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普通の青春をしたいだけなのに、隣の席も幼馴染も全然“普通”じゃない。~つくば市の県立高校に入学した俺は静かに青春するはずだったのに、隣の席の毒舌美少女と世話焼き幼馴染が放っておいてくれない~  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第20話 静かな顔で踏み込んだら、もう戻れない

小さな出来事は、だいたい翌日に本性を見せる。


 その場では終わったように見えても、翌日になれば分かる。あれが本当に終わったのか、それとも“終わったことにしただけ”なのか。教室というのはそういう場所だ。昨日の空気が、何事もなかった顔で今日の朝へ持ち越される。そして、持ち越されたものだけが本物になる。


 朝、教室へ入った瞬間に、僕はそれを感じた。


 何かが劇的に違うわけじゃない。誰かが露骨にこっちを見ているわけでもない。黒板が増えているわけでも、机の並びが変わっているわけでもない。教室はいつもの教室だ。朝のざわめきがあって、眠そうな顔があって、提出物を思い出して焦るやつがいて、木乃実みたいに朝からやたら元気なやつがいる。


 でも、昨日までとは少しだけ違う。


 僕が教室へ入ると、何人かの視線が一回こっちへ寄った。

 寄って、それから何事もなかったみたいに戻る。


 その“一回”が、昨日の余波だった。


「おはよー、神代くん」


 木乃実が明るく手を上げる。

 救いなのか追い打ちなのか分からない明るさだな、と少し思う。


「おはよう」

「今日、ちょっと空気ちがうね」

「入って一秒で言うなよ」

「だって分かるし」

 木乃実は声を潜める。

「昨日のやつ、やっぱ残ってる」

「……やっぱり?」

「うん」

 木乃実はちらっと周囲を見た。

「悪い意味だけじゃないよ?」

「そのフォローの仕方、だいたい悪い意味もある時のやつだろ」

「あるね」

「正直だなあ」

「そこは美徳でしょ」

「たぶん違う」


 佐伯も後ろから顔を出した。


「神代」

「何」

「昨日のあと、黒崎ちょっと機嫌悪かった」

「見てたのか」

「見えるって」

 佐伯は肩をすくめる。

「表向き普通だったけど、ああいうのって分かるじゃん」

「まあ」

「まあ、って何だよ」

「分かる」

「だろ」

「嬉しくないけど」

「それはそう」


 席に着く。


 新しい席にも、だいぶ慣れてきた。慣れてきた、という事実が少しだけ悔しい。席替え直後は“ここはまだ仮の場所です”みたいな顔で座っていた気がするのに、今ではもう机の傷の位置まで頭が覚え始めている。


 視線を少し動かせば、三田村が見える。

 その向こう寄りに黒崎もいる。


 黒崎は、笑っていた。

 笑っている。けれど昨日までより一段だけ薄い笑顔だ。あれはたぶん、“平静を装っている顔”の方だろう。機嫌がいい時の軽さとは少し違う。


 そのくせ、こちらと目が合うと、わざとらしくもなく、自然すぎるくらい自然に視線を外す。

 器用だ。

 そういうところが本当に面倒だ。


「おはようございます」


 少し離れた席から、エヴァの声が届く。


「おはよう」

「今日は昨日ほど間の抜けた顔ではありませんわね」

「挨拶の一言目がそれなの?」

「観察結果です」

「便利な言い換えだな」

「あなたの言い分をいちいち感想へ翻訳してあげるほど親切ではありません」

「最近、前より少しだけ棘増えてない?」

「昨日の余波では?」

「人のせいにするなよ」

「原因提供者に責任を問うのは当然でしょう」

「教室でその論理使うの、地味に強いな」


 そのやり取りに、少しだけいつもの感じが戻る。


 戻る、というか、こういうどうでもいい言葉の応酬があると、教室の空気が一度リセットされる気がするのだ。昨日の残り香みたいなものが、ほんの少しだけ薄くなる。


「ねえ、神代くん」


 今度は木乃実だ。

「何」

「昨日のこと、三田村くんたぶんちゃんと感謝してるよ」

「昨日も言われた」

「いや昨日より今日の方がそう」

「違いある?」

「ある」

 木乃実は頷く。

「昨日は“助かった”で、今日は“味方できる人って分かった”って感じ」

「……」

「神代くん?」

「いや」

 僕は少し言葉に詰まる。

「そういう言い方されると、ちょっと重いなって」

「うん、重いよ」

 木乃実はあっさり言った。

「でも、重いから嫌ってわけでもないでしょ?」

「……」

「そこで黙るのが、もう神代くんっぽいよね」

「そこを“っぽい”で処理しないでくれる?」

「でもそうじゃん」

「否定しづらいのが嫌なんだよ」


 授業は普通に始まった。


 普通に始まって、普通に進む。

 先生は昨日の小さな空気など知らない顔で板書をするし、ノートを取る音も、教科書をめくる音も、学校という場所の平和な単調さそのものだった。


 そう、表面上は平和だ。


 でも平和な顔をしているものほど、ときどき底がざらついている。


 黒崎は今日、露骨に何かをするわけではなかった。

 むしろ昨日の今日だけに、いつも以上に普通だった。

 だから逆に分かる。この“普通さ”は作られている。少なくとも僕にはそう見える。


 そして三田村は、前より少しだけこっちを見る。


 目が合うと、ほんの少しだけ会釈みたいな動きをする。

 それは別に友達の合図ではないし、仲間意識の確認でもない。ただ、“あの件、覚えてます”くらいの小さな反応だ。


 そのくらいの距離が、今はいちばん現実的なのだと思う。


 昼休みになった時、三田村は一度だけ僕の席の近くで立ち止まった。


「神代くん」

「うん?」

「昨日、ありがと」

「……」

「ちゃんと言ってなかったから」

「言ってたよ」

「いや、なんか」

 三田村は少しだけ笑う。

「ちゃんと、今日も言っとこうかなって」

「律儀だな」

「そっちが言う?」

「言うかも」

「……あの」

「何」

「ごめん、またたまに聞くかも」

「何を」

「提出物とか、連絡とか」

「別にいいよ」

「ほんと?」

「そのくらい普通だろ」

「……」

 三田村は少しだけ肩の力を抜いた。

「うん」

「ただし」

「え」

「僕も全部分かってるわけじゃないから、そこは過信しないで」

「そこはちゃんと言うんだ」

「大事だから」

「……やっぱ神代くん、ちょっと真面目だよね」

「最近そればっかり言われる」

「でも悪い意味じゃない」

「その前置き、たまに必要ないくらいには慣れてきた」

「慣れたんだ」

「良くない慣れだけどな」


 三田村が自分の席へ戻っていく。


 そのやり取りを木乃実が見ていて、机に頬杖をついた。


「完全にそうじゃん」

「何が」

「神代くん、もう“巻き込まれる人”じゃなくて“頼られる人”の入口に立ってる」

「入口、好きだな」

「好きっていうか、分かりやすいんだもん」

「それ、良いこと?」

「私は良いと思う」

「私も」

 と、少し離れた場所からエヴァが言う。

「え」

 僕が振り向くと、エヴァは淡々とパンの袋を閉じていた。

「それは意外」

「どうしてですの」

「もっとこう、“面倒ごとの密度が上がるからよくない”とか言うかと」

「それは事実です」

「言うんだ」

「言います」

 エヴァは小さく息をついた。

「でも、“誰に話しかけてもいいか”というのは、教室では想像以上に大きい」

「……木乃実と同じこと言ってる」

「木乃実さんの言い方は少し軽いです」

「ひど」

 木乃実が笑う。

「でもまあ分かるよ。クラスで“あの人なら変に扱わない”って思える相手って、地味に大事だし」

「そこまで大げさかな」

 僕が言うと、佐伯が即答した。

「大げさじゃない」

「そう?」

「そう。特に今みたいに、ちょっと嫌な空気ある時は」


 その“ちょっと嫌な空気”という言葉に、会話が少しだけ静かになる。


 黒崎の名前は出していない。

 でも全員、同じものを思い浮かべているのが分かった。


「始まりましたわね」


 エヴァが静かに言う。


「またそれか」

 僕が小さく返すと、

「またです」

と彼女は言った。

「表向きは平和」

「うん」

「でも、もう始まっている」

「……」

「昨日の件で終わっていない以上、むしろこれからです」

「分かってる」

「本当に?」

「たぶん」

「その“たぶん”が――」

「信用ならないんだろ」

 僕が先に言うと、エヴァは一瞬だけ黙った。

「……学習なさったんですのね」

「最近よく言われるから」

「悪くありません」

「褒めた?」

「まさか」

「だろうな」


 昼休みが終わり、午後の授業へ流れていく。


 一見すると普通だ。

 でも、その普通の中で黒崎はまた少しだけ動いた。


 直接僕に何かを言うわけではない。

 三田村へあからさまな嫌味を言うわけでもない。


 代わりに、周囲へ少しずつ言葉を混ぜる。


「神代って、やっぱ正義感強いよな」

「また何か言われそうで、最近ちょっと怖いわ」

「俺、変なこと言わないようにしないと」


 全部、笑いながらだ。

 周囲も露骨には乗らない。乗らないのだが、完全に無視もされない。その中途半端さがいやらしい。


 僕を“面倒なやつ”として空気に混ぜたい。


 その意図が、前より少しはっきり見えてきた。


 授業中に当てられた女子が答えにつまり、黒崎がいつもの調子で「聞いてた?」と笑いかける。前なら周囲も少し笑っていたところだ。でも今日は違った。木乃実は笑わない。佐伯も反応しない。三田村なんてむしろ気まずそうに目を伏せる。


 小さなことだ。

 でもその“小さな反応の変化”は、たしかに教室の地面を少しずつ変えている。


 昨日までは、黒崎の軽さが少しだけ空気を支配していた。

 今日は、その軽さに乗らない人間が前より増えている。


 それが、どれだけ続くかは分からない。

 でもゼロではない。


 放課後、教室の空気がゆるみ始めた頃。

 黒崎がこちらの近くを通った。


 前みたいにわざとらしくはない。むしろ自然だ。自然に近づいて、自然に一言だけ置いていく。そういうやり方を、あいつはもう覚えてしまっている。


「神代」


 軽い声。

 軽いのに、今日は前より少しだけ冷たい。


「何」

「最近、忙しそうだな」

「またそれか」

「いや、だってさ」

 黒崎は笑った。

「気にすること増えすぎると、大変だろ」

「……」

「正義の味方って、体力使うし」

「別に、そういうつもりはない」

「へえ」

 黒崎の口元が少しだけ歪む。

「でも周りはそう見てるかもよ?」

「……そうかな」

「少なくとも、俺はそう見える」

「そう」


 そこで終わらせてもよかった。

 たぶん、それがいちばん穏当だった。


 でも今日は、少しだけ違った。


「黒崎」

「何」

「そう見えるように言ってるの、おまえだろ」


 声は静かだった。

 けれど、黒崎の目が一瞬だけ細くなるのが分かった。


「……は?」

「さっきから何回か言ってるよな」

「何を」

「正義感が強いとか、また何か言われそうとか」

「冗談じゃん」

「そうやって笑えば済む話なら」

 僕は少しだけ首を傾けた。

「おまえも気にしなくていいんじゃないか」

「……」

「気にしてるから、何回も言うんだろ」

「神代」

 黒崎の声が、今度は少しだけ低かった。

「おまえ、ほんと面倒くさいな」

「知ってる」

 僕は答える。

「最近、よく言われるから」


 周囲が少しだけ静かになった。


 木乃実が息を止める。

 佐伯が顔をしかめる。

 朱音は動かない。

 エヴァは、まっすぐ黒崎を見ていた。


 黒崎は一瞬だけ何かを言い返しかけて、それを飲み込んだ。


「……気をつけろよ」

 結局、またそれだった。

「いろいろとな」


 言って、黒崎は笑った。


 笑顔のままなのに、その一言はもうほとんど“次はおまえの番だ”に近かった。


 そこまではっきり言わない。

 でも、匂いだけは残す。


 それがいちばん面倒で、いちばん覚えの悪いやり方だ。


 黒崎が去ったあと、教室の空気はまた少しだけ動いた。


 木乃実が小さく言う。


「……やだな、今の」

「うん」

 佐伯も頷く。

「前より分かりやすくなった」

「分かりやすくなった、ってことは」

 僕が言うと、

「向こうも余裕なくなってるってことですわね」

 エヴァが静かに答えた。

「余裕なくなってるから、少しずつ雑になる」

「それ、良いこと?」

「短期的には」

 エヴァは言う。

「長期的には、もっと面倒です」

「結局面倒なのか」

「あなたの周りでは、だいたいそうでしょう」

「ひどいな」

「事実ですもの」

「最近それ好きだな」

「便利ですから」


 朱音は、黒崎の去った方を見ながら言った。


「うん」

「何が」

 僕が聞くと、

「やっぱりそう来たかって思っただけ」

「そこ、もう少し驚いてくれてもいいんじゃない?」

「驚いてないわけじゃないよ」

 朱音は僕を見る。

「でも、最初からそうなる気はしてた」

「なんでそんなに読めるんだ」

「読めるよ」

「何を」

「人が嫌がること、でも露骨にはやりたくないタイプの動き」

「……」

「恒一くん」

 朱音は少しだけ笑った。

「そういうの、昔から苦手だから」

「そこへまた“昔から”を入れてくるのか」

「便利だからね」

「便利すぎるんだよ、その言葉」


 放課後の光が少しずつ斜めになる。


 教室はまだ平和な顔をしている。

 でもその平和の下には、もう次の火種ができている。


 それはたぶん、今度はもっとはっきり形になる。

 誰かのなくし物かもしれないし、押しつけられた雑用かもしれないし、あるいはもっと別の、教室の中で“本人が悪いことにされやすい何か”かもしれない。


 どちらにせよ、もう入口には立っている。


 そしてたぶん次は、僕が見て見ぬふりをする方が難しい。

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