第33話 面倒になるから引く、を選ばないやつは厄介だ
面倒になるから引く。
それはたぶん、普通の判断だ。
むしろ賢い判断と言ってもいいのかもしれない。自分に火の粉が飛んできそうなら距離を取る。巻き込まれそうなら一歩下がる。そうすれば少なくとも、自分の制服は汚れないし、余計な疲れも背負わずに済む。
高校生活なんて、本来それで充分なのだろう。
誰かの問題へいちいち首を突っ込まない。
空気が悪くなりそうなら笑ってごまかす。
ちょっと変だと思っても、まあ自分に直接関係ないなら流す。
そういうのを、たぶん“うまくやる”と言うのだ。
僕もできればそうしたかった。
静かに学校へ来て。
静かに授業を受けて。
静かに友達を作って。
静かに青春して。
静かに帰る。
そういう、半径数メートルで完結する平和な日々を、たしかに最初は欲しかった。
でも最近は、その“静かに”の中へ、どうしても別のものが混ざる。
見過ごしたら、そのまま下へ落ちていく誰か。
冗談の顔をした押しつけ。
先生にだけ見せる親切。
そして、面倒になるから引いてほしいとこっちを試してくる敵意。
そういうものを一度見てしまうと、前みたいな静けさにはもう戻れない。
班発表準備の最終確認日。
その日は最初から、空気が少しだけ硬かった。
木乃実は朝からやたら明るい。こういう時の彼女は、たぶん意識して明るくしている。小坂はいつもより少し声が小さい。三田村は逆に、前よりはっきり僕の方を見るようになった。頼る、というほどではない。でも“こっちを見れば少しは大丈夫かもしれない”くらいの信号は、もう隠していない。
黒崎は、笑っていた。
笑っている。
でも、その笑顔の奥にあるものを、もう今の僕は見間違えない。
こいつは次、どこで僕を“引かせる”かを考えている。
「神代くん」
朝のホームルーム前、木乃実が言った。
「何」
「今日、たぶん来るね」
「何が」
「黒崎くんの“そろそろ神代くんの方がうざくない?”空気」
「その言い方、だいぶ嫌だな」
「嫌だよ」
木乃実は即答する。
「でも昨日までの流れで考えると、次そこかなって」
「……」
「神代」
後ろから佐伯が入る。
「たぶん今日は“細かい”から一段進むぞ」
「一段?」
「“面倒だからもう外れれば?”の方」
「……」
「何だその顔」
「いや」
僕は小さく息を吐いた。
「最近、みんな予測の精度が上がりすぎてない?」
「神代の周りにいると嫌でもな」
「嬉しくない学習だな」
「でも必要そうだし」
「そこなんだよな」
少し離れた席から、エヴァの声が届いた。
「予測ではなく、ほとんど観察結果でしょうね」
「便利な言葉だな」
僕が返すと、
「あなた方が乱用しているだけです」
とエヴァは言った。
「でも今のはかなりそうですわ」
「何が」
「次の手です」
エヴァは淡々としている。
「あなたを“正しいけれど扱いにくい側”へ置くより、もう一歩進めて“面倒だから外れてほしい側”へ寄せる」
「……」
「そうすると」
彼女は小さく目を細めた。
「あなた自身が、引く理由を与えられる」
「……」
「嫌な言い方だな」
「ええ」
エヴァはあっさり認めた。
「でも正確です」
朱音は、その会話を聞いて少しだけ笑った。
「今日のエヴァさん、かなりちゃんと嫌だね」
「何ですの、その言い方は」
「いや、わたしも同じこと思ってたから」
朱音は僕を見る。
「恒一くん」
「何」
「今日、“面倒だからもうやめれば?”って言われても、そこですぐ乗らないでね」
「乗るように見える?」
「半分くらいは」
「半分か」
「だって、自分が狙われるとちゃんとしんどいでしょ」
「……」
「図星」
「図星だけど、それ本人に言うなよ」
「でも大事だし」
「便利な言葉だな」
「便利だよ」
朱音はにこっとした。
「最近みんな使うし」
「その流行、ほんと良くないな」
六時間目。
発表準備の最終確認の時間。
各班が前半の流れ、読む順番、資料の確認をしている。教室はいつもよりざわついていた。真面目にやっている班もあれば、半分雑談みたいになっている班もある。遠山先生は教室の前の方で全体を見ていて、ときどき近くの班に声をかける。
僕たちの班も、一応ちゃんと進んでいた。
「じゃあ、導入は木乃実」
「うん」
「そのあと小坂さんが資料の前半」
「うん」
「で、三田村が補足の一言」
「うん」
「最後に僕が全体の締め」
「そこ」
木乃実が言う。
「締め、神代くんじゃなくて私でもよくない?」
「いいけど」
「いや、“いいけど”じゃなくて」
木乃実は笑う。
「最近神代くん、全部最後に責任持つ配置にしがちなんだよ」
「そうか?」
「そうだよ」
小坂も小さく頷く。
「少しだけ」
「……」
「神代くん、たぶん無意識でやってる」
三田村まで言う。
「うわ」
僕は思わず苦笑した。
「そこ、全員で刺してくるんだ」
「刺してるわけじゃないって」
木乃実が笑う。
「でも最近ほんと、全部ちゃんとしようとしすぎ」
「……」
「何その顔」
「いや」
僕は少しだけ肩をすくめる。
「たぶんその通りかも」
「でしょ?」
「でも」
「でも?」
「そうしないと、最近ちょっと嫌なんだよ」
「……」
「空気でどっか雑になるの」
その瞬間だった。
「ほら」
黒崎の声が、後ろから入った。
ああ、来たなと思う。
「何が」
木乃実が振り返る。
「神代、やっぱそういうとこじゃん」
黒崎は笑っていた。
「全部ちゃんとしないと嫌なんだろ?」
「……」
「で、そうやって班の流れまで握りたがる」
「握りたがる、は違うだろ」
僕が言うと、黒崎は肩をすくめた。
「違う?」
「違う」
「でも最近、神代いないと進まない感じになってね?」
「……」
「それ、逆に面倒じゃん」
「……」
「何ならもう、神代ちょっと外れれば?」
黒崎は軽く言った。
「そしたらみんなもっと楽なんじゃね?」
教室の一角だけ、ぴたりと空気が止まった。
やっぱりそこへ来た。
面倒だから外れればいい。
正しさより、空気の軽さを選べ。
関わるから疲れるんだ。
引けば楽になる。
そういう方向だ。
しかもそれを、軽口の顔で言う。
“提案です”みたいな顔で言う。
「……」
僕は一瞬だけ黙った。
正直に言えば、少しだけ刺さった。
刺さるに決まっている。
自分でも最近、ちゃんとしようとしすぎている自覚はある。三田村が困らないように、小坂がやりづらくないように、木乃実が流れを掴みやすいように。そういうことを一つずつ見始めたら、たしかに前より疲れる。
だから、“面倒なら外れれば?”は、完全な外れではない。
外れではないからこそ、嫌だった。
だが、ここで黙るのはもっと嫌だと、今の僕はもう知っている。
「……分かるよ」
僕がそう言うと、黒崎が少しだけ目を細めた。
たぶん予想と違ったのだろう。
「は?」
「面倒になる、って話」
僕は静かに続けた。
「それは分かる」
「……」
「最近、前より疲れる」
「……」
「でも」
僕は黒崎を見る。
「俺を面倒なやつに見せたいのは、もう分かる」
「……何だよそれ」
「だってそうだろ」
僕は淡々と言った。
「確認したら細かい」
「……」
「止めたら仕切りたがり」
「……」
「困ってるやつを放っとけないと、全部背負え」
「……」
「で、最後は“面倒なら外れれば?”」
「……」
「そこまで綺麗に並んでると、さすがに分かる」
空気が、また少し変わる。
木乃実が息を止める。
三田村は目を丸くしている。
小坂は不安そうだけど、目を逸らしていない。
少し離れた位置で、エヴァがほんのわずかに表情を和らげたのが見えた。
朱音は、今にも笑いそうな顔をしている。たぶん誇らしいのだろう。少し腹立たしいくらいに。
「何言ってんの」
黒崎が笑う。
笑うのだが、前よりずっと薄い。
「考えすぎだろ」
「そうかもな」
僕は頷いた。
「でも、そうやって言えば済むと思ってるのも分かる」
「……」
「面倒になるから黙る、を待ってるなら、それは違う」
「……何が違うんだよ」
「そうやって誰かが引いたら」
僕は机の上のメモを軽く押さえた。
「おまえが一番やりやすくなるだけだろ」
「……」
「確認するけど」
僕は少しだけ首を傾ける。
「班の準備をちゃんと進めたいだけで、何が困る?」
「……」
「誰かが分からないまま押しつけられたり、雑に決まったことにされるのを減らしたいだけで、何が困る?」
「……」
「それ、面倒なのか?」
「……」
「それとも」
僕は一拍置いた。
「おまえにとっては、そこを曖昧にできない方が困るのか?」
黒崎の笑顔が、今度はかなりはっきり崩れた。
ほんの一瞬だけ。
でも、その一瞬で十分だった。
木乃実が、小さく息を吐く。
「……うわ」
「木乃実」
僕が言うと、
「ごめん」
と彼女はすぐ言った。
「でも今の、ちょっとすごかった」
「どこが」
「そこまで言うんだってとこ」
「……」
「しかも」
佐伯が別の班から割って入る。
「今の、普通に正しかったし」
「……」
「黒崎」
佐伯は珍しく真面目な声だった。
「さすがに今の“外れれば?”は雑すぎる」
「は?」
「だって班の確認してるだけじゃん」
「……」
「それを“仕切ってるから外れろ”にするの、もうだいぶ意味分かんないって」
そこで、三田村が口を開いた。
「俺も」
「……」
「神代くんがいなくなると、たぶん困る」
「……」
「何で?」
黒崎が聞き返す。
「だって」
三田村は少しだけ息を吸ってから言った。
「最近、誰かが先に“それ違う”って言ってくれないと、そのまま流れることあるし」
「……」
「神代くん、そこ止めてくれてるから」
「……」
「だから、面倒になるから外れろ、は違う」
それはたぶん、今の三田村が出せる最大級の言葉だった。
前のあいつなら、そこまで言えなかったかもしれない。
でも今は言った。
そのことが、何より大きかった。
黒崎は周囲を見た。
木乃実。
小坂。
三田村。
少し離れた位置の佐伯。
そして、何でもない顔で見ているエヴァと、笑っていない朱音。
教室の空気が、もう簡単には黒崎の方へ寄らないと分かったのだろう。
「……はいはい」
黒崎は肩をすくめた。
「分かったよ」
「分かってない顔してる」
木乃実が言う。
「そこ、本人に言うんだ」
「言うよ」
「強いな」
「最近ちょっとだけ」
木乃実は苦笑した。
「神代くんのせいで」
「それ、僕のせいにするなよ」
「半分くらいは」
「また半分か」
その時、遠山先生がこちらへ来た。
「どう? 準備進んでる?」
先生はごく普通の笑顔だった。
「さっき少し声大きかったけど、大丈夫?」
ここで黒崎が先に何かを言うかもしれない、と思った。
だが、今日の僕はそれを待たなかった。
「大丈夫です」
僕が先に言う。
「今、役割の確認してました」
「うん」
「で、少し言い方の行き違いがあっただけです」
「そっか」
先生は頷く。
「じゃあ、押しつけみたいにならないようにね」
「はい」
「そのへん、ちゃんと話して決めて」
先生はそれで去っていく。
全部が見えているわけではない。
でも、今はそれで十分だった。
少なくとも、“神代がうるさい”だけの図にはならなかったからだ。
「……もう戻らないところまで来ましたわね」
先生が離れたあと、エヴァが静かに言う。
「何が」
僕が聞くと、エヴァはわずかに目を細めた。
「あなたです」
「僕?」
「ええ」
「どういう意味」
「面倒になるから引く、を選ばなかった」
「……」
「それは、もう前の静かなだけのあなたではありません」
「その言い方、少しだけ重いな」
「重いですもの」
エヴァはあっさり言った。
「でも」
「でも?」
「嫌いではありません」
「……」
「何ですの」
「今の、たぶんわりとすごいこと言ったぞ」
「気のせいです」
「いや」
「気のせいです」
「押し切るなあ」
「必要なので」
朱音は、その会話を聞いて少しだけ笑った。
「うん」
「何」
「今の恒一くん、ちょっと好き」
「またそれ言うのか」
「だって本当だし」
「そこ、毎回真顔で言うなよ」
「でも今日のは特に」
朱音は僕を見る。
「面倒になるから引く、を選ばないのって、かっこいいよ」
「……」
「ただし」
「ただし?」
「無茶はしないで」
「……」
「そこはちゃんと守って」
「……分かった」
「うん」
朱音は満足そうに頷く。
「それならいい」
その日の帰り際、黒崎は最後に一言だけ置いていった。
別の男子と話している流れの中で、わざとらしくない声量で。
「先生って、神代みたいなやつどこまで好きなんだろうな」
その言葉は、たぶんこっちにも聞かせるためのものだった。
先生。
好き。
神代みたいなやつ。
つまり次は、そこへ触れてくるのだろう。
教師からどう見えるか。
学校の中で、僕がどう扱われるか。
そのあたりまで、黒崎は次の材料にし始めている。
僕はその背中を見ながら、小さく息を吐いた。
正しさの代償は、だいたい先に請求される。
面倒ごととして。
うるさいやつとして。
扱いづらいやつとして。
でも、それが来るのを分かっていても、引かないと決めたのはたぶん僕自身だ。
なら次は、もう少しだけちゃんと見なければならない。
教室だけじゃなく、先生の見え方まで含めて。




