第21話 平等な先生ほど、たまに見落とす
教師というのは、平等であろうとする。
少なくとも表向きはそうだし、実際そうあってほしいと僕だって思っている。教室の前に立つ人間が、最初から誰かを贔屓したり、誰かを軽く扱ったりするようでは、学校という仕組みそのものがだいぶ危うい。
だから多くの先生は、ちゃんと平等であろうとする。
問題は、その“平等であろうとする姿勢”そのものが、ときどき見落としを生むことだ。
誰にでも同じように接する。
誰の話も同じ重さで聞く。
決めつけない。
大ごとにしすぎない。
一見するとそれはすごく正しい。
でも、最初から少しだけ強い側と、最初から少しだけ押し返しにくい側がいる場所で、その平等さをそのまま適用すると、たまに変なことが起きる。
強い側の“軽い冗談”と、弱い側の“本気の困り顔”が、同じ重さで並べられてしまうのだ。
それは平等というより、雑だと僕は思う。
そして、その雑さが見え始める朝だった。
「はい、じゃあ昨日配った小テストの返却するねー」
一時間目の頭。遠山先生はいつも通りの声で、いつも通りの調子で答案の束を持っていた。教室もいつも通りだった。眠そうなやつ、諦めきった顔のやつ、なぜか少し自信ありげなやつ。高校生の朝として、実に正しい景色である。
僕も僕で、普通に答案を待っていた。
待っていたのだが、前方の三田村の背中が少し硬いのが目に入った時点で、たぶんもう今日は“普通だけで終わる朝ではない”と分かってしまった。
最近そういうのが分かるようになってきた自分が少し嫌だ。
「三田村くん」
先生が答案を一枚持ち上げる。
「あれ、名前書いてないの誰かな。これ、君のじゃない?」
教室の空気が少しだけ揺れた。
三田村が顔を上げる。
「あ、え」
「ほら、筆跡これっぽいし」
「でも、俺……」
「名前書き忘れちゃった?」
先生の声は責めていない。軽い確認だ。
でも、その“軽さ”が今日は少し嫌だった。
三田村は慌てて立ち上がった。
「いや、書いた……と思うんですけど」
「思う?」
先生は少し首をかしげる。
「じゃあ違うかな」
「いや、でもたぶん俺ので」
「たぶん、って」
先生は困ったように笑った。
「それだとこっちも判断しづらいなあ」
その時だった。
「三田村って、ほんとそういうの多いっすよね」
黒崎だ。
やっぱり、と思う。
こいつはこういうタイミングを拾うのがうますぎる。先生が困り顔をした瞬間、そこへ“ただのクラスメイトの感想です”みたいな顔で滑り込んでくる。
「この前も提出物あれだったし」
「黒崎くん」
先生が少しだけ笑う。
「そういうこと言わないの」
「いやでも、先生」
黒崎は肩をすくめる。
「三田村、マジでちょいちょいあるんで」
「……」
「本人もたぶん分かってるでしょ?」
「……」
三田村は何も言えない。
言えないのが腹立たしいというより、言えなくさせる空気が腹立たしい。
先生は軽く流そうとしている。黒崎の言葉も、悪気のない軽口くらいに受け取っている。実際、聞こえ方だけならそうなのだ。そう聞こえるように黒崎が作っているのだから当然だ。
けれど、三田村の肩はまた少しだけ縮こまっていた。
「……名前くらい書けよ、って話だよな」
黒崎が小さく笑う。
「まあ、次から気をつければいいか」
「うん、そうだね」
先生も、そこで終わらせる。
「三田村くん、次から気をつけて」
「……はい」
それで済んでしまう。
たった今起きたことの中で、いちばんまずいのは“名前を書き忘れたかどうか”じゃない。
でも、話はそこだけで終わる。
僕はその流れを見ていて、ひどく嫌な気分になった。
「あなた」
少し離れた席から、静かな声が飛んでくる。
エヴァだ。
「何」
「今、だいぶ嫌そうな顔をしていますわ」
「今日もそれか」
「今日もです」
エヴァは淡々としている。
「でも今の、嫌でしょう」
「嫌だよ」
「ええ」
「そこは即答するんだ」
「今のは、かなり分かりやすいので」
「……」
「ただ」
エヴァは視線を前へ向けたまま続ける。
「黒崎だけを見ていても仕方ありませんわね」
「……先生か」
「ええ」
「そこまで言う?」
「言います」
エヴァは少しだけ目を細めた。
「今のは、黒崎の悪意だけで成立した空気ではありません」
「先生が流したから」
「正確には」
エヴァは言い直す。
「先生が“よくある小さな不注意”として処理したから、です」
「……」
「つまり、あの方はまだ、構造を見ていない」
構造。
最近よく聞く言葉だ。
そしてたぶん、聞き慣れてきたということは、僕自身もそこを見る側へ引っ張られているということなんだろう。
先生は悪意があって流したわけじゃない。
それどころか、たぶん平等に扱ったつもりだ。
でもその平等さが、今の場では三田村の不利にしか働いていない。
そこが、嫌だった。
「難しいな」
僕は小さく言った。
「ええ」
エヴァが頷く。
「だから面倒なんです」
「君の“面倒”って、ほんとにちゃんと面倒なものにしか使われないよな」
「あなたは雑に面倒と言いすぎなんですの」
「そんなことないだろ」
「あります」
「即答だなあ」
「あなた相手ですから」
休み時間になると、木乃実がすぐに振り返ってきた。
「ねえ」
「何」
「今の、ちょっとやだった」
「うん」
「先生もさ」
木乃実は言いづらそうに言葉を探す。
「たぶん悪気ないんだろうけど」
「ないと思う」
「でもあれ、三田村くんの方だけ“またか”って空気になってたよね」
「なってた」
佐伯も後ろから言う。
「黒崎の一言で、完全にそっちへ寄った」
「しかも先生、止めたようで止めてない感じだったし」
「それ」
僕は頷いた。
「たぶん一番厄介なやつ」
「だよねえ」
木乃実がため息をつく。
「露骨に贔屓してるわけじゃないから、余計に言いづらい」
「先生は平等に扱ってるつもりなんだろうし」
「うん」
「でも、その平等さで空気が片方に寄る時あるよね」
「……」
「神代くん」
木乃実が少し目を丸くする。
「今日、ちょっと言うことが深い」
「やめてくれ」
「いやでも本当だって」
「最近、自分でもそういうこと考えるの増えた」
「それ、成長なのかな」
「嬉しくない方向の成長かも」
「でも必要なやつ」
佐伯が真面目に言った。
その時、三田村がこっちへ近づいてきた。
少し迷う足取りだ。前よりは来る。けれどまだ自然ではない。自然じゃないのに来るということは、それだけ今の教室の中で“話しかけやすい場所”が限られているのかもしれない。
「神代くん」
「うん」
「俺さ」
「何」
「ちゃんと名前書いたと思う?」
それは、なかなかしんどい聞き方だった。
忘れたかどうかじゃない。
自分が自分を信用しきれなくなっている時の聞き方だ。
「……」
僕は少しだけ間を置いてから答える。
「三田村がそう思ってるなら、まずは書いた前提で考えていいと思う」
「でも、もし俺が」
「もし、はある」
僕は先に言う。
「人間だから」
「うん」
「でも今のクラスで、全部を“やっぱ俺が悪かったのかも”へ寄せるのは、たぶん違う」
「……」
三田村は少しだけ目を伏せる。
「そうかな」
「そう」
「神代くんって、そういうとこはっきり言うよね」
「最近、必要だと思うようになったから」
「……そっか」
「ただ」
「うん」
「僕も断定はしない」
「……」
「だから、一緒に“変だったかも”くらいで止めとけばいい」
「変だったかも」
「うん。それで十分」
「……ありがとう」
三田村はそう言って、自分の席へ戻っていった。
その背中を見ながら、朱音がぽつりと呟く。
「やっぱり、先生ちょっと甘いね」
「戻ってたのか」
「さっきからいたよ」
「気づかなかった」
「知ってる」
朱音は少し笑った。
「恒一くん、考え込んでる時ほんとに周り見なくなる」
「それは気をつけたい」
「たぶんすぐには無理かな」
「優しさがないな」
「あるよ?」
「今のどこに」
「諦めの早さに」
「それは優しさじゃない」
朱音は、三田村の席と黒崎の席を順に見た。
「でも今の、ちょっとまずい」
「どっちが」
「両方」
「両方か」
「うん」
朱音は指を二本立てる。
「まず、黒崎くんは“先生が流してくれるライン”を一個覚えた」
「……」
「次に、三田村くんは“自分が悪いかも”をまた一個覚えた」
「……」
「この二つ、組み合わさると面倒」
「言い方がこわい」
「こわい?」
「淡々としすぎてる」
「でも本当だし」
「最近、その言い方みんな好きだな」
「便利だからね」
「便利すぎるんだよ」
昼休み、黒崎はいつも通りに笑っていた。
笑って、周囲へ軽い言葉を投げて、時々こっちを見る。前より露骨ではない。露骨ではないのだが、“僕の反応を見ている”感じは薄くもならない。
むしろ先生の前でうまく流れたことで、少しだけやりやすくなったのかもしれない。
それが嫌だった。
「始まりましたわね」
エヴァが、また静かに言う。
「今日それ何回目?」
「必要なだけです」
「必要って言われると反論しづらいな」
「今のは、黒崎の背後に誰がいたか見えた回ですもの」
「背後?」
「ええ」
「先生が?」
「先生が味方という意味ではありません」
エヴァは首を振る。
「ただ、結果として黒崎の軽さがそのまま通る形になった」
「……」
「そういう“大人の雑な平等”は、ときどき一番厄介です」
「雑な平等、か」
「ええ」
「君、そういう言い方ほんと正確だな」
「褒めていますの?」
「今のはかなり」
「……」
「そこで黙るんだ」
「たまには黙ります」
「珍しい」
放課後になっても、教室の空気は妙に落ち着かなかった。
何か大事件が起きたわけじゃない。
でも、黒崎の軽さが先生の前で一度“普通のこと”として通ったことで、見えない線が一本増えた気がした。
ここまでは流せる。
このくらいなら先生も止めない。
そういう線だ。
そしてそういう線を、一度覚えたやつはだいたい次から使う。
黒崎が帰り際、僕の席の近くを通る。
「神代」
「何」
「今日も忙しそうだったな」
「……」
「いや、朝からいろいろ考えてそうだったし」
「おまえもよく見てるな」
「そりゃ見るだろ」
黒崎は笑った。
「最近、おまえ面白いし」
「面白くなりたくてやってるわけじゃない」
「そういうとこだよ」
「どういうとこ」
「真面目すぎると疲れるぞ」
また、その言い方だ。
忠告みたいで、牽制。
軽口みたいで、値踏み。
しかも今のは、朝の先生の件を踏まえた顔をしていた。
つまりこいつはもう、“自分の軽さがどこまで通るか”を少し学習している。
「黒崎」
僕が呼ぶと、
「何?」
と向こうは振り向いた。
「その“疲れるぞ”ってやつ」
「うん」
「親切で言ってるようには聞こえない」
「……」
一瞬だけ、黒崎の笑みが止まる。
でもすぐに戻る。
「気にしすぎだろ」
「そうかも」
僕は静かに言う。
「でも、おまえの言い方ってだいたいそうだから」
「へえ」
「へえ、じゃなくて」
「神代」
黒崎は笑ったままだった。
「ほんと、面倒だなおまえ」
「知ってる」
「じゃあいいや」
そう言って、彼は肩をすくめた。
「その調子で頑張れよ」
言葉だけなら応援だ。
でも、その“頑張れよ”には明らかに別の温度が入っていた。
黒崎が去っていく。
僕はその背中を見ながら思う。
証拠がないと強いやつは、だいたいそう言う。
気にしすぎ。
冗談。
考えすぎ。
証拠あるの?
そのどれもが、相手の方を“面倒なやつ”にするための便利な言葉だ。
だからこそ、次に何か起きた時は、もう少しだけちゃんと見なければならない。
物じゃなくて、空気じゃなくて、その両方を。
そしてたぶん、次はもう少しだけ、はっきり形になる。




