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乙女は獅子に恋をする  作者: 龍田環
北方大陸編
14/111

14. 我がままに

 ひたすらに馬を走らせて、ルガランドを目前にしたダミアの街へとやってくると、ユリシーズ達はすぐにセラを街医者へ担ぎ込んだ。診てもらっている間に、ユリシーズとリオンは宿探しに出かけていった。


 セラの手首をとり脈を見て、額と首筋を触診して、ふむふむと頷きながら、丸っこい体格をした老医師は、泣きそうな顔をしているオルガに穏やかに笑いかけた。


「過労でしょうな。滋養のある食べ物を食べて、ゆっくり休めば大丈夫」


 もしゃもしゃの白い髭を生やした年寄りの医者は「ちょっと待っておれよ」と言って、髭をなでながら診察室へ戻っていった。すぐに小瓶と手のひらくらいの小さな紙袋を持って出てくると、長椅子に横たわったセラのそばへやってきた。


「それにしても、これだけぐっすり眠っていると、薬を飲ませられんなぁ」


 セラの頬をぴたぴたと軽く撫でるように叩いても、まったく起きる気配がない。老医師は困ったように「ふぉふぉふぉ」と笑って薬をオルガに手渡した。


「起きたときに私が飲ませます」


「そうしてくれるかの。熱を下げる水薬はすぐ飲ませて、こっちの滋養強壮の煎じ薬は、食後にな」


 渡された紙袋には、懐紙に包まれた粉薬がいくつか入っていた。


「わかりました。ありがとうございます」


 オルガは深々とおじぎをすると、顔をあげて診察室へ戻っていく老医師を呼び止めた。


「あの、迎えの者が来るまで、こちらで待たせていただいても?」


「構わんよ」


 福福しい顔に笑みを浮かべて、老医師は診察室へと戻っていった。それから小一時間もしないうちに、ユリシーズが戻ってきた。


「終わったか?」


「うん。薬をもらった。ゆっくり休めばいいって」


「よし。宿はここからすぐだから、行こう」


 ユリシーズはぐったりと眠り続けるセラを、外套ごとそっと抱き上げ、先に立って歩き出した。オルガは庭木に繋いでいたノルンの手綱を外して、後に続く。そういえばリオンの姿がない。オルガは前を行くユリシーズの背に「リオンさんは?」と声をかけた。


「情報屋のところに行ってるよ。ルガランド周辺のことを把握しておきたいからな」


「西方からのお客様来訪で、状況がどうなっているのか気になるよね……」


 道行く人の層も、他の街々と違っていた。剣を佩いた自警団の数が多く、旅装姿の人がぐっと減っている。ダミアの街に留まるよりも、もう少し足を伸ばしてルガランドへ向かうか、乗合馬車で周辺にある港町へと向かうのだろう。ほとんど喋らないまま、灰色の屋根の、割と大き目の宿に着いた。

 

ユリシーズは『銀狐亭』と書かれた看板の横にいる小間使いの少年に駄賃を渡し「あの人の馬を頼む」と、オルガの馬を指差した。オルガは少年に手綱を預け、自分の鞄とセラの鞄を持つと、スタスタと宿へ入っていくユリシーズの後を慌ててついていった。


 部屋は一階の奥まったところにある、広い続き部屋だった。居間を挟んだ両側に寝室がある型の部屋で、宿の規模から考えても、結構なお値段がするように見受けられた。


「左側を使ってくれ。何かあったら、いつでも呼んでくれていいから」


 ユリシーズは片腕でセラを抱えなおすと、左側の寝室のドアを開けて入っていった。窓際の寝台へそっと寝かせて、眠り続けるセラの顔を見た。熱が下がらないのか、ミルクのように白い頬には病的な赤みが差している。手の甲を頬へと当てると、かなり熱っぽかった。


「熱、下がらないな」


「熱さましをもらってる。起きたら飲ませないと……」


 オルガは寝台で眠るセラを見て、何度めかのため息をついた。リオンのくれた薬がまだ効いているのか、全然起きる気配がない。浅くつく息は、相変わらず苦しそうだ。薄い栗色のケープを外し、胸元のリボンを少しだけ緩めてから、毛布をふわりとかけてやった。


「全然起きそうにないけど、本当に大丈夫なのか」


「医者は過労だから休めばよくなる、って言ってたけど」


「過労、か」


 痛いところを触られたように、眉を顰めてセラを見下ろすその表情は、横たわるセラよりも辛そうに見えた。


「ユリシーズ、少しの間だけセラをお願い。詰め所に伝言がきているか見てくる」


 オルガは後ろ髪を引かれるような思いを抑え、詰め所での情報授受に出かけることにした。セラが倒れたことは早く先生に伝える必要がある。体力が限界になっているセラを馬に乗せていくのは、もう無理だ。ルガランドからは馬車を手配してもらわなければ、帰るに帰れない。


「わかった。気をつけて」


 重たい足取りで出かけて行くオルガをぼんやりと見送り、ユリシーズはスツールに腰掛けた。肩が隠れるように毛布を引き上げてやると、セラの長い睫毛が震え、翡翠色の瞳がうっすらと開かれた。


「気がついたか?」


 焦点の合わない瞳が、覗きこむユリシーズを捉えた。言い様のない安堵と喜びが胸を満たしていく。


「ここ、どこ……?」


「ダミアの街。宿屋だよ」


「もう着いたんだ……」


「眠ってる間に着いたよ。身体、大丈夫か?」


「だるい……」


「薬を飲ませてくれって言われてるんだけど、起きられるか?」


「うん……」


 肱をついた姿勢で、懸命に起きようとするセラを見かねて、ユリシーズは立ち上がった。


「ちょっと、ごめんな」


 寝台に浅く腰掛けて、セラの背中を支えると、クッションと枕を適当に積んで寄りかからせてやった。


「……ありがと」


「これ、薬。いま水を持ってくる」


 だるそうに瞳を半分あけたままのセラに薬の小瓶を持たせて、ユリシーズは部屋を足早に出ていった。意外とまめなんだな、とセラは夢うつつに思いながら、手の中にある薬を見た。蓋をあけると薬草独特の甘いような香りがする。とろりとした琥珀色の液体が、何だか美味しそうに見えた。空腹と喉の渇きにつられて、セラは一気に瓶の中身を呷った。目の眩むような苦味が脳天につきぬける。


 水差しとコップを持って、急いで戻ってきたユリシーズは、寝台の上でものも言わずに悶絶するセラを見て、心臓が鷲掴みされたように驚いた。


「どうした、具合が悪いのか?!」


 寝台に右手をついて、背をさすろうと手を上げ、しばし逡巡してぐっと拳を握る。セラと自分の距離を開けるように、寝台の頭板に手をついた。


「に、が、い」


 搾り出すように呟いたセラの言葉に、ユリシーズは一瞬で冷めた目つきになり、はぁ、とため息をついた。


「……水を飲め」


 コップに注いで渡してやると、ごくごくと喉を鳴らして一気に飲み干した。


「紛らわしい。何かあったのかと思ったろうが」


「うぅ……口が渋い」


「夕飯まで寝とけ。体力回復は寝るに限る」


 セラの背からクッションが抜き取られ、支えを失った身体が自然と傾いていく。ゆっくりと手をついて横になった。ふう、と息を吐くと、寝台の傍に立つユリシーズを見上げて、熱っぽい顔をさらに火照らせた。


「寝顔……見た?」


「じっくりと眺めたりはしてない。ついさっきまで、オルガもいたしな」


「そうなの……?」


「ついでに言うと、荷物みたい運んではいないから、安心しろ」


 セラは「ありがと」と弱弱しい顔で笑った。ユリシーズもつられたように口元を緩めて微笑んだ。抱きかかえるように膝に乗せた状態で運んできたのだが、それは教えないほうがいい気がしたので、黙っておいた。


「ちゃんとルガランドまで連れて行ってあげるから、今は寝とけよ」


 ユリシーズの言葉にセラは目を見張ると、泣きそうに顔を歪めた。胸元でもたついていた毛布を掴むと、顔を隠すようにして潜りこんだ。


「私のこと、置いていって……ここでお別れしよう」


「絶対にイヤだ」


 ユリシーズは間髪いれずに、きっぱりはっきり断った。セラが本心から離れたいと願うなら、何も言わずにそうするつもりだった。泣きそうな顔と、か細い声音は、少なくとも本心からではないと思った。自惚れではなく、心がそう感じた。


「……私、本当のお荷物になりたくない……」


「前にお荷物と言ったことは謝る。俺はセラのことを、そんな風に思ったことなんて、一度もないよ」


「……」


 毛布の中からは、鼻をすする音と、押し殺した泣き声がする。ユリシーズは毛布を剥いで、抱きしめてやりたいと思う自分を律して、セラにずっとしてあげたいと思っていたことを告げた。


「俺は、セラを……セラの力になりたいと思ってる」


「……」


 ひく、としゃくり上げる声がした。感情が昂ぶっているセラに何を言っても、余計に泣かせるだけだった。


「泣くくらいなら、置いていけなんて、言うな」


 できるだけ感情を抑えた声で呟くと、床に落ちていた小瓶を拾った。顔を上げると、開いた扉の前に呆れ顔のリオンが立っていた。


「女の子を泣かせたあげく何その物言い。ちょっと来い、お兄さんがお説教してやる」


「い、いつからいたんだ」


「たったいま、帰ってきたんだよ。セラちゃん、ゆっくり休んでてね」


 リオンの優しげな声とともに、パタン、と扉が閉まった。扉の向こうで何やら動く気配と物音がして、やがて静かになった。セラは涙に濡れた瞳で、そっと毛布から顔を出した。熱があるのに泣いたせいで、頭がガンガンと痛む。大きく息を吸って、吐いた。毛布を被っていたから、ユリシーズがどんな顔で話していたのかわからなかったが、真摯な声音がとても優しかった。あんな話し方をされたら、してはいけない期待をしてしまう。背中を支えてくれた暖かな手が、セラを苛んだ。


「恋するって、楽しいのか辛いのか、よくわからないよ……」


 明日になれば、ユリシーズとお別れしなくてはいけない。お別れしたら、もう会えるかどうかもわからない。その事が、何度も切なく胸を締め付ける。瞳を閉じると、目じりから涙がひとつ零れていった。




 オルガは「ルガランド周辺に多数のウィグリド帝国兵潜伏、警戒されたし」という仲間からの伝言を受け取り、おなかの中に凝ったものがたまるのを感じた。ここ数日、襲撃がなかったのは、戦力を一箇所に集めていただけで、何も状況は変わっていなかったのだ。師団長に予定の地点より手前で合流したい旨をしたため、先生には大至急馬車の手配をお願いして、留守居の騎士に暇を告げると、小走りに宿へと向かった。


「あ、おかえり、オルガちゃん」


「戻ったか」


「二人に聞いてほしいことがある。セラは?」


「まだぐっすり寝てるよ。さっきユーリが泣かしたから、余計疲れたんでしょ」


「何を言って泣かしたの。こと次第ではただじゃおかない」


 オルガはユリシーズを睨みつけると、人形めいた顔に凄みのある笑顔を浮かべた。


「……聞いてほしいって何をだ?」


 何やら思案するような顔で、ユリシーズはオルガをじっと見た。 


「ルガランド周辺に、帝国兵が多数潜伏中と、仲間からの警告がきていた」


「この街の情報屋も、今のルガランドは得体の知れない連中や反王国派がうろうろしてる、って言ってたよ」


「そこで俺達を待ち構えているってことか」


 窓際で腕を組んで立つリオンは、肩をすくめて「まずいことになったね」と苦笑した。ため息をついて、二人して難しい顔になった。このままでは、セラとオルガを確実に巻き込んでしまう。オルガは自力で何とか潜り抜けることができても、戦う術をもたないセラはどうしようもない。おそらく一番最初に狙われるか、人質にされる可能性が高い。


「ルガランドよりもう少し手前側の街道で合流したいと、皆に伝えてある。私達と一緒に行けばいい」


「精霊騎士がいれば、亜生物に襲われても心強いけど。いいのか?」


「まぁ、オルガちゃんも仲間がいれば心強いよね。俺達、腕っ節には自信あるけど、精霊魔術なんかさっぱりだし」


「精霊魔術なしで、生身で亜生物とやりあったと、セラから聞きましたよ」


「ああ……あれか。あれだって、セラのお守りがなきゃ、やばかった」


「養殖ものの亜生物だったからよかったけど、天然ものだったら、確実に死んでたよね、俺ら」


「何だよ養殖って。牧場の角牛じゃあるまいし」


「セラのお守りって、これと同じものですか?」


 オルガはスッと中指にはめている指輪を出しだした。銀製で白い石が嵌っている、何の変哲もない指輪だが、白い石は精霊魔術を使う者の霊力を込めておける便利な道具だ。霊力消費が抑えられるので、精霊使いは皆がそれぞれの好みの形で携帯している。


「いいや。血石みたいに黒っぽくて、俺の親指の爪くらいの大きさだったよ」


 ユリシーズの答えを聞いて、オルガは絶句した。「先生、あんまりです……」と何やら呟いて、冷めた香茶の入ったカップを手にすると、一気に中身を飲み干した。


「何だよ。セラのお守りが、どうかしたのか?」


「先生の行き過ぎた親心だから、気にしないで」


「気になるでしょうが。あれ、一体何? 俺が持ったときは氷みたいに冷たくなって、色が水色になったんだけど。俺は何かの能力増幅装置かなって思ったんだけど」


「その認識で合ってますよ。原理は私もよくは知りませんが、術者じゃなくても精霊魔術が使えるようになるそうです。石の色は、リオンさんの生まれ持った属性が顕現したんですよ。お話から察するに、リオンさんの属性は、おそらく『水』なんでしょうね」


「へー。俺は水で、アキムが土ってことか。面白いな」


「……俺が持ったときは、何もなかった」


「西方大陸の人にはよくあることだから、気にしなくて大丈夫ですよ」


「俺も一応、西方人だけど?」


「見た目だけで言わせてもらうと、リオンさんは東方系ですよね?」


「まぁね。俺の親が東方大陸の山岳民族だったらしいよ」


「東方は北方大陸と同じぐらい、精霊信仰の深い大陸です。あの大陸出身の人は、精霊魔術との親和性が潜在的に高いんですよ」


「俺も修行したら、精霊魔術ができるようになったりするの?」


「いいえ。親和性があるのと、精霊魔術の素養はまた別です」


「そっか、残念」


 話がひと段落して、ユリシーズとリオンは連れ立って食事に出かけていった。居間を挟んだ反対側の部屋とはいえ、男と同室というのは気詰まりになるだろうと、彼らなりに気を使っているらしい。だったら別の部屋にすればよかったのに。


「やっぱり、気の使い方が変」


 オルガは呆れたように笑って、宿の使用人に頼んだ夕食を食べ始めた。豆乳でよく煮た根野菜がたっぷりのシチューと、木の実がたくさん入ったパン、薄く切られた少しの燻製肉が、オルガの夕食だった。

 セラには角牛の乳で柔らかく炊いたフラール麦の粥を持ってきてもらった。甘く味付けされていて、焦がした水あめを絡めた木の実が砕いてまぶしてある。栄養価が高くておなかに優しいので、北方大陸では具合が悪いときに好まれる食べ物だ。


「セラ、入るよ?」


「うん……何か、いいにおいがする」


「フラール麦のお粥。これなら食べられるでしょう?」


「うわぁ、ありがとう、オルガ」


 おなかぺこぺこだったの、と幾分か元気になった顔で笑い、寝台から起き上がった。オルガは鍋の乗った盆をスツールに置いて、小さ目の木椀に盛り、木のさじと一緒にセラに手渡した。


「あーんって、やってくれるのかと思った」


「甘える相手が違うんじゃない?」


「ぶほ!! あっつ!!!」


「あーあ、お洋服が。誰のことが浮かんだの?」


「誰だっていいでしょ、もうもうもうもうっ、一人で食べるっ」


「それ脱ぎなよ、洗ってくるから。そのままにしておくと乳臭くなるよ」


「オルガのせいじゃない」


「心外だな。食べたら薬飲んで歯を磨いて、さっさと寝てね」


「この間から私で遊んでひどいわ」


「笑うと気が晴れるでしょ」


 オルガはからからと笑いながら、セラの着ていた花色のコルセを片手に持って、扉を閉めた。セラは黙々と一杯目を食べ切り、おかわりも平らげてから、別の盆に乗せてある小さな陶器のポットを手に取った。蓋を開けると中身はお茶ではなく、薬草を煎じたものだった。


「うぇ、薬くさ……」

 

 セラは呻くように呟いてから、カップに注いで一気に飲み干した。匂いは薬草感全開だったが、飲むと意外とくせのないお茶のようで思っていたほど悪くはなかった。

 汗ばんだ肌が気持ち悪い。セラは備え付けの背の低い箪笥を漁り、手ぬぐいと大判の綿織物を手にすると部屋を出た。真向かいの部屋の半開きの扉を覗き込むと、そちらも寝室で、寝台にはユリシーズの黒い外套が放り投げてあった。居間を隔てて同じ部屋。いくらなんでもそれはないと、セラは思った。何で、どうしてと一頻り頭を悩ませてから、はっとして自分の身を見下ろして、慌てて洗面室を探した。あの二人が戻ってこないうちに、簡単に湯を使い、部屋に戻らねば。薄着で下着が透けそうな服の素材は、裸で居るよりも何だか艶めかしい。廊下に続く主扉のすぐ横に洗面室を見つけて、急いで飛び込んで鍵をかけた。


 ギルドに寄ってから戻るというリオンと別れて、ユリシーズは鍛冶屋に寄ってから宿へと戻ってきた。虫の声の響く裏道を歩きながら、明日のことを考えた。明日、ルガランドに着く。この一ヶ月、頼まれた仕事をこなしながら、リオンと二人で旅をして。妙な事件に足を突っ込んで、セラと出会った。

 そしてルズベリーで見たセラの首飾り。胸元を見ていると勘違いされ平手を食らって以来、二度と見る機会はなかったが、ずっと胸に引っかかっていた。オルガと約束したとおり、あの首飾りのことは黙っていて正解だった。


 部屋に戻ると居間には誰もいなかったが、洗面所にセラらしき気配を感じた。居間の大きなテーブルに剣をごとりと置いてから、自分の部屋に戻った。それを見計らったように洗面室のドアが一度開いて、すぐに閉じられた。部屋の中をわたわたと移動するセラの気配に、笑いを堪える。声をかけてやってもよかったが、何となくやめておいた。また泣かれでもしたら、どういう行動にでるか自分でも読めない。


 セラが無事に自分の部屋に戻ったところで、再び居間に戻って、剣の手入れを始めた。洗浄を頼んだ鍛冶屋のおやじには「ひでぇ臭いだ」と嫌な顔をされたが、すっかり元通りだ。しっくり手に馴染むのは、やはりこの剣だけだ。再度、念入りに刃こぼれがないか、止め具に緩みがないかを目検していく。

 遠慮がちに背後の扉が開く気配がしたので、振り向かずに声をかけた。


「セラ? どうした?」


「あ、あの、手ぬぐいを落としちゃって」


「手ぬぐい?」


「振り向いちゃダメ。あの、私、見苦しい格好だから。自分で取るから、そのままでいて」


「わかった」


 森から出てきた小動物のように、ひょこっと扉から出てきて、ユリシーズのすぐ後ろで屈む気配がする。刀身と柄を繋ぐ目釘を外そうと小さな木槌でガンと叩くと、その音に驚いたセラが「ひゃあ!」と声を上げた。


「び、びっくりさせないで!」


「悪い」


 セラはそっと背後から近寄って、ユリシーズの手元を見た。テーブルの上には、刀身と柄がばらした状態で置かれ、油のしみこんだ麻布と柔らかい革の布、目釘を抜く小さな木槌がその隣に置いてあった。


「剣のお手入れ?」


「俺の命を守る大事なものだからな。毎日やらないと落ち着かない」


「剣士の命だもの、当然でしょ。そういえばユリシーズの持っている剣って、幅が広いし、厚みもあるし、普通の長剣より短いのね。西方って色々な形の剣があるって、聞いたことがあるわ」


「騎士団にいる侍女だけあって、剣のことをよく知ってるんだな。これは俺の亡くなった母親が使っていたんだ。西方の辺境出身で、変わった剣術を使ってたと聞いたことがある」


「ユリシーズのご両親って、やっぱり騎士なの?」


「ああ。四年前に戦死したけど、父親はすげー立派な騎士だったよ。母親も俺を産むまでは騎士だったから、生きてたら復帰してたかもな」


「……辛いこと聞いたりして、ごめんね」


「いいんだ。人はいつか死ぬものだろ」


 ユリシーズは油をしみ込ませた布で、刀身を丁寧に拭き終えて、テーブルに置くと小さく息を吐いた。乾いた布で丁寧に手を拭い、両の手のひらをじっと見た。子どもの頃とは違う、剣だこと、ところどころに切り傷の痕がある、無骨な大人の男の手だ。


「……とっくに乗り越えられたと思ってたんだけどな。母親が死んだときのことを思い出すと、やっぱりダメだ。俺は弱い。もっと、強くなりたい」


 セラは思わずユリシーズの肩に手を伸ばした。その広い背中は、途方にくれた小さな子どもが、行き場を失って泣いているように見えた。


「そんなこと、ないよ。ユリシーズは私を助けてくれたじゃない。私は強い人だって知ってるから」


 振り向かずに、肩に置かれたセラのしっとりと白い手に、自分の手を重ねた。一瞬だけギュッと握ってから、そっと手を離す。


「ありがとう。セラにそう思ってもらえるなら、俺は強くなれる気がする」


「うん……」


「もう寝ろ。明日がきついぞ」


「そうするわ。おやすみなさい、ユリシーズ」


「おやすみ、セラ」


 セラに言われたとおり、ユリシーズは一度も振り返らなかったが、声は笑っていた。セラが一番いいなと思う、蒼い瞳を細めて笑う、あの顔をしているはずだ。部屋の入り口で振り向き、亜麻色の後ろ頭を見て、ふわりと笑う。「いい夢を」と声にしないで伝えると、静かに扉を閉めた。


 そして、どちらも別れは口にしなかった。




「リオンさん……何で部屋に入らないんですか」


 オルガは洗濯番に少なくない駄賃を渡して、セラのコルセを綺麗に洗濯して火熨しをかけてもらって、急いで戻ってきた。オルガが不在の間に戻ってきたらしいリオンが、なぜか部屋に入らず扉に寄りかかり、腕を組んで立っていた。


「おかえり。お取り込み中で、入りづらくってね」


 あははと困ったように笑う顔は、妙に嬉しそうだ。何か企んでいる気がして、オルガはじっとリオンの薄茶の瞳を食い入るように見つめた。


「うちの子は不埒な真似をするほど度胸がないから、安心していいよ」


「…………」


「視線がとっても痛いです、オルガちゃん」


「別れが辛くなるだけだと思う。とりあえず、中に入れてもらえませんか」


「そうだねぇ辛くなるだろうねぇ」


 リオンはうんうんと頷いて、オルガに同意しつつも、扉の前からは頑としてどかなかった。


「聞いてました?」


「あ、セラちゃんがお部屋に戻ったみたい」


「早くそこ、どいてください」


「はいはい」


 リオンが脇に避けると、オルガは素早く部屋へ入っていった。居間にいるユリシーズに目もくれず、左側の寝室のドアを潜り、しっかりと閉じた。


 その様に苦笑しながら、居間のテーブルでファルシオンを組み立てていると、リオンが穏やかに笑いながら近寄ってきた。


「話せた?」


「うん。妙な気を使うのはよせよ。オルガが迷惑してただろ」


「ハハハ。この間からずっと迷ってるみたいだけど、腹は決まったの?」


「決まるわけない。やるべきことをやるのが先だ」


「……もっと、我がままになっていいと思うよ、ユーリ」


「そういうわけには行かないだろ。俺も風呂に入って、もう寝るよ」


 手早く道具を片付けると、剣を鞘におさめて立ち上がった。リオンは「しょうがない子だなぁ」とぼやいていたが、これが性分なのだ。我がままになれといわれても、それは土台無理な話だ。今更生き方を変えられるわけがないし、ユリシーズ自身も変える気はないのだから。少なくとも、今までは。


「セラ、何か困ったことはあった?」


 ものいいたげなオルガの顔に、セラは思わず破顔した。いつまでたっても心配性で、大人になっても、いっつもセラのことばかり気にしている。


「ううん、ないよ。むしろすっきりしたくらい」


「そう、ならいいんだけど。ちゃんと薬も飲んだね。えらいえらい」


 まるで小さな子どもによくできました、とでも言うような言い回しに、セラは声を立てて笑った。私は幸せ者だと、じんわりと暖かな気持ちになる。心配してくれる友達がいて、親代わりの恩師がいて。まわりのみんなに守られている。それは、ひどく幸せなことのように思えた。


 さっき、剣だこのある固い手のひらが、ぎゅっとセラの手を握り締めたとき、すごく安心できた。初対面から思っていたが、何でかユリシーズの傍にいると安心できることが不思議だった。彼の手は優しくて、触れられることは、ちっともイヤじゃなかった。


 ユリシーズがどこかで会った気がするというのも、今じゃないどこかで、友達だったのかもしれない。もしかしたら、恋人同士だったのかも。自分の想像なのに、セラは胸のうちをくすぐられたような気がして、こちらに背を向けているオルガに知られないように、口元だけをほころばせた。


 まだ始まってもいない、セラの片想い。誰にも告げずに、そっと生まれたての柔い雛を抱くように、胸の中にしまっておくことにした。そして、心からの「ありがとう」と、笑って「さよなら」がいえますように、と自分自身に祈ってから、ゆっくりと瞳を閉じた。

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