24. 傍にいるから
静かな広間に明るく澄んだ音色が響く。あまり手元が明るくないのに武骨で大きな手が滑らかに澄んだ音を奏でて、やがて余韻を残しながら消えていった。セラは慌てて頬から落ちる雫を払った。
「ご、ごめんね泣いたりして。とっても素敵だったよ」
「おいで」
「どこに? もしかしてひざの上とか……」
ユリシーズが自分の膝をポンと叩いて「椅子」と譲らないので、セラは思い切り照れながら横向きで膝の上に乗った。すん、と鼻をならすとまるで小さい子にするように背中を優しく暖かな手が撫でてくれた。
「色々思い出しちゃった?」
「うん……。この歌、大昔に流行ったんだって。当時は今ほどひどい状況じゃなかったから、夢でも会いたいわ、なんて歌ってたんだろうけど……」
「もう逢えないあなたと出逢えたら、か……」
「……ユーリと出逢っちゃったから、出逢う前の私には戻れないのに。いつも一緒にいるのが当たり前になってるのに、夢でしか逢えなくなったらイヤだよ」
「俺もセラと出逢う前には戻れないよ。だけどたまに夢を見るんだ」
「どんな?」
「気が付くと誰もいない戦場にいて、さっきまで隣にいたセラがいない。探しても探しても見つからない、そんな夢。目が覚めた時すごく不安になる……」
ポツンと呟くような声がして、抱きしめる腕の力がセラの存在を確かめる様に少しずつ強くなっていく。まるで縋るような仕草にぎゅうっと胸が痛んだ。
「ユーリ……」
「全然違う道を進んでる未来もあったのに、今こうしてセラが俺の腕の中にいる。それがすごく幸せだ」
「私も、私もこうして傍にいられるだけでいい……」
「なんだよ。泣くことないだろ」
仕方なさそうなため息をついて、べそべそ泣くセラを抱えるとユリシーズは立ち上がり、そのまま広間を出て部屋まで戻った。真っ直ぐセラの寝室までやってくると寝台に壊れ物を置くように下ろしてくれた。
寄り添う温もりが離れていくのがなんとも言えず寂しくて、思わずユリシーズのシャツの袖を引く。振り返ったユリシーズが苦笑して、寝台に両手をついてセラを覗き込んだ。柔らかな灯りに浮かぶ蒼い瞳が少しの熱を帯びてじっとこちらを見ていた。
「今夜はずいぶん甘えん坊だな」
「ユーリもね」
こつんと額を合わせてくすくす笑いあう。ふっと笑い声が途切れてセラの額に亜麻色の髪がかかり、くすぐったさにそっと瞳を閉じると触れるだけのキスが降りてきて、囲うように閉じ込める腕が解かれてセラを抱きしめた。
ついに王都で迎える最後の朝だ。すっきりと晴れた秋空に花火の音が木霊している。遠くから聞こえてくる明るい笛の音や浮き立つ人々の様子が迎賓館にも伝わって来た。この感じだと大通りは人でいっぱいだ。
「すごい賑わいね。宮殿まで行けるかしら」
「大通りは規制されてて、馬車はちゃんと進めるそうですよ。豪華な招待客を眺めるのも楽しみのひとつですから」
ハンナのハキハキした声に頷いて、セラは薄桃色のドレスの裾を翻して部屋に戻るとすっかり片付いた室内を見回した。エマは侍従に手伝ってもらって、セラの荷物を持って先に下に降りている。もう少ししたら出かける時間だ。
「式典に出て、お父さんのお弔いして、ユーリはそのまま辺境に行ってしまうのね。私も四英雄の故郷、行ってみたかったのに……」
「物見遊山じゃねぇぞ。あくまでも調査だから。調べさせてもらった礼に埋葬もするし」
騎士礼装に身を包んだユリシーズが姿を現した。きっちりと合わせた襟元からのぞく真っ白なスカーフと、肩章から下がる金の房飾りが漆黒に良く映えている。式典用の白い手袋を嵌める姿にときめく胸を抑えつつ側に寄った。
「わ、わかってるわよ」
「ならいい。そろそろ出ようぜ」
笑って差し出された手に金の指輪をした左手を乗せる。夜の装いと違って露出が控えめなので、肩と腕はしっかりと滑やかな布地に覆われ、唯一広めに開いたデコルテも半分以上が緻密に編まれたレースが隠してくれている。
エスコートされて馬車に乗り込むと、サーベルを片手に持ったユリシーズが隣に座った。
「アルタイルで行くんじゃないの?」
「いや。あの子はアキム達が宮殿の裏口に連れて行ったよ」
「今朝から側役の姿が見えないと思ったら先に行ってたのね。エマ達もそこで待つのかしら」
大通りに差し掛かるとざわついていた群衆がわぁっと歓声を上げた。セラはびっくりして窓に引かれたレースのカーテンを少しだけめくって外の様子を伺った。
「ひぇ、すっごい人……」
「王都中の人が集まってるっぽいな。王孫殿下は人気があるから」
「でしょうね。セブラン様とっても良い子だもの」
手に手にフィア・シリス王国の紋章の旗を持った民衆は宮殿に続く正門までびっしり並んでいる。大通りには等間隔で配置されたフィア・シリス兵が微動だにせず立っていて、まるで凱旋パレードのようだ。
それらを眺めながら宮殿に到着すると、正殿最上階にある礼拝所へと案内された。陽の光を真上から取り込めるように、天井はすべて曇りひとつない硝子で出来ている。正面には真っ白な大理石でできた『母なる精霊』の像が置かれ、そのすぐそばに濃い紫色の神官服を纏ったかなり高齢の神官が座っていた。
こちらに気が付くと介添えの神官に寄り添われてやって来た。式典会場はまだ人が疎らで、神官が席をはずすことに誰も気にした様子はなかった。
「ユリシーズ様、そちらが?」
「はい。私の妻になるセラフィナ・エイル嬢です。セラ、こちら婚礼を執ってくださる神官様だ」
「快くお受けくださったことに感謝いたします。本当にありがとうございます、神官様」
話に聞いていた神官様に深々と腰を追って礼を言った。白い肩帯に銀糸の二本線は大神官の一つ下の階級の証。西方大陸には大神官がいないから、彼がこの大陸で最高位の神官だ。
「いやいや礼には及びませぬ。楽しみにしておりますぞ。西方大陸のこれからを担う若人の新しい門出に立ち会えること。誠に喜ばしい善きことじゃ」
ふぉふぉ、と真っ白な長い髭を撫でながら笑う。老神官は「それでは結婚式でお会いしましょう」と、しっかりした足取りで戻っていった。
「精霊殿から後任が来たら引退するんだってさ。俺達の結婚式が最後の仕事」
「そんな大事な節目に受けてくださって、本当にありがたいことだわ」
「最後だからだろ。その後は身体が許す限り東部地帯の鎮魂の巡礼に出るらしい」
「そう……」
精霊信仰が薄まって、ウィグリド帝国からの謂れのない迫害を受け続け、西方大陸にいる神官は数名しかいない。西方大陸の「火の精霊殿」が破壊されてからは分祀でひっそりと精霊を奉っていたと聞く。
精霊殿から神官や巫女が派遣されてくれば、背負い続けてきた重たい荷をようやく下ろすことができるのだろう。老神官の老いさらばえた背中を何とも言えない心地で眺めていると、穏やかな声がかかった。
「おや。二人ともずいぶん早いですね」
聞き覚えのある声に振り向くと、黒にも見える濃紺の上着と同色のジレを纏ったクレヴァが立っていた。手紙でのやり取りは密だが会うのはエーラース領で別れて以来だ。
「クレヴァ様!」
セラが思わず駆け寄ると、眼鏡の奥の薄い灰青の瞳が嬉しそうに笑みの形になった。
「お元気そうで何よりですね、セラ。ユリシーズも相変わらずで」
「相変わらずってどういう意味ですか。昨夜いつ着いたんです?」
「日付が変わってからですよ。もう少し早く来ようと思ったのですが、途中で色々足止めにあいまして」
「大変でしたね」
「足止めって弟子達からでしょう。俺も会うの久しぶりだし」
肩を竦めるユリシーズに苦笑して、クレヴァは「少し挨拶に行ってきます」とすでに集まり始めているフィア・シリス側の貴族の元へと歩いて行った。
比喩でなく本当に東奔西走真っ最中の元解放軍の軍主様は、いまや西方諸侯を取りまとめる顔役になっている。行く先々で呼び止められては引っ張りだこになって満更でもなさそうな様子にセラは微笑んだ。
式典は朝九時の鐘が鳴ると同時に始まった。踝まである濃紺のマントを正装の上から身にまとったセブランが入場してくると、礼拝所がシンと静まり返った。壇上にいる神官と女王のもとにやってくるとゆっくりと跪き、神官の言葉を待った。
「いまここに母なる精霊に祈りを捧げん。人に選ばれ人を愛し、音と言葉の精霊より聖別せし者なり。諸人すべてこれを祝福せん。母なる精霊よ、その愛と御心もって次代の王を護り給え……」
老神官の朗々とした祝福の言葉が終わると、女王陛下が控えていた宰相が捧げ持つ台から、水色の輝石が嵌った蜂蜜色に輝くサークレットを受け取った。そっと捧げ持ち、跪く小さな頭の上に被せると「お立ちなさい、セブラン王子」と静かな声をかけた。
「母なる精霊よ。フィア・シリス女王、コンスタンス・ネヴァ・フィア・シリスはセブラン・リベルタ・フィア・シリスを王太子として認める。異議ある者は今この場で申しなさい」
女王の声が厳かに響く。恭しく首を下げるフィア・シリスの貴族達と対照的に、西方諸侯達は微動だにせず戴冠式を見守っている。ただ親しいから呼ばれたのではなく、立会人として招待されたのだと今更ながら思った。
「いまここに次代の国王たる新しい王太子が立ちました。我が息子ヴァレールは残念ながら王に成り得ませんでしたが、孫息子セブランがその志を継ぎ、新たな道へと進むことでしょう」
女王陛下に促されて王太子となったセブランが緊張した面持ちで礼拝所に集まった人々を見回した。
「セブラン・リベルタ・フィア・シリスは、母なる精霊の御前でここにいる皆に誓う。我が力をすべてをもってフィア・シリスを守り、民を導き。善き王とならんことを」
ユリシーズが白い手袋を外すのにならって、セラの隣に立つクレヴァや周りにいる西方諸侯達も同じように手袋や手を包む装飾品を外していく。全員が正式礼を取るのに合わせて、セラ達淑女も腰を折って首を垂れた。
セブラン殿下の「西方諸侯達よ、ありがとう」という声に合わせて身を起こすと、神官の「皆に母なる精霊の加護のあらんことを」という厳粛な声によって立太子式は終わった。儀式は簡素でもセブラン殿下のすることは山積みだと聞いている。小さな背中に「頑張って、セブラン様」と心の中で声援を送って、セラはユリシーズに手を引かれて礼拝所を後にした。




