第41話 見えている不公平は、まだ証明しにくい
分かったところで、動けるとは限らない。
むしろ、分かり始めたばかりの時期がいちばん厄介なのかもしれない。
黒崎蓮司は、ただ感じの悪い同級生ではない。
先生に対して妙な余裕がある。
家庭の話を“使える情報”として持っている感じがある。
学校がどこまで強く出ないか、その感覚も分かっていそうだ。
そこまでは見えてきた。
でも、だからといって今すぐ何かを変えられるわけじゃない。
証拠があるわけじゃない。
誰かがはっきり脅されたわけでもない。
黒崎自身も、表向きは“少し感じの悪い軽口の多いやつ”の顔を保っている。
つまり今の段階では、全部がまだ“違和感”のままだ。
違和感は、正しい時がある。
でも、違和感だけでは、教室の外へ持ち出した瞬間に弱くなる。
そのことが、最近の僕にはよく分かるようになってきた。
分かるようになったからこそ、余計に面倒だった。
朝の教室。
木乃実は今日も元気で、佐伯は今日も眠そうで、三田村は前よりだいぶ机の上を整えすぎるようになっている。
そして僕は、前より少しだけ考え込む時間が増えていた。
「神代くん」
木乃実が振り向く。
「何」
「今日、また重い」
「最近そればっかり言われるな」
「だってそうだし」
木乃実はあっさり言った。
「しかも今日は、“分かったけどどうにもならないこと”考えてる顔」
「……」
「図星」
「おまえ本当に人の顔を勝手に字幕化するの好きだな」
「最近の神代くんはやりやすいんだよね」
「嬉しくない」
「でも当たってる?」
「……まあ」
「ほら」
「そこで勝った顔するなよ」
「気持ちいいから無理」
「最悪だな」
後ろから佐伯が会話へ入る。
「でも分かるわ」
「何が」
「黒崎のことだろ」
「……」
「最近、あいつの背景ちょっと見えてきたけど」
「うん」
「だからって今すぐどうこうできる感じでもない、って顔」
「……」
「おまえらほんと最近すごいな」
「神代が分かりやすすぎるんだって」
「それ、もう今週の標語になってない?」
「かなり上位」
少し離れた席から、エヴァの声が届く。
「分かったところで動けない、は当然でしょうね」
「朝から容赦ないな」
僕が言うと、エヴァは平然としていた。
「容赦の問題ではありません」
「どういう意味」
「背景を知ることと、使える材料になることは別です」
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は少しだけ苦笑する。
「最近の君、本当にそこをはっきり言うなって」
「最近のあなたが、ようやくそこまで考えるようになっただけです」
「言い方」
「事実ですもの」
「便利な言葉だな」
「あなた方が乱用しているだけです」
朱音は少し遅れて来た。
今日は教室へ入るなり、僕を見るなり小さく笑った。
「今日、分かってるのに止められないこと考えてるね」
「おまえまでそこを読むのか」
「読むよ」
朱音は僕の机の横に立つ。
「だって今の恒一くん、かなりそれ」
「……」
「図星」
「最近、図星以外の反応を許してもらえないな」
「だってほんとだし」
「便利な言葉だな」
「便利だよ」
朱音は笑う。
「でも、分かるよ」
「何が」
「黒崎くんの家とか、先生の遠慮とか、見えてきた」
「うん」
「でも、それだけじゃ何にもならない」
「……」
「そこがいちばん嫌なんでしょ」
「かなりな」
僕が答えると、朱音は静かに頷いた。
「だよね」
一時間目は数学だった。
正直、こういう時の数学は助かる。考えるべきことが強制的に別の方向へ行くからだ。だがその日は、数字の並びを見ながらも頭のどこかで別のことを整理してしまっていた。
黒崎は今日も普通に座っている。
普通にノートを取り、普通に笑い、普通に先生へ返事をする。
これだけ見れば、何の問題もない。
でも、最近の僕にはその“何の問題もない顔”の下へ引っかかりがある。
引っかかりがあるのに、そこを今すぐ言葉にして外へ出せるほど固くもない。
それが面倒だった。
休み時間。
三田村が、珍しく自分から僕のところへ来た。
「神代くん」
「うん?」
「最近さ」
「うん」
「俺も、ちょっと思う」
「何を」
「黒崎くんのこと」
「……」
「前は、ただ嫌な言い方するやつだと思ってた」
「うん」
「でも今は、もう少し……」
三田村は言葉を探す。
「うまく言えないけど、安心して嫌なことしてる感じ」
「……」
「分かる?」
「分かる」
僕はすぐに答えた。
「かなり」
「……やっぱり」
「うん」
「でも、だからって先生に言えるかっていうと」
「言いづらい」
「うん」
三田村は小さく頷いた。
「そこまで言うと、“考えすぎじゃない?”って返されそうだし」
「……」
「そこなんだよな」
僕は小さく息を吐く。
「まさに」
「……神代くんも思ってた?」
「思ってた」
「そっか」
「うん」
「……何か、ちょっと安心した」
「そこ最近よく言うな」
「だってするし」
「嬉しいような、嬉しくないような安心だな」
「たしかに」
その会話を聞いていたらしい木乃実が、机に頬杖をつきながら言った。
「分かるのに止められないのって、ほんと嫌だね」
「うん」
僕が頷くと、木乃実は少しだけ真面目な顔になった。
「だって今のって、“黒崎くんの家すごそう”とか、“先生ちょっと遠慮してそう”とか」
「うん」
「全部、言い切れないじゃん」
「そう」
「でも、言い切れないからって何もないわけでもない」
「……」
「そこが嫌」
「かなり正確だな」
「嬉しくない精度だよ」
木乃実はため息をつく。
「普通に教室で過ごしたいだけなのに、最近そういう解像度ばっか上がる」
「神代の周りにいるとしょうがない」
佐伯が後ろから言う。
「それ僕のせいか?」
「半分くらいは」
「またその割合か」
「便利だからな」
「ほんとに流行ってるな」
昼休み、黒崎は前の方で男子数人と笑っていた。
笑っている。
でも最近は、その笑顔を見ても“ただ楽しそう”では済まなくなってきた。
この余裕は何だろう。
この軽さの根拠は何だろう。
そう考えてしまう。
考えてしまうのに、それをそのまま材料として使えるわけではない。
そこがしんどい。
「背景を知ることと、使える材料になることは別です」
エヴァが、昼休みの終わりにまたそう言った。
「それ、朝も言ってたな」
僕が返すと、
「大事なことなので」
と彼女は答えた。
「今のあなた、そこで止まっているのでしょう?」
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は少しだけ苦笑した。
「ほんとにそこなんだなって」
「ええ」
「分かってきた」
「それは結構です」
「そこ、珍しく褒めた?」
「まさか」
「だろうな」
「でも」
エヴァは少しだけ言い直した。
「止まっている場所を自覚できているなら、前よりはましです」
「……」
「何ですの」
「今の、わりと優しいな」
「違います」
「早い」
「違います」
「二回言った」
「必要だったのです」
「便利な理屈だな」
「あなた方ほどではありません」
その日の午後、班発表準備の確認で、小さな不穏があった。
進行確認のメモが、また一か所だけずれていたのだ。
大ごとではない。
でも、最近の流れでは無視しづらい程度には嫌なずれ方だった。
僕はすぐには口を出さなかった。
まず見る。
誰が最後に触ったか。
誰がその場にいたか。
どの順番で話が動いたか。
そこを見ないと、また“神代が気にしすぎてる”へ寄せられる。
すると黒崎が、少しだけ離れた位置から言った。
「神代、最近ほんと静かに見てるよな」
「……」
「何か探偵でも始めた?」
「始めてない」
僕は平坦に返す。
「ただ、最近は順番見ないと分からないことが多いから」
「へえ」
黒崎は笑う。
「面倒くさ」
「知ってる」
「自覚あるんだ」
「最近よく言われるからな」
「……」
「でも」
僕は視線を上げた。
「面倒なことって、分かったからすぐ何とかなるわけじゃないんだよ」
「は?」
「今まさにそうだから」
「……」
「分かる?」
「分かんねえよ」
「だろうな」
その返しのあと、黒崎は少しだけ目を細めた。
でも、僕はそこで妙に落ち着いている自分に気づいた。
たぶん、以前より“今すぐどうにかならないこと”に耐える時間が増えたのだろう。
それは成長なのか、単なる慣れなのか。
まだ自分でも分からない。
放課後、朱音が言った。
「恒一くん」
「何」
「今日、前よりちゃんと我慢してたね」
「我慢?」
「うん」
「何を」
「分かってるのにすぐ動けないこと」
「……」
「前は、それがもっと嫌そうだった」
「今も嫌だよ」
「うん」
「でも」
「でも?」
「今は、嫌なだけじゃ足りないのも分かる」
「……」
「だから、ちょっとだけ待てる」
「……」
「何」
「そこ、だいぶ変わったなって」
「そうかも」
僕は正直に答えた。
「最近、すぐ動けないなら何が足りないか考える方へ行く」
「うん」
「たぶん、その方があとで効く」
「うん」
朱音は笑った。
「それ、かなり強いよ」
強い、のかどうかは分からない。
ただ、見えている不公平は、まだ証明しにくい。
そのことだけは、もうよく分かっていた。
そして分かったからこそ、次に何を見れば崩れないかを考え始めている。
たぶん、それが今の僕にできる一番まともな前進なのだろう。




