならざっと見て流すところで、今日は少しだけ立ち止まることが多い。誰かの机の上を一拍長く見る。班で昨日関わっていた僕たちの周辺も、ほんの少しだけ目線が残る。


 それ自体は、本当に小さなことだ。

 教室のほとんどは気づいていないかもしれない。


 でも、僕には分かった。


 見ている。

 少なくとも前よりは。


 そのこと自体は、悪くない。


 悪くないのだが――。


 問題は、その直後に起きた。


 三時間目と四時間目のあいだ。

 短い休み時間だった。


 三田村が机の横のフックにかけていた袋を落とした。

 中身はほとんど空で、大したものは入っていない。筆箱と小さなメモ帳、それから折りたたんだプリント一枚。だから事故としては本当に小さい。


 そこへ黒崎が先に動いた。


「おっと」

 と笑いながら袋を拾う。

「大丈夫か」

「……あ、ごめん」

 三田村が反射でそう言う。

「おまえが謝るのかよ」

 黒崎は笑う。

「まあ、最近そういうの多いけど」

「……」

 その言い方は、やっぱり嫌だった。


 嫌だったが、前より少しだけ薄い。

 そして同時に、遠山先生が近くにいた。


「どうしたの?」

 先生が聞く。

「三田村が袋落としたんで」

 黒崎が答える。

「今拾いました」

「ありがと」

 先生が言う。

「三田村くん、大丈夫?」

「……はい」

「気をつけてね」

「はい」


 それで終わる。


 先生は見ていた。

 たしかに見ていた。

 でも、見えていたのは“黒崎が拾った”ところまでだ。


 その前に混ざった“最近そういうの多いけど”は、たぶん拾えていない。

 拾えていたとしても、そこを今すぐ止めるほどの輪郭ではなかったのかもしれない。


 つまり、ここだ。


 見ます、は動きますではない。

 しかも、同じ場面を見ているようでいて、見えている中身が少し違う。


「……今の」

 木乃実が小声で言う。

「うん」

 僕も小さく答える。

「やっぱり、そこだよね」

「うん」

「先生、見てた」

「見てた」

「でも、“拾った黒崎くん”の方が先だった」

「……」

「そう」

 僕は頷く。

「そこなんだよ」

「うわあ」

 木乃実が顔をしかめる。

「難しいな」

「かなりな」

 佐伯も後ろから入る。

「昨日、見ますって言ったからって、全部同じように見えるわけじゃないんだな」

「……」

「うん」

 僕は短く答えた。

「それは、たぶん今かなり大事」


 昼休み、三田村が少し沈んだ顔で言った。


「神代くん」

「何」

「さっきの」

「うん」

「先生、ちゃんと見てたのに」

「……」

「やっぱり、止まらないんだな」

「……」

「それ、落ち込んでる?」

 僕が聞くと、三田村は少し迷ってから頷いた。

「ちょっとだけ」

「……」

「せっかく昨日話したのに、って思っちゃった」

「……」

「うん」

 僕は小さく息を吐いた。

「その気持ちは分かる」

「……」

「でも」

「でも?」

「たぶん今ので分かったこともある」

「何」

「先生が悪いわけじゃない」

「……」

「ただ」

 僕は言葉を選んだ。

「見えてる範囲が、こっちと少し違う」

「……」

「今のだと、先生に先に届いたのは“黒崎が拾った”方」

「……」

「“最近そういうの多い”の嫌さは、そのあとに混ざってる」

「……」

「だから、見ますって言ってくれてても」

「うん」

「同じ場面を、同じ順番で見てるとは限らない」

「……」

「……そっか」

 三田村は少しだけ顔を上げた。

「そこまで違うんだ」

「たぶん」

「……」

「何」

「神代くん、やっぱそこ整理するの早い」

「嬉しくない特技だな」

「でも助かる」

「それならまあいいか」


 少し離れた席でその会話を聞いていたエヴァが、静かに言った。


「ようやく、そこまで見えましたのね」


「何が」

 僕が聞くと、エヴァは淡々と答える。


「先生が悪いのではなく」

「うん」

「同じ場面を見ているとは限らない、ということです」

「……」

「今の一件で、遠山先生が拾ったのは“黒崎蓮司が袋を拾った”という事実」

「うん」

「でも、こちらが嫌だと感じたのは、その前後に混ざった言い方」

「……」

「つまり」

「つまり?」

「見える場面そのものを揃えないと、噛み合わない」

「……」

「何ですの」

「いや」

 僕は少しだけ息を吐いた。

「たぶん今の、かなり大きい気づきだなって」

「ええ」

 エヴァは頷く。

「かなり」

「今日は割合じゃないんだな」

「今日はかなり明確です」


 朱音はそのあと、珍しくすぐに言葉を挟まなかった。


 少しだけ黙って、それから言う。


「恒一くん」

「何」

「昨日、先生に話したの無駄じゃなかった」

「うん」

「でも」

「でも?」

「今ので分かったね」

「……」

「先生が“見る”って言っても」

「うん」

「こっちが見てる嫌さまで、そのまま届くわけじゃない」

「……」

「うん」

「だから次は」

 朱音は静かに言った。

「先生がちゃんと同じ場面を見る形が必要」

「……」

「そこまで行く?」

「行くしかないかもな」

 僕が答えると、朱音は少しだけ目を細めた。

「うん」

「何」

「今の恒一くん、前よりちょっと強い」

「そうか?」

「うん」

「どのへんが」

「落ち込むより先に、“次に何が必要か”考えてる」

「……」

「何だよ」

「いや」

 僕は苦笑した。

「最近のおまえ、そこばっかり見てるな」

「長いからね」

「またそれか」

「便利だよ」

「便利な言葉だな」

「便利だよ」


 見ます、は動きますとは少し違う。

 そして、見ていることと、同じ場面を見ていることもまた違う。

 その差が分かっただけでも、たぶん今日は無駄じゃなかった。

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