第42話 発表前は、だいたい一番やりやすい
何かを壊すなら、本番の少し前がいちばん効く。
これは別に悪だくみの話に限らないのかもしれない。
予定だってそうだ。せっかく整えた段取りは、当日の朝に一つずれれば全部が気になるし、前日の夜に一つ忘れ物が見つかれば、それだけで眠りが浅くなる。
人は、本番の直前がいちばん脆い。
だからもし誰かが、教室の中で小さく嫌なことを仕掛けたいなら。
班発表の前日なんて、たぶんかなりやりやすい。
そのことを、僕はその日、朝から何度も考えていた。
来週ではなく、もう明日だ。
班発表の本番は。
進行の順番。
読む箇所。
補足の一言。
資料の並び。
全部、完璧にしたいわけじゃない。
完璧なんて言い出すと、たぶんまた黒崎に“神代ってそういうとこだよな”と笑われる。
でも少なくとも、“誰かが悪いことにされる雑なずれ”は減らしたい。
そう思っている時点で、たぶん僕はもう前よりだいぶ面倒な人間なのだろう。
「神代くん」
木乃実が朝いちで僕を見て言った。
「何」
「今日、かなり警戒してる」
「最近それしか言われてないな」
「だって分かりやすすぎるし」
木乃実は机に頬杖をつく。
「しかも今日は、“何か起きるなら今日だろ”まで顔に書いてある」
「……」
「図星」
「おまえ、本当に人の顔に字幕つけるの得意だな」
「最近の神代くんだけ特別サービス」
「嬉しくない」
「でも当たってるよね?」
「かなりな」
僕が認めると、木乃実は小さくため息をついた。
「だよねえ」
「何だよ」
「私もそう思ってるから」
「……」
「班発表前日って、普通に一番嫌なこと起きやすそう」
「嫌な予測だな」
「でもたぶん当たる」
「最近みんな予測の精度上がりすぎてない?」
「神代の周りにいると嫌でもする」
後ろから佐伯が言う。
「しかも今回は、もう流れできてるし」
「流れ?」
「黒崎の」
佐伯は肩をすくめた。
「先生の前では感じよくて、いないとこで軽く混ぜて、班の準備みたいな“ちょっとズレると困る場所”を狙う流れ」
「……」
「今聞くとだいぶ整理されてるな」
「最近の俺ら、そこだけ無駄に賢くなってる気がする」
「嬉しくない成長だな」
少し離れた席から、エヴァの声が届く。
「本番前は、空気が一番揺れやすいですもの」
「朝から当たり前みたいに嫌なこと言うな」
僕が返すと、エヴァは平然としていた。
「嫌なことではなく事実です」
「便利な言葉だな」
「あなた方が乱用しているだけです」
「で?」
「で、とは何ですの」
「今日についての見立て」
僕が言うと、エヴァは少しだけ目を細めた。
「かなりやりやすい日です」
「……」
「班ごとの緊張がある」
「うん」
「少しのずれでも気になる」
「うん」
「そして“誰が悪いか”へ流しやすい」
「……」
「つまり」
「つまり?」
「かなり面倒な日ですわね」
「まとめがひどいな」
「正確です」
「そこは認めるしかないか」
朱音は今日はいつもより少し早く来た。
来るなり僕の机の横で止まって、珍しく茶化す前に本題を言った。
「今日、何かあるならたぶん資料」
「資料?」
「うん」
朱音は小さく頷く。
「順番とか、差し替えとか、そういうやつ」
「何でそう思う」
「黒崎くん」
朱音は教室の前の方を見る。
「昨日から、机の上の紙見る時だけ目が早い」
「……」
「怖いな」
「怖いよ」
「でもたぶん本当」
「おまえ、そういうとこ本当に嫌な方向へ鋭いな」
「ひどくない?」
「ひどくないけど」
僕は小さく息を吐いた。
「助かる」
「……」
「何だよ」
「今の、珍しく素直」
「最近わりと素直じゃない?」
「嫌なことに対してだけね」
「それはあんまり良くない傾向だな」
「でも便利」
「ほんとその言葉好きだな」
一時間目、二時間目、三時間目。
午前中は驚くほど静かだった。
静か、というより。
黒崎が静かすぎた。
余計な軽口が少ない。
三田村に向けた小さな棘もほとんどない。
僕に対しても、いつもの“神代ってさ”がない。
だからこそ、逆に気持ち悪い。
「神代くん」
昼休みの少し前、木乃実が言った。
「何」
「今日の黒崎くん、逆に静かすぎない?」
「うん」
「だよね」
「うん」
木乃実は露骨に顔をしかめた。
「何もない日に静かなのは普通だけど、今日みたいな日に静かなのは逆にこわい」
「かなり分かる」
佐伯も頷く。
「なんか、“今はまだ言わない”って感じする」
「……」
「そこまで分かる?」
僕が聞くと、佐伯は苦笑した。
「最近の流れ見てるとな」
「嫌な学習だな」
「でも必要そうだし」
「そこなんだよな」
昼休み、僕たちの班は後ろの棚の近くで最終確認をすることになった。
木乃実が進行メモを持ち、小坂が資料本体を持ち、三田村が補足メモの束を確認する。僕は全体の順番を見る。いつも通りと言えばいつも通りだ。だが今日は、その“いつも通り”に少しだけ緊張が混ざっていた。
「じゃあ、最後にもう一回だけ」
僕が言う。
「導入は木乃実」
「うん」
「資料の前半は小坂さん」
「うん」
「補足の一言が三田村」
「うん」
「締めは僕」
「うん」
木乃実が頷いて、進行メモを閉じようとした時だった。
「あれ?」
「どうした?」
僕が聞くと、木乃実は紙をもう一回開いた。
「最後の補足、増えてない?」
「え?」
三田村が覗き込む。
「増えてる、って何が」
「この一文」
木乃実が指差す。
「“全体のまとめは神代が責任を持って補う”って書いてある」
「……」
空気が、少しだけ止まった。
嫌な止まり方だった。
それは別に、大事故ではない。
でも、このタイミングでその一文が入るのは、だいぶ嫌だ。
責任を持って補う。
それだけ見れば前向きな言葉に見える。
でも今の流れの中では、急に“神代が全部背負う役”へ寄せられた感じになる。
「これ、昨日あった?」
僕は静かに聞いた。
「いや」
木乃実はすぐ首を振る。
「なかった」
「俺も見てない」
三田村が言う。
「小坂さんは?」
「私も」
小坂は少し青い顔で答えた。
「昨日の時点ではなかったと思う」
「……」
僕はすぐには次の言葉を出さなかった。
こういう時、急いで“誰だ”へ行くと、また空気で負ける。
まず順番だ。
「昨日の最後」
僕は進行メモを見たまま言う。
「これ、最後に誰が持ってた?」
「私」
木乃実が言う。
「で、机の上に置いて」
「うん」
「そのあと、神代くんが全体の流れ見るって」
「見た」
「うん」
「で、俺が補足メモと一緒に挟んだ」
三田村が続ける。
「その時点では、たぶんこの一文なかった」
「……」
「で、そのあと」
木乃実が顔を上げる。
「黒崎くん、こっち来てなかった?」
「……来てた」
僕は答えた。
「ちょうどその時」
「やっぱり」
朱音が、いつの間にか少し後ろに来ていた。
「何が」
僕が聞くと、朱音は目を細める。
「紙だと思った」
「……」
「何かあるなら、今日の静かな感じで一番やりやすいのそこだったし」
その会話へ、絶妙なタイミングで黒崎が入ってくる。
「何してんの」
ほんとうに、こいつはそういうところだけうまい。
「確認」
僕が短く答えると、黒崎は進行メモを覗き込んだ。
「へえ」
「……」
「また何か増えてんの?」
その言い方で、僕の中でほぼ確信に近いものが動いた。
知っている人間の声だ。
少なくとも、初見の驚きではない。
「確認するけど」
僕は平坦に言った。
「昨日の最後、これに触った?」
「は?」
「進行メモ」
「何で俺」
「昨日、この机の近くにいたから」
「……」
「触った?」
「触ってねえよ」
「ほんとに?」
「……」
「今はそれでいい」
僕はメモを指で押さえる。
「ただ、この一文は昨日の最後にはなかった」
「だから?」
「だから、いつ増えたか確認してる」
「神代さ」
黒崎が笑った。
「最近ほんとそういうの好きだな」
「好きじゃない」
「じゃあ何」
「分からないものを“誰かが悪いでしょ”にしたくないだけ」
「……」
「でも」
黒崎は肩をすくめる。
「その一文、別におかしくなくね?」
「おかしいよ」
木乃実がすぐ言った。
「今の流れで急に“神代が責任持つ”って増えるの、普通に変」
「何で」
「何でじゃないよ」
木乃実は少し強く言う。
「班で決めてないのに勝手に書き足されてる時点で変」
「……」
「しかも」
三田村が続けた。
「これ、神代くんに全部寄せるみたいで嫌」
「……」
「昨日の時点で、そういう決め方してないし」
黒崎は一瞬だけ黙った。
その黙り方が、やっぱり少しだけ長い。
それだけで、こっちの返し方が前より効いているのが分かる。
「……先生」
と、その時、ちょうど遠山先生が近くを通った。
「どうしたの?」
先生が聞く。
「資料の確認です」
僕が先に答える。
「進行メモに、昨日なかった一文が増えてたので」
「え?」
先生が少し驚く。
「そうなの?」
「はい」
「誰か書き足したのかな」
「たぶん」
僕は頷く。
「ただ、班の中ではまだその決め方してないので」
「……」
「だから今、順番を確認してました」
先生はメモを覗き込んで、それから少しだけ眉をひそめた。
「なるほどね」
「……」
「じゃあ、その一文はいったん消して」
「はい」
「班でちゃんと決めたことだけ残そう」
「……」
「勝手に増えると混乱するからね」
それは、小さいけれど十分な前進だった。
誰がやったかまでは言わない。
でも、“勝手に増えたのはよくない”は先生の口から出た。
それだけで、今日のこの仕掛けは少なくとも完全には通らない。
「……静かなやつほど、次に動く時は準備していますわね」
少し離れたところで、エヴァが小さく言った。
「何だよそれ」
僕が聞くと、エヴァは平然としている。
「今のあなたです」
「……」
「先生の前で、誰が悪いと決めつけずに」
「うん」
「何が増えたか、いつの話か、班で決めていないことだけを出した」
「……」
「その動き方なら、届く可能性があります」
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は少しだけ息を吐いた。
「最近の君、そういう褒め方するよなって」
「褒めてなどいません」
「いや今のはだいぶ」
「違います」
「早いな」
「必要なので」
「便利な理屈だ」
「あなた方ほどではありません」
放課後、班の作業が終わって人が少し減った頃。
黒崎が、廊下の向こうからこっちを見て言った。
「最近、先生に言いつける準備でもしてんの?」
昨日も聞いた言葉だ。
だが今日は、その温度が少し違う。
冗談の顔をしていても、向こうが今の流れを嫌がっているのが少し見える。
「言いつけるんじゃない」
僕は静かに返した。
「何度も言ってるけど」
「へえ」
「届く形を探してるだけ」
「……」
「それがだるいなら」
僕は少しだけ首を傾けた。
「おまえの方が困ることがあるんだろ」
「……」
「考えすぎ」
黒崎は笑った。
「そうかもな」
僕は頷く。
「でも、今日みたいに“勝手に増えた一文”は、考えすぎじゃ片づかない」
黒崎はそこで少しだけ笑みを薄くした。
大きな事件はまだ起きていない。
でも、本番前は、だいたい一番やりやすい。
そしてそのやりやすい日に何かが起きた時、前より少しだけ崩れない返し方はできた。
それだけでも、今は十分に意味がある気がした。




