第19話 本人が悪い空気を、そこで止める
人は、分からないことがあると、とりあえず一番片づけやすい答えへ寄る。
誰が悪いか分からない。
何が起きたか分からない。
偶然か故意かも分からない。
そういう時にいちばん手軽なのは、本人が悪かったことにすることだ。
忘れたんでしょ。
置きっぱなしだったんじゃない。
また勘違いしただけでしょ。
それなら早い。
話が終わる。
空気が止まらない。
でも、早く終わることと、正しく終わることは違う。
その違いを、今日の僕は少しだけ本気で考えていた。
昼休み前の休み時間だった。
教室の後ろのロッカーのあたりで、小さなどよめきが起きた。大ごとではない。本当に、ただ“誰かが何か見つけたらしい”程度のざわつきだ。だからこそ、最初は誰も深刻には受け取らない。
「あ、あった」
声を上げたのは三田村だった。
僕は反射的にそちらを見る。
三田村はロッカーの上段、ほとんど使っていない教材置き場みたいなスペースから一枚の紙を引っ張り出していた。昨日なくしたと言っていた、あの提出用紙だ。見間違えるはずがない。再配布された新しい用紙とは紙の折れ方が違う。
「え、何それ」
近くにいた木乃実が言う。
「それって昨日の?」
「た、たぶん」
三田村は紙を見たあと、自分でも少し混乱した顔になる。
「でも、なんでここに……」
「なんでって」
黒崎の声だった。
やっぱり、と思う。
この手の場面で黒崎が早いのは、もはや偶然ではない気がしてきた。
彼はロッカーの近くへ歩いてきて、紙を見て、それから笑った。
「結局、本人が変なとこに入れてただけじゃん」
「え」
三田村が顔を上げる。
「でも、ここ俺……」
「いやいや」
黒崎は軽く手を振る。
「“でもここ俺”じゃなくて、見つかったんならよくね?」
「そうだけど」
「また三田村の勘違いってことだろ」
「……」
「ていうか昨日あんだけ探して見つからなかったのに、今ここから出てくるの、逆にすごいな」
黒崎は少し声を弾ませる。
「才能あるって。なくし物の」
何人かが、また曖昧に笑った。
その笑いが、僕は前よりはっきり嫌いだった。
前は“感じ悪いな”で済んでいたものが、今はもう少し具体的に嫌だと分かる。分かってしまったからには、前みたいに曖昧な顔では見ていられない。
三田村は紙を持ったまま、立ち尽くしていた。
見つかった。
それ自体は本来、よかったことのはずだ。なのに教室の空気は、よかった方向へは流れない。むしろ、“ほら、やっぱり本人が雑だっただけじゃん”の方へ寄っていく。
そこが駄目だ。
証拠はない。
犯人も分からない。
でも少なくとも、この場で“また三田村が悪い”で笑うのは違う。
そこだけは、もう分かる。
「それ」
気づいたら、僕は声を出していた。
大きくはない。
でも、十分に届く声だった。
黒崎がこちらを見る。
三田村も見る。
木乃実が息を止める。
佐伯が“あ、行くんだ”という顔をする。
エヴァは、たぶん最初から来ると分かっていた目でこっちを見ていた。
朱音は静かだった。静かで、でも妙に落ち着いていた。
僕はロッカーの方へ数歩近づく。
怒鳴る気はない。
それは違う。今ここで怒鳴ったら、たぶん相手の方が楽になる。こっちを“熱くなってるやつ”にして、黒崎はまた逃げる。そういう逃げ道を、今日はあまり渡したくなかった。
「見つかった場所、おかしいだろ」
僕がそう言うと、黒崎はすぐに笑った。
「は?」
「昨日、あれだけ探してたんだぞ」
「でも見つかったじゃん」
「見つかったことと、見つかった場所が自然かどうかは別だ」
「……」
「少なくとも、本人の不注意で済ませるには、話が都合よすぎる」
空気が少し変わる。
言葉そのものは穏やかだ。責め立てているわけでもない。犯人だとも言っていない。ただ、“本人が悪いで片づけるには変だろ”と言っているだけ。
だけ、なのに。
こういう言い方の方が、むしろ空気を止める時がある。
「いや、でも」
黒崎が肩をすくめる。
「そんなの、たまたまかもしれないじゃん」
「たまたまかもしれない」
僕は頷いた。
「だから犯人がいるなんて言ってない」
「じゃあ何」
「分からないなら、分からないで止めるべきだろ」
「……は?」
「“また三田村が悪い”って流れにするのは違うって言ってる」
「違うって、おまえ」
黒崎は少しだけ語気を強めた。
「見つかったんだぞ?」
「見つかったな」
「じゃあいいじゃん」
「よくない」
僕は黒崎ではなく、周囲も見る。
「少なくとも、分からないものを“本人がまたやった”で笑うのは違う」
「……」
「本人だって、昨日あれだけ困ってたろ」
「それは」
「しかも今日ここから出てきた」
僕は三田村の持つ紙へ視線を落とす。
「だったら、まず“よかったな”で止めるべきで、“ほらまた三田村の勘違い”で終わらせるのはおかしい」
言葉が落ちる。
誰もすぐには喋らない。
木乃実は口を開きかけて、そのまま閉じた。
佐伯は黙っている。
黒崎は笑っていない。
三田村は紙を握ったまま、どうしていいか分からない顔だ。
たぶん今の僕は、前の時より少しだけ踏み込んでいる。
相手を止めるだけじゃない。
空気そのものへ口を出している。
それがどれだけ面倒かは分かる。
分かるけれど、ここで引くとたぶんまた同じことになる。
「神代ってさ」
黒崎が言う。
「いちいち面倒なんだよ」
「そうかも」
僕はあっさり答えた。
「でも、今のを軽く済ませる方がもっと面倒だろ」
「何が」
「あとでまた同じことになる」
「……」
「誰かが雑に“本人が悪い”ってことにされるたびに、そこで笑って終わるなら、教室の方が先に変になる」
「……それ」
黒崎が言い返そうとする。
「そこまで大げさな話か?」
「大げさじゃない」
僕は静かに言った。
「分からないことを分からないままにして、“またあいつか”で笑う空気って、普通に嫌だろ」
「……」
「違う?」
その“違う?”は、黒崎にだけ向けた言葉じゃなかった。
周囲も含めた確認だった。
そして、その確認にいちばん先に答えたのは木乃実だった。
「……嫌だよ」
小さいけれど、はっきりした声だった。
「私は、今のちょっと嫌だった」
「木乃実」
黒崎がそちらを見る。
「何」
「いや、おまえまでそんな」
「そんな、って何?」
木乃実は少しだけ眉を寄せる。
「だって今の、普通に“また三田村くんか”で流れる感じだったし」
「いや、でも実際見つかったじゃん」
「見つかったのはいいよ」
木乃実は言った。
「でも“だから本人が悪い”って言い方で笑うのは違う」
「……」
「少なくとも私はそう思った」
佐伯も、そこでようやく口を開いた。
「俺も」
「……」
「正直、昨日の時点でちょっと変だと思ってたし」
「おまえらまで何なんだよ」
黒崎の声が少しだけ低くなる。
「何って」
佐伯は肩をすくめた。
「今の流れが嫌だっただけだけど」
「……」
「それに」
木乃実が言う。
「神代くんが言ってるのって、犯人いるとかじゃなくて、“勝手に三田村くんのせいで笑うのやめようよ”って話でしょ?」
「そう」
僕は頷く。
「それだけ」
「それだけ、って」
黒崎は笑いかけて、うまく笑えなかったみたいに口元を止めた。
「めんどくさ」
めんどくさい。
たぶん、それが本音なのだろう。
こういう空気を止めるのは面倒だ。
誰かのせいにして終わらせる方がずっと楽だ。
でも面倒だからって、そこで全部雑にしていいわけじゃない。
僕はそう思う。
そしてたぶん、今ここで木乃実や佐伯が口を開いたのも、同じ理由だ。
「……三田村」
僕はそちらを見る。
「え」
「嫌なら、嫌でいい」
「……」
「今の件、別に“またおまえか”で笑われる筋じゃない」
「……うん」
三田村は少しだけ間を置いてから、頷いた。
「俺も……ちょっと、それは嫌だった」
「……」
「見つかったのはいいけど」
三田村は紙を見て、それから小さく息を吐く。
「また俺がやったみたいに言われるのは、ちょっと違う」
それで十分だった。
黒崎はもう、それ以上笑って押し切れない。
周囲の空気が変わったからだ。
誰も大きな声は出していない。
でも、“本人が悪いで終わらせるのは違う”の方へ、少しだけ傾いた。
その少しだけが、今は大きい。
「……分かったよ」
黒崎が言う。
「そこまで言うなら」
「そこまで、じゃなくて」
木乃実が小さく返す。
「今までがちょっと軽すぎたんだと思う」
黒崎は何も言わなかった。
表面上は引く。
でも、目だけがこっちへ残る。
ああ、と思う。
前よりはっきりしたな。
もうこいつは完全に僕を面倒なやつだと思っている。
そしてたぶん、それは向こうだけじゃない。
僕の方も、もう“ちょっと嫌な同級生”では済ませにくくなっている。
「……その止め方なら、悪くありませんわね」
少し離れたところからエヴァが言った。
「上からだな」
僕が返すと、
「感想です」
とエヴァは言う。
「犯人断定に行かないで、“本人が悪い空気”を止めた」
「……」
「そこは、前より少しよかったですわ」
「少しか」
「かなり、でもいいですけれど」
「言い直すんだ」
「気分です」
「便利だな、その気分」
「あなたほどではありません」
朱音は何も言わなかった。
言わなかったけれど、嬉しそうだった。嬉しそう、という言い方がいちばん近い。昼休みの時みたいな危うい圧の笑顔じゃなくて、もっと普通に、でも少しだけ誇らしそうな顔。
「何」
僕が聞くと、
「いや」
朱音は笑う。
「恒一くん、ちゃんとそこまで言うんだなって」
「言いすぎた?」
「ううん」
「じゃあ何」
「ちょっと好きだなって思っただけ」
「その言い方やめろ」
「なんで?」
「今その話を混ぜるな」
「でも本当だし」
「そこを本当で押すなよ」
「押すよ?」
「押すな」
「えー」
朱音は肩をすくめた。
「じゃあ、今のは心の中だけにしとくね」
「言ったあとで言うなよ」
「たしかに」
空気が少しずつ戻っていく。
ざわめきも戻る。
誰かが話題を変える。
教室はまた、何事もなかったふうに普通の放課後へ戻ろうとする。
でも、本当には戻っていない。
黒崎は引いた。
けれど、今度はかなりはっきり僕を気に食わないと思っている。
たぶんそれは、教室の中の何人かも感じている。
僕もまた、確信に近づいていた。
これはもう、ただの偶然ではない。
証拠はない。
でも、“本人が悪い空気を作るやり方”が続きすぎている。
そこまで来ると、もう構造の方が先に見えてくる。
教室を出る直前、黒崎が僕の横を通り過ぎた。
足は止めない。
目線だけ寄越す。
「神代」
「何」
「ほんと、正義の味方気取りだよな」
「……」
「疲れるぞ、そういうの」
声は軽い。
でも、その軽さの中にちゃんと棘があった。
「気をつけろよ」
また、その言い方だ。
親切そうで、まったく親切じゃない。
忠告みたいで、ほとんど牽制だ。
「……」
僕が返す前に、黒崎はもう行ってしまう。
その背中を見送りながら、僕は少しだけ思う。
静かな顔で踏み込んだら、たぶんもう前みたいには戻れない。
でも戻れないからって、見なかったことにできるほど、もう鈍くもないらしい。




