第45話 引いたんじゃない、順番を待っただけだ
黙ることと、引くことは違う。
たぶん前の僕なら、その違いをうまく言葉にできなかった。
黙ったら負けた気がしたし、何かを止めなかったら、その時点で見過ごしたことになると思っていた。
でも最近は少しだけ分かる。
今じゃない場面で無理にぶつかると、相手の作った見え方に自分から乗ってしまうことがある。
先生の前で親切なやつへ噛みつけば、こっちが空気を悪くした側へ見える。
“正しいことを言ってるはず”なのに、“感じの悪いやつ”へずれてしまう。
それは、嫌だとか悔しいとか以前に、単純に下手だ。
だから昨日の僕は、止めなかった。
いや、止めなかったというより、待った。
その違いを、ちゃんと分かってほしい相手がいた。
たぶん、班の三人にも。
たぶん、自分自身にも。
朝の教室は、昨日より少しだけ静かだった。
班発表当日の朝。
昨日までのざわつきが一段落して、代わりに“もうここまで来たらやるしかない”みたいな諦め交じりの落ち着きがある。人間、腹を括るとだいたい少し静かになる。
でも僕の周りの三人は、たぶん昨日の補足メモの件をまだ少し引きずっていた。
木乃実は朝からやたら明るい。こういう時の明るさは意識しているやつだ。
三田村は補足メモを三回くらい見返している。
小坂は「今日は何も起きませんように」と顔に書いてある。
そして僕は、たぶん彼らに少し説明しなければいけないと思っていた。
「神代くん」
木乃実が開口一番そう呼んだ。
「何」
「昨日のやつ」
「うん」
「やっぱり、止めなかったのちょっと意外だった」
「……」
「責めてるんじゃないよ?」
「分かる」
僕が答えると、木乃実は少しだけ真面目な顔になる。
「でも、神代くんならあそこで“その言い方違うだろ”って行くかなって思ってた」
「前なら行ってたかもな」
「……」
「木乃実」
「何」
「昨日の僕、引いたように見えた?」
「ちょっとだけ」
木乃実は正直に言った。
「うん」
「そうか」
「でも、たぶん違うんだよね?」
「違う」
僕は頷いた。
「引いたんじゃない」
「……」
「順番を待っただけ」
「順番」
「うん」
三田村もその言葉で顔を上げた。
やっぱり気にしていたのだろう。
「どういう意味?」
木乃実が聞く。
「昨日、あの場面で黒崎にすぐ返すのは簡単だった」
「うん」
「でも、先生の前では黒崎は完全に“探してくれてる側”だった」
「……」
「そこで僕が強く言うと」
「うん」
「“助けてる側に神経質に噛みつくやつ”に見えやすい」
「……」
「しかも」
僕は続ける。
「補足メモが棚から見つかったあとだった」
「うん」
「だから、あの時点で“黒崎のやり方が嫌だ”だけを出しても、届きにくい」
「……」
「それなら」
三田村が小さく言う。
「いったん待った方がよかった?」
「うん」
僕は頷いた。
「少なくとも、昨日はそうだったと思う」
「……」
「だから、止めなかったんじゃない」
「うん」
「今じゃない、って判断した」
「……」
木乃実は数秒だけ黙って、それから少しだけ息を吐いた。
「それ、分かる」
「うん」
「分かるけど」
「うん」
「やっぱり難しいな」
「難しい」
僕は認める。
「止めたいのに、今止めると逆に変な見え方になるってこと?」
「そう」
「うわあ」
木乃実は机に頬杖をついた。
「黒崎くん、ほんと嫌なやり方する」
「かなりな」
佐伯が後ろから言う。
「しかも、それを神代がちゃんと理解して待ったってことだろ」
「うん」
「前よりだいぶ厄介になってるな」
「誰が」
僕が聞くと、
「神代」
佐伯はあっさり答えた。
「前はもっと、その場で止める方向だった」
「……」
「でも今は、“今止めたらどう見えるか”まで考えてる」
「……」
「それ、かなり面倒くさい」
「褒めてないだろ」
「半分くらいは」
「またその割合か」
「便利だからな」
「ほんと流行ってるな」
少し離れた席から、エヴァが静かに言う。
「正しい判断ですわ」
全員が少しだけそちらを見る。
エヴァは視線を逸らさず、いつも通りの顔だった。
「昨日のあなたの動きです」
彼女は続けた。
「その場で反論しなかった」
「うん」
「でも見ていた」
「うん」
「誰が、どの順番で、どういう印象を先生へ置いたか」
「……」
「そこを拾ったうえで待ったなら」
「うん」
「それは引いたのではありません」
「……」
「判断です」
「……」
僕は少しだけ苦笑した。
「珍しく、かなり明確に認めるな」
「珍しくはありません」
「いや、わりと」
「気のせいです」
「便利だな」
「あなた方ほどではありません」
朱音は、その会話に少し遅れて入ってきた。
「うん」
「何」
僕が聞くと、
「エヴァさん、今のかなりちゃんと褒めてる」
「褒めていません」
エヴァが即答する。
「早いな」
僕が言うと、
「必要なので」
とエヴァは返した。
「でも」
朱音は笑った。
「わたしも同じこと思った」
「何を」
「昨日の恒一くん」
朱音は僕を見る。
「待てたの、えらい」
「……」
「そこ、わりと素直に言うな」
「今日はかなり」
「割合じゃないんだ」
「そこははっきり」
朱音は肩をすくめた。
「だって前なら、たぶんあそこで一回刺してた」
「……」
「でも昨日は待った」
「うん」
「それ、たぶん前より強い」
「強いかどうかは分からないけど」
「うん」
「少なくとも、同じ失敗はしにくくなった気がする」
「それで十分」
朱音はあっさり言った。
「今は」
一時間目が始まっても、その会話は少し頭に残っていた。
引いたんじゃない。
順番を待っただけ。
言葉にすると、少しだけ自分の中でも整理がつく。
自分でも、昨日の自分を少しだけ疑っていたのだ。
本当は、怖くなって黙っただけじゃないか。
面倒になって、一歩引いたんじゃないか。
そういう問いが、たぶん心のどこかにあった。
でも今は違うと、少しだけ思える。
嫌だった。
かなり腹も立った。
でも、そのうえで待った。
そこには少なくとも、選んだ感じがある。
昼休み。
班の最終確認のついでに、三田村がぽつりと言った。
「神代くん」
「うん?」
「昨日、俺ちょっとだけ」
「何」
「見捨てられたのかなって、ほんの一瞬だけ思った」
「……」
その言葉は、思ったより重かった。
木乃実も小坂も、少しだけ息を止めたのが分かる。
「でも」
三田村はすぐに続けた。
「今、違うって分かった」
「……」
「ちゃんと見てて、待ってただけなんだって」
「うん」
僕は短く答えた。
「そう」
「……」
「ごめん」
三田村が言う。
「いや」
僕は首を振る。
「それは謝らなくていい」
「でも」
「そう思うの、普通だろ」
「……」
「その場では僕も、ちょっとそう見えるかもって思ってた」
「……」
「だから今、言葉にできてよかった」
三田村は少しだけ目を丸くして、それから小さく笑った。
「神代くん、そういうとこはやっぱりすぐ言うね」
「最近それ必要だと思ってるから」
「うん」
「ただ」
「ただ?」
「毎回うまくはできない」
「……」
「そこは、まだ練習中」
「それ、自分で言うんだ」
「言うよ」
僕は少しだけ肩をすくめた。
「完璧じゃないの、最近いろんな人に確認されてるし」
「うわ」
木乃実が笑う。
「そこ自分で回収する?」
「する」
「ちょっと面白い」
「嬉しくない」
そのやり取りの少しあと、黒崎が教室の前方で何人かと話していた。
相変わらず感じはいい。
先生が近づいたら、ちゃんと感じよく笑う。
そこは変わらない。
でも最近の僕は、その“変わらなさ”自体を材料として見るようになってきた。
先生の前での感じの良さ。
手伝う側の立ち位置。
軽口の顔で少しだけ誰かを下げる言い方。
それが繰り返されているなら、単発ではない。
少なくとも、偶然の連続ではない。
「引かなかったの、正解ですわ」
昼休みの終わり際、エヴァがまた小さく言った。
「まだ言うのか」
僕が返すと、
「大事なことなので」
と彼女は答えた。
「昨日のあの場面であなたがすぐ反論していたら」
「うん」
「遠山先生から見えるのは、“手伝っている黒崎蓮司”と“空気を悪くする神代恒一”です」
「……」
「でも、待ったことで」
「うん」
「今、こうして班の中で共有できている」
「……」
「それはかなり大きい」
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は苦笑する。
「最近の君、たまにちゃんと支えてくるなって」
「……」
「何で黙る」
「困るからです」
「最近それ認めるな」
「認めないと面倒でしょう」
「また人のせいにした」
「今回は事実です」
放課後の少し前、朱音がふいに言った。
「恒一くん」
「何」
「今日のあれ」
「うん」
「ちゃんと木乃実ちゃんたちに言えてよかったね」
「……」
「何だよその顔」
「いや」
僕は少しだけ視線を外した。
「言葉にすると、自分でも少し整理つくんだなって」
「うん」
「昨日の自分が引いたのか待ったのか、たぶんそこが曖昧だった」
「うん」
「でも今は、待ったって言える」
「うん」
「そこ、少しだけ安心した」
朱音はやわらかく笑った。
「それならいい」
「……」
「何」
「今日は珍しく、ずっと優しいな」
「今日はかなり」
「またそこか」
「便利だからね」
「ほんと便利だな」
引いたんじゃない。
順番を待っただけ。
その言葉が自分の中に落ちた時、少しだけ次の動き方も見えた気がした。
感情で突っ込まない。
でも、黙って終わらせない。
順番を見て、届く形を待つ。
たぶん今は、それが必要なのだ。




