第34話 気になることがあったら言ってね、はだいたい遅れて言われる
気になることがあったら言ってね。
その言葉自体は、たぶん正しい。
いや、たぶんじゃない。普通に正しい。教師が生徒へ向ける言葉として、かなりまっとうだと思う。何か引っかかることがあるなら抱え込まずに話してほしい、という意味なのだから、それを間違っているとは言えない。
ただ問題は、その言葉がたいてい“少し遅れて”来ることだ。
もう何かが起きたあと。
もう空気が一度流れたあと。
もう誰かが少しだけ傷ついたあと。
そういう“あと”に来る。
そして遅れて来た善意は、ちゃんと善意ではあるのに、ときどき間に合っていない。
そのことを、僕は最近やけによく考える。
前日までの班準備の流れで、黒崎がはっきり僕を“邪魔なやつ”として見始めているのはもう分かっていた。分かっていたし、そのうえで担任の遠山先生が、全部を同じようには見ていないことも分かっている。
先生は悪い人ではない。
むしろ、かなりちゃんとしている方だと思う。
けれど、“ちゃんとしている”と“全部見えている”は、同じじゃない。
その差が、最近の僕にはひどく面倒だった。
朝のホームルーム前、教室はいつも通り少しざわついていた。
木乃実は朝から元気で、佐伯は半分眠っていて、三田村は以前よりずっと丁寧に机の上を整えている。小坂は静かに教科書を出していて、黒崎は何でもない顔で近くの男子と笑っている。
平和そうだな、と見えなくもない。
でも今の僕には、その“平和そう”の下にある微妙な傾きまで少し見えてしまう。
「神代くん」
木乃実が振り向く。
「何」
「今日、またちょっと考えすぎてる」
「最近それしか言われてない気がする」
「だってそうだし」
木乃実は悪びれない。
「しかも今日は、“先生にどう言えば伝わるんだろう”まで考えてる顔」
「……」
「図星」
「おまえ、ほんとに人の顔を勝手に字幕付きで読むの好きだな」
「最近の神代くんは読みやすいんだって」
「嬉しくない」
「でも当たってるでしょ?」
「……まあ」
「ほら」
「そこで勝ち誇るなよ」
「だって気持ちいいし」
「最悪だな」
後ろで佐伯が笑った。
「いやでも、たぶん今日の神代はそこ考えてる」
「佐伯まで言うのか」
「最近の流れ見てたらな」
佐伯は欠伸を噛み殺しながら言う。
「黒崎が先生をどう使ってるか、みたいなこと」
「使ってる、って言い方」
木乃実が少し顔をしかめる。
「でも近いかも」
「近いよな」
「……」
「神代?」
「いや」
僕は少しだけ息を吐いた。
「使ってる、はちょっと強いけど」
「うん」
「でも、“先生にどう見えるか”を前より意識してるのは確かだと思う」
「だよねえ」
木乃実は机に頬杖をついた。
「それ、ほんと面倒だなあ」
少し離れた席から、エヴァの声が届く。
「面倒で済むうちはまだ軽い方ですけれど」
「朝から重いな」
僕が返すと、エヴァは平然としていた。
「事実です」
「最近その言葉みんな好きだな」
「あなた方が乱用しているだけです」
「君もわりと使ってるだろ」
「必要な時だけです」
エヴァは視線を少しだけこちらへ向ける。
「でも、木乃実さんの言うことはそれなりに正しいですわ」
「それなり、なんだ」
「全面的に正しいと言うと調子に乗りそうなので」
「ひど」
木乃実は笑う。
「で、何が正しいの?」
「神代恒一が、今“先生にどう見えるか”まで考え始めていることです」
「……」
「違いますの?」
「違わない」
僕は認める。
「そこを考えないと、最近ちょっと足りない気がしてる」
「ええ」
エヴァは頷いた。
「ようやくそこまで来ましたのね」
「最近それよく言うな」
「最近のあなたが、少しずつそういう段階へ来ているからです」
朱音は少し遅れて教室へ入ってきた。
今日もまず僕を見て、次に三田村、最後に黒崎。もはや朝の巡回ルートが完全に固定されている。護衛向きの人間って、たぶんこういう習性なんだろうなと最近は思うようになった。思いたくはないけど。
「おはよう」
「おはよう」
「今日、先生のこと考えてるでしょ」
「……」
「図星」
「おまえも大概だな」
「だって分かるし」
朱音は僕の机の横で止まる。
「恒一くん、最近“黒崎くんが嫌”だけじゃなくて、“先生にどう見えてるか”まで気にしてる」
「うん」
「それ、ちょっとしんどいよね」
「……」
「何」
「いや」
僕は苦笑した。
「今の言い方、ちょっと優しいなって」
「優しいよ?」
「自分で言うんだ」
「たまにはね」
「そこは認めるのか」
「便利だから」
「そこへ戻るのか」
ホームルームが始まり、遠山先生がいつもの調子で連絡事項を話す。
テストの日程。提出物。来週の班発表。ごく普通の学校の話だ。教室もそれを普通に聞いている。僕も一応は普通に聞いているのだが、その“普通”の中で、先生がどれだけ教室の細かい流れを見ているのかを無意識に考えてしまっている。
疲れるな、と思う。
でも、ここを考えないとたぶん先に進めない。
ホームルームが終わったあと、先生が教室を出る前にふと僕の方を見た。
「神代くん」
少し意外だった。
「はい」
「最近、班のことちゃんと見てくれてるね」
「……」
「助かってるよ」
遠山先生はほんとうに何でもない善意の顔で言った。
「気になることがあったら、早めに言ってね」
「……はい」
「一人で抱えなくていいから」
「……」
「じゃあ、よろしくね」
先生はそれだけ言って出ていった。
あまりにもまっとうな言葉だった。
まっとうで、優しくて、たぶん本気だ。
だからこそ、僕はそのあと数秒動けなかった。
「神代くん」
木乃実が小さく呼ぶ。
「何」
「今の、どう受け取っていいか分かんない顔してた」
「そうだろうな」
「分かんない?」
「分かんなくはない」
僕は少しずつ言葉を探す。
「先生はたぶん、本当にそう思ってる」
「うん」
「でも」
「でも?」
「“気になることがあったら早めに言ってね”って」
僕は少しだけ机へ視線を落とした。
「だいたい、何かあったあとに言われるんだよな」
「……」
「しかも」
佐伯が後ろから入る。
「今までの流れで言うと、言っても“そういうこともあるよね”で済む可能性あるしな」
「そう」
木乃実が頷く。
「先生が悪いわけじゃないんだけど」
「うん」
「だから余計に難しい」
そこへ、エヴァが静かに会話へ入ってくる。
「善意ですが、万能ではありませんわ」
その言い方は、やけにしっくりきた。
「万能ではない、か」
僕が繰り返すと、エヴァは小さく頷く。
「ええ」
「先生は味方じゃないってこと?」
木乃実が聞く。
「そういう単純な話ではありません」
エヴァは答える。
「遠山先生は、たぶんかなりまっとうです」
「うん」
「でも、まっとうであることと、構造が見えていることは別です」
「……」
「今のあの言葉も、本気でしょう」
「うん」
「でも、神代恒一が引っかかっているのはそこではない」
「……」
「“早めに言ってね”と言われても、空気の問題は“気になったこと”として説明しにくい」
「……」
「しかも、少し遅れて届く」
「……」
「だから、善意ですが万能ではありませんわ」
言われて、少しだけ胸が軽くなった。
軽くなったというのも変だが、少なくとも自分の引っかかり方が言葉になった感じはした。
「君さ」
僕が言う。
「そういう整理の仕方、ほんと上手いな」
「褒めても何も出ませんわ」
「今のはかなり褒めてる」
「……」
「何だよ」
「最近、そうやって真っ直ぐ言う回数が増えていません?」
「そうか?」
「そうです」
「それ、悪いことか」
「……」
エヴァは一瞬だけ黙る。
「困ることがあります」
「困るんだ」
「困ります」
「へえ」
木乃実がにやにやする。
「エヴァさん、そこちょっと可愛い」
「木乃実さん」
「はい?」
「黙っていてくださいません?」
「無理です」
「即答ですわね」
「便利だから」
「本当にその言葉、皆さん好きですわね」
朱音は、その会話を聞きながら少しだけ肩をすくめた。
「わたし、最初から先生に期待しすぎてなかったから、あんまり驚かないかも」
「ひどい言い方だな」
僕が言うと、朱音は首を振った。
「ひどくないよ」
「そうか?」
「うん。先生が悪いって言ってるんじゃなくて」
「うん」
「先生は先生の見え方でしか見えない、ってだけ」
「……」
「だから、恒一くんが“どう見える形で言うか”を考えるのは、たぶん必要」
「……」
「何」
「おまえもだいぶちゃんと整理するようになったな」
「えー」
朱音は少し笑う。
「わたし、前からこういうとこはちゃんとしてるよ?」
「そこを自分で言うの、強いな」
「事実だし」
「便利な言葉だな」
「便利だよ」
一時間目が始まると、さすがに会話は止まる。
でも、先生の言葉は頭に残ったままだった。
気になることがあったら、早めに言ってね。
一人で抱えなくていいから。
間違っていない。
でも、そこへすぐには乗れない自分がいる。
それは先生を信用していないわけじゃない。
ただ、“何をどう言えば届くのか”がまだ分からないだけだ。
空気が悪い。
誰かが雑に下げられやすい。
黒崎がその流れを作っている気がする。
でも証拠はない。
先生の前ではむしろ親切に見えることもある。
これをそのまま言って、果たしてどこまで届くだろう。
昼休み。
木乃実がパンをかじりながら、ぽつりと言った。
「先生って、悪い人じゃないのに難しいね」
「うん」
僕は頷く。
「そこなんだよ」
「悪い人だったら分かりやすいのに」
「それはそれで嫌だけどな」
「まあそうなんだけど」
木乃実は小さくため息をついた。
「でも、今の遠山先生って“ちゃんと見たい”とは思ってるのに、“見えるもの”がちょっと遅い感じする」
「うん」
「そこがしんどい」
その言い方が、かなり正確だった。
先生は見ようとしている。
でも、届くのが少し遅い。
その少しの遅さの中で、誰かが不利益を受けている。
だから、教室の中で先に止めなきゃいけないものがある。
そこまで考えた時点で、たぶん僕はもう前の“静かなだけの高校生”ではいられないのだろう。
「神代くん」
昼休みの終わり際、三田村がまた僕の席へ来た。
「うん?」
「さっきの先生のやつ」
「……聞いてた?」
「少し」
「そっか」
「先生、いい人だよね」
「うん」
「でも、何か」
三田村は少し言葉を探した。
「言えば全部分かってもらえる感じでもない」
「……」
「それ、俺だけじゃないよね」
「うん」
僕はすぐに答えた。
「たぶん、僕もそう思ってる」
「……そっか」
「だから」
「うん」
「もし何か言うとしても、たぶん“嫌だった”だけじゃ弱い」
「……」
「順番とか、見え方とか、そういうのまで整理しないと届きにくい気がする」
「……それ」
三田村は少しだけ苦笑した。
「やっぱ神代くんっぽい」
「何が」
「“嫌だった”だけじゃ弱い、って考え方」
「……」
「でも、たぶんその通りなんだろうな」
放課後、僕は少しだけ窓の外を見ていた。
教室のざわめきはいつも通りだ。
でも、最近の僕にはそのいつも通りが少し違って見える。
先生は見ている。
でも同じものを見ているとは限らない。
だから、届く形で言わないといけない。
そのことがようやく、自分の中でちゃんと言葉になり始めていた。




