31.嬉しい提案
レティシアは扉の前で小さく息を吸い、胸元で指を絡めた
淡い午後の光が、刺繍の施されたドレスに落ちている
呼び方を変えるだけ
それだけのことのはずなのに、やけに心臓が落ち着かない
「アレク様……」
声に出してみると、思った以上に近しくて、思った以上に甘い響きがした
すぐに頬が熱くなる
これまではいつも「アレクシス様」と呼んでいた
でも彼がふと見せる柔らかな視線を知ってしまった、
自分だけに向けられる、一瞬の油断も
それに気づいてからはアレクシス様の事をどんどん愛おしくなっていく
(私だけが知っている、私にしか見せない顔)
日に日に愛称で呼んでみたいと思う気持ちが強くなっていく
だから、ここ数日何度か言おうと頑張っていた
(アレクシス様も愛称で呼んでいるんだし、結婚もするわけだし、呼んでもいいよね
呼び方を変えるだけで、別に深い意味なんて……)
言い訳を心の中で何度も繰り返しながらレティシアは扉の前で動けなくなっていた
向こうには、きっといつもの余裕ある彼がいる
覚悟を決めノックする
ノックの音がやけに大きく響いた気がする
実際にはそうでなくても、そう感じてしまうのは緊張の表れなのだろうか
扉を開くとアレクシス様が目の前にいた
「どうしました。レティ、さあ入ってください」
名を呼ばれ、一瞬逃げ出しそうになる
でもアレクシス様の声が私を誘うように頭に響き、一歩一歩部屋の中に足を踏み入れてしまう
柔らかなそうなソファーに案内され、アレクシス様が私の隣に座る
近すぎず、遠すぎず
いつもの距離感
いつ頃からだろうかこの距離感に緊張をしなくなったのは、安心を覚えるようになったのは
考えてみるがもう覚えていない
ふいにアレクシス様の香水の匂いがした
落ち着きがあって知性的で、でもちょっと官能的な
頭がクラクラしてきて何も喋れなくなってしまう
今日は少し緊張しているからなのか、いつもならなんて事ないのに
これではダメだ
ぎゅっとスカートを握り、視線を上げる
「あ、あの……」
一瞬の沈黙
そして、決意と一緒に言葉を落とす
「アレク、様と……お呼びしても、よろしいですか」
言い終えた瞬間、言ってしまった事に改めて恥ずかしくなってしまう
婚約者なのだから、普通の事だからと思いながらも恥ずかしさ体が熱くなる
そして、アレクシス様を直視できなくなり、目を伏せる
くすり、と低い笑い声
「それは……随分と嬉しい提案ですね」
指先で顎をすくわれ、視線が絡む
「いいですよ
むしろ、いつ私のことを愛称で呼んでくれるのか、どんな愛称で呼んでくれるのか
ずっと待っていましたよ」
心臓が跳ね上がる
待っていた?私が愛称で呼ぶ事を?
愛称で呼んでも構わない思ってくれていた事への嬉しさ、やっと言えた安堵感が胸をいっぱいにする
「……アレク様」
今度はちゃんと、彼の目を見て言えた
視線が絡まる
アレク様は柔らかに笑っていた
私にだけ向けでくれるあの笑み
その笑顔を見た瞬間何も考えられなくなってしまい、ただ時間だけが過ぎていった




