第46話 証拠じゃなくても、崩れない順番はある
証拠、という言葉は強い。
あるかないかで話の温度が変わるし、あると言い切った瞬間に人は少しだけ安心する。これでもう迷わなくていい、という種類の安心だ。白か黒かが見えた時、人は考えることを少し減らせる。
だから本当は、僕だって欲しい。
黒崎蓮司が何をしたのか。
いつ、どこで、どう触ったのか。
先生の前での顔と、それ以外の顔がどう違うのか。
そういうものが、誰にも言い逃れできない形で一つでも手元にあれば、話はずいぶん楽になるだろう。
でも現実には、そう簡単に出てこない。
黒崎はそこを分かって動いている。
分かっているから、毎回ぎりぎりだ。誰かが嫌な気持ちになるところまでは行くのに、はっきり“こいつがやった”と言い切れる線は越えない。あるいは越えても、すぐに冗談とか勘違いとか空気の中へ溶かしてしまう。
だから最近の僕は、証拠そのものより先に、崩れない順番を拾うようになっていた。
誰がいついたか。
何が先で、何があとだったか。
先生はどこから見ていて、どこを見ていなかったか。
それは決定打じゃない。
でも、何もないよりはずっといい。
そして今の僕に必要なのは、たぶんそっちの方だった。
朝の教室。
班発表当日。
空気はいつもより静かだった。
もちろん完全に静かじゃない。高校生の教室がそんなに上品であるはずもない。誰かは眠そうだし、誰かはやたら元気だし、提出物を思い出して騒ぐやつもいる。でも、その全部の底に今日は“本番”がある。
木乃実は朝から妙にテンションが高い。
緊張すると明るくなるタイプなのだろう。
三田村は補足メモをもう四回くらい見ている。
小坂は明らかに口数が少ない。
そして僕は、昨日までより少しだけ頭の中が静かだった。
「神代くん」
木乃実が振り向く。
「何」
「今日、逆に落ち着いてる」
「そうか?」
「うん」
木乃実は目を細める。
「昨日までみたいな“何か起きるかも”の顔じゃなくて、“起きても順番見ます”の顔」
「また人の顔に字幕つけてるな」
「最近の神代くんはそういう読み方しやすいんだって」
「嬉しくない」
「でも当たってる?」
「……たぶん」
「ほら」
「そこで勝った顔するな」
「するよ」
佐伯も後ろから声をかけてくる。
「今日の神代、ちょっと腹括ってる感じある」
「そう見える?」
「見える」
「どのへんが」
「証拠ないのはもう分かった上で、それでも崩れないもの集める方へ行ってる感じ」
「……」
「何だその顔」
「いや」
僕は少し苦笑した。
「最近、おまえらの分析力だけやけに伸びてるなって」
「神代の周りにいると嫌でも伸びる」
「嬉しくない特訓だな」
少し離れた席から、エヴァの声が届いた。
「ようやく、証拠そのものと順番の違いを使い分け始めたのですから、前よりはましでしょうね」
「朝から容赦ないな」
僕が言うと、エヴァは平然としていた。
「容赦の問題ではありません」
「何の問題だよ」
「精度の問題です」
「便利な言い方だな」
「あなた方の“便利”と一緒にしないでください」
「でも今のはかなり当たってる」
「でしょうね」
「そこは迷わないんだ」
「迷う理由がありませんもの」
朱音は今日は珍しく、何も言わずに僕の机の横へ来た。
「何だよ」
僕が聞くと、
「ちょっと確認」
と朱音は答える。
「何を」
「恒一くんの顔」
「最近それ多いな」
「今日は大事だから」
「便利な言葉だな」
「便利だよ」
朱音は少しだけ笑った。
「うん。今日は大丈夫そう」
「何が」
「変に突っ込んで、自分で流れ壊したりしなさそう」
「……」
「その確認、必要か?」
「かなり」
「信用ないな」
「あるよ」
朱音は肩をすくめる。
「でも、あるから確認するの」
「よく分からない理屈だな」
「わたしの中では分かってるから大丈夫」
一時間目と二時間目は、表面上は何事もなく進んだ。
その“何事もない”の中で、僕はわりといろいろ見ていた。
黒崎はやっぱり先生の前で感じがいい。
それはもう、ここまで来ると習性に近い。
だが最近は、そこを見るだけでは足りない。
誰がその感じの良さを見ているか。
逆に、先生がいなくなったあとで何が混ざるか。
誰がその混ざった一言を聞いているか。
そういう方へ、目が行く。
たぶん前よりだいぶ嫌な見方をするようになってしまったのだろう。
でも、今はそれが必要だとも思っている。
昼休み。
班発表の直前確認で、僕たちはまた後ろの棚の近くに集まっていた。
「じゃあ、流れだけ最後に一回」
木乃実が言う。
「うん」
「私が最初」
「うん」
「小坂さん」
「うん」
「三田村くん」
「うん」
「神代くん」
「うん」
ここまでは問題ない。
だが、小坂が資料の束をめくっている時に、小さく「あれ」と言った。
「どうした?」
僕が聞くと、小坂は二枚の紙を見比べていた。
「これ」
「うん」
「配付用の資料の順番、また一枚だけ逆」
「……」
空気が止まる。
でも今日は、僕も木乃実も三田村も、反応が少しだけ前と違った。
慌てる前に、頭が順番の方へ行く。
「昨日の最後」
僕がすぐ言う。
「配付用の束、誰がまとめた?」
「私」
小坂が答える。
「そのあと?」
「机に置いて」
「そのあと、神代くんが表紙だけ確認した」
木乃実が言う。
「うん」
「その時点で、この順番だった?」
「……違う」
僕は即答した。
「少なくとも、ここは見た」
「うん」
「で、そのあと」
三田村が小さく続ける。
「先生が一回来て」
「うん」
「その時、黒崎くんも近くにいた」
「……」
その瞬間、頭の中で一つだけ整理される。
誰がやったかは、まだ分からない。
でも、“ずれる前”を見ている人間が今は複数いる。
そして、そのあと近くにいた人間も絞れる。
これは証拠じゃない。
でも、前よりずっと崩れにくい。
「確認するけど」
僕は平坦に言った。
「この束、昨日の最後に先生来たあと、誰か触った?」
「俺は触ってない」
三田村がすぐ答える。
「私も」
木乃実。
「私も、置いたあと見てない」
小坂。
「……」
そこで、黒崎がまた近づいてくる。
「何してんの」
その声音が、今日はほんの少しだけ違って聞こえた。
余裕はある。でも前より少しだけ警戒が混ざっている。
「配付資料の確認」
僕が答える。
「へえ」
黒崎が紙を見る。
「また?」
「まただな」
僕は頷く。
「で、今順番見てる」
「……」
「昨日の最後、この束はちゃんと合ってた」
「……」
「そのあと先生が来て」
「うん」
「その時このへんにいた人間は限られてる」
「……」
「何だよそれ」
「確認」
僕は短く返す。
「誰がやった、じゃなくて」
「……」
「どこでずれたか見てるだけ」
「探偵ごっこ好きだな」
「そう見える?」
「見えるよ」
「だとしても」
僕は資料を見たまま言う。
「最近の流れだと、このくらい見ないとまた“勘違い”で終わるだろ」
「……」
「それが嫌なだけ」
「……」
黒崎は笑った。
笑ったが、前ほど軽くない。
「神代」
「何」
「最近ほんと、準備いいよな」
「……」
「褒めてる?」
「違うだろ」
「うん、違う」
僕はあっさり答えた。
「でも今の一言、覚えとく」
「は?」
「“最近ほんと、準備いいよな”って」
「……」
「こういう場面でそれ言うの」
僕は少しだけ顔を上げた。
「だいぶ知ってる側の言い方だ」
「考えすぎ」
「そうかもな」
「……」
「でも、前よりそういうのは覚えとくことにした」
そこへ、遠山先生がまた近づいてきた。
「どう? 大丈夫?」
僕は一瞬だけ迷った。
でも今日は、迷い方が前と少し違う。
今ここで“黒崎が怪しい”とは言わない。
言わないが、順番は先生の前でちゃんと残す。
「大丈夫ではないです」
僕は平坦に言った。
「資料の一枚だけ順番がまた逆になってました」
「また?」
先生が少し眉を上げる。
「はい」
「昨日の最後は合ってた?」
「合ってました」
僕が答える。
「少なくとも、僕と木乃実と小坂さんはそこを確認してます」
「……」
「そのあと先生が一回来て」
「うん」
「今、そこからどこでずれたか見てるところです」
「……」
先生が一瞬だけ黙った。
前より、少しだけ長い沈黙だった。
たぶん、“またか”が先生の中にも残り始めている。
「……そう」
先生は小さく言った。
「じゃあ、今のうちに正しい順番へ直そう」
「はい」
「それと」
先生は資料の束を見る。
「誰が悪いか決める前に、確認した人とタイミングをちゃんと残しておいて」
「……」
「あとで混乱しないように」
その言葉に、僕は少しだけ驚いた。
先生の方から“確認した人とタイミングを残しておいて”が出る。
それは、ゼロではなくなったということだ。
「分かりました」
僕が答えると、先生は頷いて離れていった。
「……」
「……」
空気が少しだけ変わる。
木乃実が一番先に口を開いた。
「今の」
「うん」
「ちょっと進んだ?」
「そうかも」
僕が言うと、三田村も小さく頷いた。
「先生、前なら“気をつけようね”で終わってた」
「うん」
「でも今、“確認した人とタイミング残して”って言った」
「……」
「そうだな」
僕は答える。
「そこは大きい」
少し離れたところで、エヴァが小さく言った。
「ようやく、使える形になってきましたわね」
「何が」
僕が聞くと、エヴァは当然みたいな顔で答える。
「証拠ではなくても、崩れない順番です」
「……」
「今のあなた、誰がどう見て、どこでずれたか、そこだけを残そうとした」
「うん」
「しかも先生にも、その形で渡した」
「……」
「そこまでできれば、前よりずっとましです」
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は少しだけ息を吐いた。
「今のは、かなり褒めてるなって」
「違います」
「またそれか」
「必要なので」
「便利だな」
「あなた方ほどではありません」
朱音はその会話を聞いて、珍しくわりとはっきり笑った。
「うん」
「何」
僕が聞くと、
「やっと準備が形になってきたなって」
「準備?」
「うん」
朱音は僕を見る。
「恒一くん、今まで“嫌だ”をちゃんと止めてきた」
「うん」
「でも最近は、“嫌だ”を届く形に変え始めてる」
「……」
「それ、だいぶ違うよ」
「……」
「何」
「おまえも最近、やたら言葉にするな」
「だってそうだし」
「便利な言葉だな」
「便利だよ」
「ほんとその流行強いな」
放課後。
資料の束をまとめ直しながら、僕は今日の順番を頭の中で何度も反芻していた。
証拠じゃなくても、崩れない順番はある。
それを積んでいけば、少なくとも“気にしすぎ”だけでは終わりにくくなる。
まだ十分じゃない。
でも、前よりは確かにましだ。
そう思えた時点で、たぶん今日のこれは小さくない前進だった。




