第22話 優しい顔で庇う先生は、ときどき少し遅い
人を困らせるやつには、だいたい二種類いる。
最初から困らせるつもりで困らせるやつと、困らせたあとで「そんなつもりじゃなかった」と言うやつだ。
後者の方が面倒だ。
前者は、まだ分かりやすい。敵だと認識できるし、こっちも腹を括りやすい。ところが後者は違う。本人が本気でそう思っている場合すらある。悪意があるのかないのか曖昧なまま、でも結果だけはちゃんと人を追い詰める。
しかも厄介なことに、教師という職業の人間は、その後者に少し弱い。
悪意が見えないものを、悪意として扱いにくいからだ。
そのことを、今日の僕は朝から妙に意識していた。
昨日の一件が、まだ頭に残っている。
三田村の答案の名前欄。
黒崎の“またか”という軽い一言。
先生の、悪気なく流した“次から気をつけてね”。
そして、その全部を飲み込むみたいに小さくなった三田村の「はい」。
ああいうのを見てしまうと、翌朝の教室は少しだけ違って見える。
平和に見える。
いつも通りに見える。
でも、“いつも通り”の中にどこまでが本当にただの学校生活で、どこからが誰かにとっての小さな圧なのか、少し気にしてしまう。
そういう自分が、少しだけ嫌だ。
でも、気づいてしまったものは仕方がない。
「神代くん」
朝のホームルーム前、木乃実が振り向いた。
「何」
「今日の顔、昨日よりやや深刻」
「やめてくれ」
「自覚あるんだ」
「最近、そういうの指摘される回数が多すぎる」
「神代くんが分かりやすすぎるんだって」
「その評価、もう少し曖昧にならない?」
「無理」
木乃実はきっぱり言う。
「だって今、“何も起きませんように”って顔してるし」
「……」
「図星」
「図星だけど、言語化しないでほしい」
「でもそうでしょ?」
「そうだよ」
僕はため息をついた。
「静かな日が欲しい」
「その願い、最近ずっと言ってるね」
「切実だからな」
「でも神代くんの周り、もうだいぶ静かじゃないよ?」
「それを朝から確認しないでくれる?」
後ろで佐伯が笑っていた。
「いやでも、分かるわ」
「何が」
「今日は何もないといいな、って空気」
「そう見える?」
「見える見える。昨日ので終わってない感じあるし」
「……」
「神代」
「何」
「たぶんそれ、おまえだけじゃなくて、みんなちょっと思ってる」
その“みんな”が、どこまでの“みんな”なのかは分からない。けれど少なくとも木乃実と佐伯がそう言うなら、僕ひとりの過剰反応ではないのだろう。
少しだけ救われる。
でも、少しだけ救われる程度で済む話では、たぶんない。
「おはようございます」
少し離れた席から、エヴァの声が届く。
「おはよう」
「今日も無駄に覚悟を決めた顔ですわね」
「朝の挨拶がそれなの?」
「観察結果です」
「最近そればっかりだな」
「便利ですもの」
「君まで言うのか」
「わたくしの方が先です」
「そこで先後関係が発生するんだ」
「重要です」
「何に対して」
「気分に対してです」
朱音は少し遅れて教室へ入ってきた。
そのまま当然みたいな顔で僕の机の近くへ来る。来るのだが、前みたいにぴたりと横に立つわけではない。最近は少しだけその辺の調整を覚えたらしい。覚えたうえで、なお近い。そこがこの人の怖いところである。
「おはよ」
「おはよう」
「今日、また考えすぎてるでしょ」
「みんな同じこと言うな」
「だってそうだし」
朱音は僕の顔を見てから、少し声を落とした。
「三田村くん、今日はたぶんこっち見る回数増えるよ」
「え」
「なんとなく」
「その“なんとなく”で未来予測しないでくれる?」
「でも当たること多いよ?」
「そこが嫌なんだよ」
その時、教室の前の方で少しざわつきが起きた。
黒崎だ。
いや、黒崎が騒いでいるわけじゃない。むしろ逆に、妙に親切そうな顔をして三田村へ話しかけている。
「だから、今日の係のやつ先に出しといた方がいいって」
「え、でもまだ確認が」
「確認なんかあとでいいだろ。先生、朝のうちに持ってこいって言ってたじゃん」
「そこまでは言ってなかったと思うけど」
「言ってたって。なあ?」
黒崎が近くの男子へ振る。
振られた方は少し困った顔をしたが、すぐに「たぶんそんな感じじゃなかった?」と曖昧に返した。
そう。
こういうのだ。
誰か一人では押しきれない時に、空気の中からもう一人“たぶんそうだったかも”を拾う。すると急に話がもっともらしくなる。黒崎はそこがうまい。
三田村は露骨に迷っていた。
分からないのだ。自分の記憶が合っているのか、黒崎の言い分が合っているのか。しかも周囲には何人か見ている。こういう時、人はだいたい“強く言い切る方”へ引っ張られる。
強く言う方が、正しく見えるからだ。
「先生、言ってたっけ」
僕が小さく呟くと、
「言っていませんわ」
とエヴァが即答した。
「覚えてるのか」
「ええ」
「すごいな」
「あなたが曖昧すぎるだけです」
「そこまで言う?」
「言います」
朱音はもう三田村と黒崎の方を見ていた。
「まただね」
「うん」
「今日は“親切”の顔してる」
「嫌な言い方だな」
「でも本当」
朱音は静かに言う。
「今の方が止めづらいよ」
「……」
「“手伝ってあげてるだけだろ”で逃げられるから」
嫌なほど、その通りだった。
しかも、そこで教師が入ってきた。
遠山先生だ。
「はーい、おはよう。……あれ、どうしたの?」
先生が前方の空気に気づく。
「黒崎くん、三田村くん、何かあった?」
黒崎は、その瞬間に笑顔の質を変えた。
「あ、先生。三田村が係の確認用紙、まだ持ってて」
「うん」
「だから先に出しといた方がいいんじゃない?って言ってたんです」
「へえ」
先生は三田村の方を見る。
「まだ持ってたの?」
「え、あ、その」
「だったら早めに持っていった方がいいかもねー」
先生は悪気なく言う。
「忘れちゃうとまた大変だし」
「……はい」
はい、で終わってしまう。
先生は庇ったつもりなのかもしれない。あるいは本当に、何でもない確認のつもりだったのかもしれない。
でも結果としては、黒崎の作った流れへ乗っただけだ。
黒崎は親切な側。
三田村は少し頼りない側。
そして先生は、その構図をそのまま受け取って、少しだけ押した。
悪意はない。
ないから余計に質が悪い。
「……優しい顔で庇う先生ってさ」
木乃実が前を向いたまま小さく言う。
「うん」
「たまに遅いよね」
「……」
僕は一瞬だけ息を止めた。
「それ、かなり正確だな」
「自分で言っといてちょっと嫌だけど」
木乃実は苦笑する。
「今の先生、別に黒崎くんの味方したかったわけじゃないと思う」
「してないと思う」
佐伯も頷く。
「でも結果的に、黒崎の“手伝ってます”に乗っちゃった」
「うん」
「そういうのが一番面倒」
面倒。
最近、本当にその言葉ばかりが増えた気がする。
でも仕方がない。面倒だからだ。小さいのに、しかも一つ一つは軽く見えるのに、放っておくと確実に嫌な方向へ広がる。雑草みたいな悪意である。引っこ抜いても、根が残る。
「神代くん」
三田村がこちらをちらっと見た。
声を出したわけじゃない。出していないけれど、“何か言ってほしい”の一歩手前みたいな目だった。たぶん本人もそこまでは自覚していない。でも、こっちを見る回数だけは確実に増えている。
それが少し重い。
でも、無視していいほど軽くもない。
「あなた」
エヴァがまた静かに言った。
「何」
「今のは、かなり分かりやすいですわよ」
「何が」
「“先生が少し甘い”と思っている顔です」
「また顔か」
「またです」
「……そう思ったよ」
「ええ」
エヴァは迷わなかった。
「わたくしもそう思いました」
「そこ、即答なんだ」
「今のは、教師の善意が黒崎のやり方と噛み合ってしまった形です」
「……」
「だから厄介なんです」
「君、そういう整理の仕方ほんと上手いな」
「褒めていますの?」
「今のはかなり」
「……」
「また黙る」
「受け取り方に困っています」
「そこ困るんだ」
「困ります」
「意外とそういうとこあるよね」
「あなたにだけは言われたくありません」
午前中の授業は、やけに長く感じた。
何か大きなことが起きるわけじゃない。
でも小さな嫌なことが何度か起きて、そのたびに黒崎の顔と、先生の対応と、三田村の反応が気にかかる。すると時間の流れが妙に粘つく。
四時間目の終わり、先生が出ていったあとで、三田村がようやく僕の席へ来た。
「神代くん」
「うん」
「さっきの」
「うん」
「俺、やっぱ出した方がよかったのかな」
「……」
「黒崎くんも先生もそう言ってたし」
「三田村」
「何」
「それ、先生と黒崎が同じ重さで並んでる時点で、たぶんもう少し変だと思っていい」
「え」
「先生はたぶん、忘れ物を避けたいだけだ」
「うん」
「黒崎は、そういう“先に出した方がいいよ”って親切っぽい言い方で、急かしてる」
「……」
「今の二つは似てるようで違う」
三田村は少し黙る。
「違うのかな」
「違う」
「でも、俺ちょっと自信ない」
「それは分かる」
僕は正直に言った。
「分かるけど、だからって全部“やっぱ俺が悪かったかも”へ寄せるのも違う」
「……」
「今のクラス、それが起きやすくなってるから」
「起きやすい?」
「うん」
「何で」
「黒崎みたいなやつが、そういう空気作るの上手いから」
三田村はそれを聞いて、少しだけ笑った。
「神代くんって、ほんとちゃんと言うよね」
「最近、必要な気がしてる」
「前から?」
「前はもう少し黙ってた」
「今は?」
「今は、たぶん黙る方が面倒」
「……」
「静かにしたいのに?」
「そこを突くなよ」
「いや、ちょっとだけ思ったから」
「思うなとは言わないけど、本人の前で整理しないでくれ」
そこへ木乃実が近づいてくる。
「神代くん、また相談窓口してる」
「相談窓口って言うな」
「でもしてるじゃん」
「してるかもしれないけど」
「いいことじゃん」
「良いことかどうか、まだ分からない」
「でも」
木乃実は三田村を見る。
「少なくとも、今のクラスで“話しかけて大丈夫な人”ってかなり大事だと思う」
「……」
「先生がちょっと遅い時、なおさら」
「その言い方、だいぶ刺さるな」
「自分でもそう思う」
木乃実は苦笑する。
「でも、さっきの先生、悪い先生じゃないんだよ」
「分かってる」
「うん。分かってるけど」
「その“けど”が大事なんだよな」
「うん」
木乃実は頷いた。
「悪い先生じゃないのに、結果的に悪い流れに乗ることあるんだなって、ちょっと思った」
その言葉に、教室の空気が少しだけ止まった。
たぶん、みんな同じことを感じている。
でも、それを言葉にするのがまだ少しだけ怖い。
先生という存在へ“そこ、少し違ったんじゃないか”を向けるのは、高校生にとって案外勇気がいる。
だからこそ、今みたいな会話の温度が必要なのかもしれない。
放課後。
教室の中にはまたしても、何も起きていない顔をした平和があった。
だが、その平和の中を黒崎が通ると、空気のどこかが少しだけざらつく。もうそうなっている。露骨ではない。でも確実だ。
帰り支度をしながら、黒崎がこちらを見る。
「神代」
「何」
「最近さ」
「うん」
「先生より先生みたいだよな」
「……」
「そこ褒めてる?」
木乃実がすぐに口を挟む。
「どうだろ」
黒崎は笑う。
「人によるんじゃね?」
「便利な逃げ方だな」
僕が言うと、黒崎は肩をすくめた。
「おまえ最近、ほんとそういう返し増えたよな」
「そうかな」
「うん。前より面倒」
「それも人によるんじゃないか」
「……」
黒崎の笑顔が、一瞬だけ薄くなる。
でもすぐに戻る。
「気をつけろよ」
「何を」
「先生って、真面目すぎるやつあんま好きじゃない時あるし」
「……」
今のは、前より少しはっきりしていた。
ただの軽口ではない。
しかも、先生の名前を出した。
そこへエヴァが静かに言う。
「ずいぶん、上手に脅しますのね」
黒崎がそちらを見る。
「は?」
「聞こえた通りです」
「脅してねえよ」
「そうですか」
エヴァは淡々としていた。
「では、あまりにも感じが悪いだけですわね」
「……」
黒崎は数秒だけ黙って、それから小さく笑う。
「神代の周りって、ほんと面倒なのばっかだな」
「おまえにだけは言われたくない」
僕が返すと、黒崎は今度こそ笑顔を崩さずに教室を出ていった。
去ったあと、朱音がぽつりと言う。
「今の、だいぶ見えてきたね」
「何が」
僕が聞くと、
「黒崎くんのやり方」
と朱音は答えた。
「それと、先生の遅れ方」
「……」
「だから、次はたぶんもう少しはっきり来るよ」
「嫌な予言だな」
「予言じゃないよ」
朱音は僕を見る。
「見えてるだけ」
見えてる。
その言い方が、今日は妙にしっくりきた。
証拠がないと強いやつは、だいたいそう言う。
気にしすぎ。
考えすぎ。
悪く取るなよ。
そんなつもりじゃない。
でも、その言葉の積み重なり方自体が、もう一つの証拠みたいなものなのかもしれない。
次はたぶん、もう少しだけ形になる。
そして形になった時、僕はたぶん、前みたいにただ見ているだけでは済まない。




