第55話 最初に言うべきなのは、嫌いなやつの名前じゃない
話し合いというのは、順番を間違えるとすぐに壊れる。
たとえば最初に感情を出しすぎると、「その人が嫌いだからそう見えるんじゃないか」に寄りやすい。逆に、慎重になりすぎて何も言えなくなると、「で、結局何が問題なの?」で終わる。
つまり、足りなくてもだめだし、先走ってもだめだ。
最近の僕は、そのあたりの面倒くささを少しずつ学んでいる。
学びたくて学んでいるわけではない。もっと別のことに頭を使いたかった。放課後にどこへ寄り道するとか、昼休みに何を食べるとか、そういうもっと健全な高校生らしいことに。
でも現実は、放課後に先生へ何をどう話すかを、朝の一時間目の前から考えている。
だいぶ不本意だ。
「神代くん」
木乃実が、いつものように振り向く。
「何」
「今日、かなり言葉の順番考えてる」
「最近ほんと、そこまで見えるんだな」
「見えるよ」
木乃実は頬杖をついた。
「しかも今日は、“放課後に話すって決まったけど、最初に黒崎くんの名前出すのは違うよな”まで顔に書いてある」
「……」
「図星」
「もういっそ名札みたいに額に貼っとくか?」
「それは見やすくて助かる」
「助かるな」
佐伯が後ろから言う。
「何で二人とも乗るんだよ」
「だって、どう考えてもそこ一番大事だろ」
佐伯は眠そうな顔のまま続けた。
「最初に“黒崎が悪い”から入ると、先生も一段構えるし」
「うん」
「逆に、資料ずれたとか空気が変だったとかから入れば、まだ聞きやすい」
「……」
「何だよ」
「いや」
僕は小さく息を吐いた。
「最近、みんな整理の仕方がうまいなって」
「神代の周りにいると嫌でも育つ」
「嬉しくない能力だな」
少し離れた席から、エヴァの声が届く。
「最初に言うべきなのは、嫌いな人間の名前ではありませんもの」
その一言が、やけにすっと入ってきた。
「朝から核心だな」
僕が言うと、エヴァは平然としていた。
「当然です」
「何でそんなに迷いがないんだ」
「迷う理由がありません」
エヴァは淡々と続ける。
「今の段階で必要なのは」
「うん」
「教室内で何が起きたか」
「うん」
「誰がそれを見ていたか」
「うん」
「どのくらい同じことが続いたか」
「……」
「それだけです」
「黒崎の名前は?」
木乃実が聞くと、エヴァは少しだけ目を細めた。
「必要なら出ます」
「必要なら」
「ええ」
「でも最初ではない」
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は少し苦笑した。
「そこまできれいに言われると、ほんとそうだなって」
「そうでしょうね」
「そこは迷わないんだ」
「あなたが迷いすぎるだけです」
「ひどいな」
「事実です」
「便利な言葉だな」
「あなた方ほどではありません」
朱音は、その会話に少し遅れて入ってきた。
「わたしも、それがいいと思う」
「何が」
僕が聞くと、朱音は僕の机の横に立った。
「最初に黒崎くんの名前を主語にしないこと」
「……」
「珍しくエヴァさんと同じこと言うね」
木乃実が言うと、朱音は少しだけ肩をすくめた。
「珍しくって何」
「いや、何か」
「何?」
「同じ結論でも、たどり着き方違いそうだから」
「それはそう」
朱音はあっさり認めた。
「わたしはもっと単純」
「どう単純なんだ」
「最初から名前出すと」
朱音は僕を見る。
「恒一くん、“黒崎くん嫌いだからそう見えるんでしょ”にされる」
「……」
「で、それ嫌なんでしょ」
「かなりな」
「なら、やめた方がいい」
「……」
「何」
「いや」
僕は苦笑する。
「おまえの整理、ほんとに実戦向きだなって」
「長いからね」
「またそれか」
「便利だから」
「そこ本当にぶれないな」
昼休み。
僕たちは放課後の相談に向けて、教室の後ろの棚の近くに集まった。
最近ここばかりだなと思う。教室の中に、秘密基地みたいに“少し真面目な話をする場所”ができてしまっているのは、あまり健全じゃない気もする。
「じゃあ、整理しよう」
僕が言うと、木乃実がすぐ答える。
「うん」
「先生に何から話すか」
「うん」
「まず、班の資料とか進行メモが何回かずれたこと」
「それは最初」
木乃実が指を立てた。
「しかも、“誰がやったか分からないけど”も一緒に言う」
「そうだな」
「で、その次」
「うん」
「誰かがまだ引き受けるって言ってないのに、そういう流れになりかけたこと」
「……」
「それも見てた」
三田村が小さく言う。
「うん」
「あと」
三田村は少しだけ息を吸ってから続けた。
「俺が、悪い方に流れやすかったこと」
「……」
「そこ、言える?」
僕が聞くと、三田村は少し迷ったあと頷いた。
「言う」
「無理しなくていいぞ」
「無理じゃない」
三田村は前よりずっとちゃんと顔を上げていた。
「そこ、たぶん俺が言わないと弱い気がする」
「……」
「何」
「いや」
僕は少しだけ胸のあたりが重くなるのを感じた。
「ありがたいなって」
「神代くん、今日それ三回目」
木乃実が笑う。
「珍しく素直だね」
「最近、嫌な方向に鍛えられてるからかも」
「嬉しくない鍛え方だなあ」
小坂も、少しだけ会話に混ざった。
「あと」
「うん?」
「先生の前と、いない時で、空気が違うっていうのも」
「……」
「言った方がいいかな」
「うん」
僕は頷く。
「そこは大事だと思う」
「でも」
小坂は不安そうに言った。
「それって、印象の話っぽくならない?」
「なる」
僕は正直に答えた。
「だから、それだけでは言わない」
「……」
「資料やメモのずれ」
「うん」
「班の流れ」
「うん」
「実際に誰かが悪い方へ寄りやすかったこと」
「うん」
「そのあとに、“先生の前といない時で少し空気が違うように見えた”」
「……」
「そこまでなら、印象だけじゃなくなる」
「……」
「なるほど」
木乃実が言う。
「積み上げてから空気の話へ行くんだ」
「そう」
「で、黒崎くんの名前は?」
「最後」
僕は答えた。
「最後、必要なら」
「必要なら、か」
「うん」
「それ、かなり大事だね」
「うん」
その時、エヴァが少し離れた席から近づいてきた。
呼んでいないのに、必要な時だけ本当に自然に来る。
「今の順番なら、かなり崩れにくいですわ」
開口一番それだった。
「聞いてたのか」
僕が言うと、
「少し」
とエヴァは答えた。
「盗み聞きではなく、聞こえた範囲です」
「便利な言い訳だな」
「あなた方ほどではありません」
「で?」
「今の順番です」
エヴァはまっすぐ言う。
「まず起きたこと」
「うん」
「次に、それを見た人数」
「うん」
「そのあとで、空気の違い」
「うん」
「そして必要なら名前」
「……」
「これなら、“神代恒一が黒崎蓮司を嫌っている”から始まる話には見えにくい」
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は少しだけ苦笑した。
「やっぱり君が同じ結論だと安心するなって」
「それは困りますわね」
「最近それ認めるな」
「認めないと面倒でしょう」
「また人のせいにした」
「事実です」
朱音は、そのやり取りを聞きながら少しだけ腕を組んだ。
「わたし、今回行かないの正しいと思う」
「自分で言うんだ」
木乃実が言うと、朱音は頷いた。
「言うよ」
「何で?」
「わたしがいると」
朱音は僕を見る。
「たぶん、恒一くんの側すぎる」
「……」
「何その顔」
「いや」
僕は少しだけ驚いた。
「そこ、自分で分かってるんだなって」
「分かってるよ」
朱音は少しだけ目を細めた。
「だって、わたし黒崎くんのことかなり嫌いだし」
「うん」
「そこは顔に出る」
「かなりな」
「でしょ?」
「うん」
「だから今回は、見たことをそのまま言える人の方が強い」
「……」
「何」
「いや」
僕は苦笑した。
「今日はみんな、妙に大人だなって」
「ひどい」
「前から大人だよ?」
朱音が言う。
「いや、おまえは時々すごく子どもっぽいぞ」
「それは恒一くん相手だから」
「そういうこと真顔で言うなよ」
「事実だし」
「便利な言葉だな」
「便利だよ」
放課後の少し前。
僕はノートの切れ端に、ごく短く話す順番を書いた。
資料・メモのずれ
班の流れ
三田村
先生の前と外
必要なら名前
それだけだ。
でも、それだけで少し落ち着く。
放課後、先生へ話す時に最初から黒崎の名前を出さない。
それは逃げでも遠慮でもなく、届く順番を選ぶということだ。
正しいことでも、言うべき相手を間違えるとただ浮く。
同じように、言う順番を間違えても、正しさは急に軽く見える。
だから今は、そこを間違えたくなかった。




