第36話 相談は、証拠がないと相談っぽく見えない
相談という言葉には、どこか整った響きがある。
困っていることがあって。
自分だけでは整理しきれなくて。
だから誰かに話す。
そこにはたぶん、最低限の形が要る。
何が起きていて、何が嫌で、どうして気になるのか。少なくともそのあたりがある程度は揃っていないと、相談はただの愚痴みたいに見える。
そして学校という場所では、その“ある程度”の基準が思っているより高い。
空気が嫌だ。
誰かが悪いことにされやすい。
黒崎の言い方はいつも軽いけど、たぶん軽いだけじゃない。
そういう感覚は確かにある。
あるのだが、それをそのまま教師に渡して、どこまで“相談”として受け取ってもらえるのかとなると、急に心許なくなる。
証拠がないと強いやつは、だいたいそう言う。
気にしすぎ。
考えすぎ。
そんなつもりじゃない。
そして教師の側も、証拠がない話を強くは扱いにくい。
そのことを考え続けた末に、僕は結局、遠山先生へ半歩だけ踏み込むことにした。
半歩だけ、というのが大事だ。
黒崎がこうです、とは言わない。
あいつが悪いんです、とも言わない。
ただ、最近ちょっと教室の空気で気になることがある、とだけ伝える。
それでどこまで届くのか。
届かないなら、なぜ届かないのか。
そこを知っておきたかった。
放課後、教室の人が少しずつ減っていく。
木乃実は今日も部活見学へ行くらしく、佐伯も体育館の方へ行った。朱音は保健委員の仕事で少し遅れる。エヴァは図書委員の返却当番があるらしい。
だから、今がちょうどいいと思った。
遠山先生は、教卓でプリントを整理していた。
教室の前方。夕方の光。静かな空気。
こういう場面だけ切り取ると、学校というのは実に平和そうに見える。
「先生」
僕が声をかけると、遠山先生は顔を上げた。
「ん? 神代くん、どうしたの」
「少しだけ、いいですか」
「いいよ」
先生は、そこで少しだけ表情を変えた。
たぶん“生徒から話しかけられた時のちゃんと聞く顔”なのだろう。教師という職業の人が持っている顔だ。悪くない。むしろありがたい。けれど、その顔を見た瞬間に、こっちの言葉の方が急に雑に思えてくるから困る。
「えっと」
僕は少しだけ言葉を探した。
「最近、班の準備とか教室の中で」
「うん」
「少しだけ、誰かが悪いことにされやすい流れがある気がしてて」
「……」
先生は黙って聞いていた。
「悪いことにされやすい?」
「はい」
「例えば?」
「……」
そこで、やっぱり少し詰まる。
例えば。
その一言が、一気に話を具体に引きずり下ろす。
筆箱を落とした時の軽口。
資料集を貸しながら“最近多いよな”を混ぜるやつ。
班の役割を“この人でよくね?”で決まった空気にするやつ。
古い版の資料。
ずれた進行メモ。
どれも嫌だった。
でも、どれも単体で見れば大ごとではない。
しかも黒崎の名前を出した瞬間、たぶん話は別の方向へ揺れる。
「班の準備で」
僕は慎重に言う。
「誰かがまだ引き受けるって言ってないのに、そういう流れになりかけたり」
「うん」
「何かがずれた時に、本人が悪いみたいな空気になりやすかったり」
「……」
「そういうのが少し気になってて」
「……そっか」
先生は小さく頷いた。
「誰か特定の子、っていうより?」
「……」
やっぱり、そこを聞かれる。
「特定、っていうより」
僕は少しだけ視線を落とした。
「最近そういう空気が、少し続いてる感じです」
「なるほどね」
先生は腕を組むわけでもなく、ただ静かに聞いている。
「神代くんは、それが引っかかってるんだ」
「はい」
「うん」
先生は少し考える顔をした。
「気にしすぎ、とは言わないよ」
「……」
「でも、今の話だけだと、まだちょっと様子を見たいかな」
「……」
「もちろん、空気が悪くなるのはよくない」
「はい」
「でも高校生の教室って、ちょっとした言い方の行き違いとか、軽口の行きすぎとかもあるし」
「……」
「もう少しはっきり困ってることがあったら、すぐ言って」
「……はい」
「一人で抱えないでね」
「はい」
やっぱり、と思った。
先生は悪い人ではない。
むしろ丁寧だ。
真面目に聞いてくれている。
でも、今の段階ではまだそこだ。
もう少し様子を見たい。
もう少しはっきり困ってることがあったら。
すぐ言って。
正しい。
正しいのだが、それが今の僕の欲しかった返答かと言われると、少し違う。
相談したのに、届かなかった。
いや、届かなかったというのも違うかもしれない。
届いたけれど、“相談としてはまだ弱い”に振り分けられた。
たぶん、そういうことだ。
「ありがとうございます」
僕はとりあえずそう言った。
「うん」
先生はやわらかく笑う。
「気にして見てくれてるのは助かるよ」
「……」
「でも、神代くん一人が背負うことじゃないからね」
「……はい」
教卓を離れて、自分の席へ戻る。
うまくいかなかった、とは思わない。
ただ、足りなかった。
そしてその“足りなさ”が、自分でもはっきり分かってしまうのが、いちばん少しだけつらい。
「相談は、証拠がないと相談として弱くなります」
声がした。
エヴァだった。
いつの間に戻ってきたのか分からない。いや、分からないわけではない。たぶん図書委員の仕事を終えて、教室へ戻ってきて、僕と先生の会話の終盤くらいは聞いていたのだろう。
相変わらず、この人は必要な時だけ都合よくそこにいる。
「聞いてたのか」
僕が言うと、
「少し」
とエヴァは答えた。
「盗み聞きするつもりはありませんでしたが、聞こえてしまったので」
「便利な言い訳だな」
「あなた方の“便利”に巻き込まないでください」
「じゃあ今のは何だよ」
「感想です」
「感想にしてはだいぶ正確だな」
「当然です」
僕は苦笑した。
「やっぱり、弱かったか」
「ええ」
エヴァは一切迷わなかった。
「今の段階では」
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は少しだけ肩をすくめた。
「そこ、もう少し濁してくれてもいいのに」
「濁しても意味がありません」
「それはそうだけど」
「でも」
エヴァは一拍置いた。
「遠山先生は、切り捨てたわけではありません」
「うん」
「ただ、“相談”として扱うには、まだ材料が弱いと判断した」
「……」
「それだけです」
「それだけ、か」
「ええ」
「でも、その“それだけ”がだいぶ重いんだよ」
「分かります」
「……」
「何ですの」
「今、分かるって言ったな」
「言いました」
「珍しい」
「あなた」
エヴァが少しだけ目を細める。
「自分が少し落ち込んでいる時くらい、自覚なさった方がいいですわ」
「……」
「今のあなた、相談したのに届かなかった、ではなく」
「……」
「届かなかった理由を整理し始めている顔です」
「……」
「そこまで来ているなら、次は同じ失敗をしないでしょう」
「……」
「その意味では、無駄ではありません」
「……」
「何ですの」
「君、やっぱりそういう支え方するんだなって」
「……褒めていますの?」
「かなり」
「……困りますわね」
「また困るんだ」
「困ります」
「最近ちゃんと認めるな」
「認めないとあなたが面倒だからです」
「そこで急に戻すなよ」
その時、教室の扉が開いた。
「ただいま」
朱音だった。
僕とエヴァの位置と空気を見て、まず一回状況を察する顔をしたのがよく分かる。そのあとで、わざと何でもないふうに近づいてくる。
「終わった?」
「何が」
僕が聞くと、
「先生への相談」
朱音はあっさり言った。
「……」
「図星」
「そこまで分かるのか」
「分かるよ」
「なんで」
「恒一くん、今ちょっと」
朱音は言葉を選ぶ。
「“ちゃんと喋ったのに、あんまり重くは受け取られなかった人”の顔してる」
「……」
「雑に言うな」
「雑じゃないよ」
朱音は首を振る。
「かなり正確」
「最近みんな、そこだけすごいな」
「必要だからね」
「便利な言葉だな」
「便利だよ」
僕は少しだけ息を吐いた。
「まあ、そんな感じ」
「先生、何て?」
「気にしすぎとは言わないけど、もう少し様子を見たい、って」
「……」
「だろうね」
朱音は驚かなかった。
「そこ、もっと驚いてくれてもよくない?」
「だって先生だし」
「先生だし、って何だよ」
「悪い人じゃないけど」
朱音は僕を見る。
「空気の話だけだと、まだ弱いってこと」
「……」
「でも、それで落ち込んでる?」
「落ち込んではない」
「うん」
「ただ」
「ただ?」
「相談って、証拠がないと相談っぽく見えないんだなって」
「……」
「そこを今、すごく思ってる」
朱音は少しだけやわらかく笑った。
「うん」
「何だよ」
「そこまでちゃんと分かったなら、次はたぶんもっと届くよ」
「……」
「今の恒一くん、失敗したって顔じゃなくて、“理由が見えた”って顔してるし」
「……」
「何」
「それ、エヴァにも似たようなこと言われた」
「でしょ?」
「でしょ、なのか」
「うん。今の恒一くん、そこが救いだもん」
「救い?」
「相談して届かなかった、で終わらないところ」
「……」
「たぶん、前より強いよ」
その言い方は、少しだけ救われた。
強いかどうかは分からない。
でも少なくとも、ただ落ち込んで終わる気にはなっていなかった。
相談した。
届かなかった。
ではなく。
相談した。
届かなかった理由が見えた。
なら次は、届く形を考えればいい。
そういう整理の方へ、もう頭が動いている。
それはたぶん、最近の僕の変化なのだろう。
窓の外は、夕方に近い光だった。
教室の中はまだ静かで、何も起きていないように見える。
でも、もう分かっている。
何も起きていないように見える時間の中で、次の準備は始まっている。
黒崎も、僕も。
ただ一つ違うのは、僕はもう“ただ嫌だった”だけでは動かないということだ。




