第23話 優しさのふりをした押しつけは、だいたい記憶が曖昧だ
人に何かを押しつけるやつほど、「手伝ってやった」と言いたがる。
これはたぶん、ほとんど法則みたいなものだと思う。
頼まれてもいないのに世話を焼いて、相手が困った顔をしたら「せっかく助けてやったのに」と言う。勝手に話を進めておいて、うまくいかなければ「いや、おまえもいいって言ってたじゃん」と言う。
つまり、押しつける側にとって大事なのは事実じゃない。
“そういうことにした記憶”なのだ。
そして黒崎蓮司は、その“記憶の作り方”がうまい。
うまいというか、嫌な方向へ器用すぎる。
その日、五時間目は現代文だった。
内容そのものは平和だった。先生は穏やかだし、当てられてもそこまで詰めてこないし、教科書の文章も今の僕にとってはまだ世界を滅ぼすほど難解ではない。少なくとも数学よりは心が平穏でいられる。
だから油断していた、と言ってもいい。
教室の前の黒板に、先生が次の授業で使う資料について話し始めるまでは。
「来週、班ごとに短い発表をやるからね。今日はその準備として、各班で配る資料を一枚ずつ持って帰って、読み込んできてください」
配布資料。
嫌な響きではない。むしろ学校としてはごく普通だ。
だが今のA組において、“配る”“持って帰る”“ちゃんと管理する”の三拍子が揃うと、どうしても僕の中で警戒レベルが少しだけ上がる。
先生が班ごとに紙を配り始める。
席替え後の並びの関係で、班のメンバーも多少変わっていた。僕、木乃実、三田村、それからもう一人、大人しめの女子――名前は確か小坂だったはずだ。悪くない班だと思う。少なくとも、誰かが仕切り散らして空気を支配するタイプのメンバーではない。
問題があるとすれば、その班のすぐ近くに黒崎がいることくらいだ。
「じゃあこれ、班で一枚なー」
先生が僕たちの机へ資料を置いた。
「神代くんの班、誰が持ってく?」
「……」
こういう時、たいてい数秒の静寂が生まれる。
みんな持って帰れないわけじゃない。むしろ持って帰れる。けれど、“自分がやるよ”と言うほど積極的でもない。その数秒の間に誰かが動けば決まるし、動かなければ妙に気まずい空気になる。
僕が口を開きかけた、その時だった。
「三田村がいいんじゃね?」
横から黒崎の声が滑り込んできた。
やっぱりな、と思う。
こいつはこういう一拍の間が好きだ。空いた瞬間に勝手に入ってきて、決まっていないことを“決まった感じ”へ持っていく。
「三田村、前も資料系気にしてたし。そういうの向いてそうじゃん」
言い方だけなら好意的だ。
向いてそう。気にしてた。ちゃんとしてそう。
だが、その“ちゃんとしてそう”は、最近の三田村にとってだいぶ重い。名前を書き忘れたことにされたり、プリントをなくしたことにされたりした直後に、“じゃあおまえが管理役な”と振られるのは、親切ではない。ただ責任だけ増やしている。
「え、俺?」
三田村が目を瞬かせる。
「いや、でも」
「でも何?」
黒崎は笑う。
「こういうの、神代だと逆に心配しすぎて空回りしそうだし」
「それはどういう意味だ」
僕が言うと、
「褒めてるんだよ」
黒崎が返す。
「真面目すぎるって意味で」
「褒めてないだろ」
「いや褒めてるって」
木乃実が机の下で、小さく舌打ちしそうな顔をした。
でも分かる。
そのくらいの顔にはなる。
「三田村くんが嫌じゃなければ、でもいいと思うけど」
小坂が遠慮がちに言う。
「嫌なら別の人でも」
「いや」
三田村はすぐに首を振った。
「大丈夫。持ってく」
「ほら」
黒崎が軽く肩をすくめる。
「本人もそう言ってるし」
「……」
“本人もそう言ってる”。
最近それを何回聞いただろう。
いや、三田村が本当に嫌だと言えればいい。言えればそれで話は済む。だがそう言えないタイプの人間に、言えない空気で、軽い親切の顔をして何かを渡すから問題なのだ。
先生はそこで特に何も言わなかった。
話がまとまったと思ったのだろう。それ自体は間違っていない。表面だけ見れば、たしかにまとまったのだから。
「じゃ、よろしくね」
先生はそう言って次の班へ行った。
その一言が、今日はいちいち重い。
「神代くん」
授業の終わり際、木乃実が小声で言った。
「何」
「今の、嫌だった」
「うん」
「だよね」
「だいぶ」
僕が答えると、
「よかった」
と木乃実は言った。
「いや、よかったって言い方変じゃない?」
「変だけど」
木乃実は小さくため息をつく。
「私だけが嫌だなって思ってるんじゃないって分かると、ちょっとだけ楽」
「……」
「こういうの、前まで“黒崎くんってちょっと感じ悪いよね”で済んでたけど、最近ほんとに嫌さの方向が見えてきた」
「見えてきたね」
「でも先生はたぶん分かってない」
「うん」
「そこがまたいや」
「分かる」
佐伯も後ろから言う。
「先生からすると、班の中で自主的に決まっただけに見えるしな」
「見えるだろうね」
「でも実際は、空いた瞬間に黒崎が勝手に流れ作っただけ」
「そう」
木乃実が頷く。
「で、ああいうのって本人が“いいよ”って言っちゃうと、もう言い返しにくいんだよね」
「……」
その通りだ。
問題は、そこだ。
押しつける瞬間よりも、“本人が引き受けた形”に見えるところの方がよほど厄介だ。
「あなた」
少し離れた席から、やはり必要な時だけ声が飛んでくる。
エヴァだ。
「何」
「今の、かなり不快そうでしたわね」
「言わなくても分かるだろ」
「分かるから言っているのです」
「最近それ理屈として強すぎない?」
「事実はいつだって強いですもの」
「便利だな」
「あなた方が何でも“便利”で片づけすぎなんですの」
エヴァはそう言ってから、少しだけ三田村の方を見た。
彼は配られた資料をクリアファイルに入れていた。入れながら、その手つきがやや慎重すぎる。失敗しないようにしている人間の動きだ。
「また、“本人が引き受けた形”になりましたわね」
エヴァが言う。
「……」
「嫌な言い方だな」
「でも正確でしょう」
「正確だよ」
僕は認める。
「認めたくないけど」
「認めたくないものほど、だいたい正確です」
「今の、名言っぽく言ってるけど性格は悪いからな」
「あなたに言われたくありません」
放課後、予想通り小さな事件は起きた。
というか、起きるべくして起きた。
部活見学へ行くやつ、帰るやつ、寄り道の話をしているやつ。そんな中で、三田村が鞄を開けて固まった。
「……あれ?」
その一言で、僕はもう嫌な予感しかしなかった。
「どうした?」
僕が声をかけると、三田村は青い顔でこっちを見る。
「資料」
「うん」
「ない」
「……」
教室の空気が、ほんの少しだけ止まる。
またか、という空気が動く前に、僕は先に立ち上がっていた。
「最後に見たのは?」
「えっと、五時間目の最後にファイルに入れて」
「うん」
「そのあと机の中に入れた」
「今は?」
「ない」
黒崎の笑い声が、すぐ近くで聞こえた。
「三田村、それ逆に才能だろ」
「……」
「一日でなくす?」
「黒崎」
僕が先に名前を呼ぶと、向こうは少しだけ肩をすくめた。
「何」
「まだなくしたって決まってない」
「いや、でも今ないんだろ?」
「だから探すんだよ」
「こわ」
黒崎が笑う。
「最近、おまえほんとピリついてんな」
「そう見える?」
「見えるよ」
「それ、おまえがそう見せたいだけじゃないのか」
「は?」
「最近ずっとそうだろ」
「……」
「“神代って正義感強いよな”とか、“また何か言われそう”とか」
「冗談じゃん」
「そうやって笑うよな」
僕は静かに言った。
「証拠がないと強いやつって、だいたいそう言う」
「……」
「気にしすぎ。冗談。考えすぎ。そんなつもりじゃない」
「何だよそれ」
「今の話」
「……」
周囲が、また静かになっていく。
前みたいに木乃実や佐伯がすぐ声を出すわけではない。むしろ今は、みんな僕と黒崎の言葉の温度を測っている感じだった。
その中で、朱音が静かに僕の斜め後ろへ立つ。
何も言わない。
でも、“必要なら動ける位置にいます”みたいな立ち方をする。そういうところが護衛っぽいし、幼馴染としてはちょっと重い。
「とりあえず」
僕は三田村に向き直る。
「机の中とロッカー、もう一回見よう」
「う、うん」
「あと、五時間目のあと誰が近くにいたか」
「……」
「思い出せる範囲でいい」
「……」
「今は“また三田村がやった”にしない方が先だ」
「……ありがとう」
三田村がそう言った時、黒崎が少しだけ鼻で笑ったのが聞こえた。
その音が、やけに耳についた。
探し始めると、木乃実も佐伯も自然に手伝った。
小坂まで「このへん見ます」と言ってくれた。そういうのが少しだけ救いだった。前なら“また三田村かも”で流れていた空気が、今日は少し違う。
全員ではない。
でも何人かは、もう簡単にはそっちへ流れない。
その違いは、たぶん小さくない。
「神代くん」
木乃実が、机の下を覗き込みながら小声で言う。
「何」
「今の、だいぶ言ったね」
「何を」
「証拠がないと強いやつはだいたいそう言う、ってやつ」
「……言いすぎた?」
「いや」
木乃実は顔を上げた。
「正直、ちょっとすっきりした」
「すっきりするんだ」
「するよ。だって最近ずっとそんな感じだったし」
「……」
「でも」
「でも?」
「ここから先は、ほんと証拠ほしいね」
「うん」
「ないとまた“神代くんがピリついてるだけ”にされる」
「そこなんだよな」
その会話に、エヴァが近づいてくる。
「やっと、同じ言葉を使うようになりましたわね」
「何が」
「証拠です」
「……」
「わたくしが何度か言ったでしょう」
「言ってた」
「その時はあまり納得していない顔をしていたのに」
「してたかも」
「していました」
「言い切るなあ」
「でも、今は必要だと思っている」
「……」
「それは少しだけ進歩ですわ」
「褒めてる?」
「ほんの少し」
「ほんの少しか」
「調子に乗られると困りますから」
「その管理、細かいな」
「当然です」
結局、その日のうちには資料は見つからなかった。
先生に言えば再配布はされるだろう。そこは問題じゃない。
問題じゃないのだが、問題じゃないからこそ腹が立つ。
毎回同じだ。
大ごとではない。
命に関わるわけでもない。
取り返しがつかないわけでもない。
だから、軽く見られる。
でも、軽い顔をして誰か一人へだけ繰り返されると、それはちゃんと効いてくる。三田村の顔を見ていれば分かる。今日の彼は、困っているというより、もうだいぶ自分を疑い始めていた。
そこが、いちばんまずい。
「……神代」
帰り際、黒崎がまた声をかけてきた。
最近のこいつは本当に、毎回一言残していくなと思う。癖なのか、牽制なのか、その両方か。
「何」
「そんなに三田村のこと気にするならさ」
「うん」
「おまえが預かっとけば?」
「……」
「その方が安心だろ?」
黒崎は笑った。
「正義感強いし」
その言葉に、僕は少しだけ目を細めた。
ああ、これだ。
こうやってまた、“面倒を見る側”へ僕を押し込もうとする。三田村を困らせるだけじゃなく、今度は僕の立ち位置まで雑に固定しようとしている。
つまり、次はもう少しはっきり絡めてくるつもりなのだろう。
「それ」
僕は静かに言った。
「善意の顔してるけど、だいぶ感じ悪いな」
「は?」
「今の」
「別に普通の提案だけど」
「そうやって言えば、だいたい済むと思ってるだろ」
「気にしすぎ」
「そうやってまた言う」
「……」
一瞬だけ、黒崎の笑みが薄くなる。
でもすぐに戻る。
戻るところが、やっぱり面倒だ。
「気をつけろよ」
黒崎は肩をすくめた。
「疲れるぞ、そういうの」
「最近そればっかりだな」
「親切だからな」
「親切に見えない」
「おまえの見方が悪いんじゃね?」
言って、黒崎はそのまま教室を出ていった。
その背中を見送りながら、僕は小さく息を吐く。
平和な放課後。
普通の教室。
静かな青春。
どれも、たぶんまだ完全には壊れていない。
でも、壊し方を知ってるやつがひとりいるだけで、空気は少しずつ変わる。
そして今は、もうその変化が見えないふりでは済まないところまで来ている。
次はたぶん、もう少しだけ大きい。




