第25話 渡し場駅の刻んだだけの和えもの
「次は、渡し場駅。渡し場駅です」
窓の外に、川があった。
正確には、川だったところだった。
水が、ほとんどない。
真ん中に細い筋が一本残っているだけで、あとは底が出ていた。
降りると、乾いた匂いがした。
土の匂いではない。
もっと薄くて、少し生臭いような、水が引いたあとの匂いだった。
ホームは川岸に沿って作られていた。
柵の向こうが、すぐ川底になっている。
ひび割れた泥が、板を並べたように割れて、端がめくれ上がっていた。
大きな岩がいくつか出ている。
岩には、横に線が入っていた。
高さの違う線が、何本も。
「あれは」
「水のあった高さだそうです」
チャイが言った。
いちばん上の線は、わたしの背より高かった。
いちばん下の線は、いまの水面のすぐ上にある。
「停まる時間は」
「今日は、うかがっておりません」
銀の人形は、ホームの端まで浮いていって、戻ってきた。
「何も、ないようです」
たしかに、何もなかった。
水位を測る筒もない。鐘もない。伸びてくるものもない。
風は動いていたが、それだけだった。
川底に、人が下りていた。
男の人だった。四十くらいだろうか。
いや、日に焼けているせいで、年は読みにくかった。
髪を短く刈って、袖をまくっている。
舟が、一つあった。
底が平らな、細長い舟だった。
川底の泥の上に、そのまま置いてある。水から出ているというより、置き去りになっているように見えた。
その人は、舟の縁に布をかけて、ぬぐっていた。
「食堂の者です」
声をかけると、その人は手を止めて、こちらを見上げた。
「お腹、空いていませんか」
少し、考えるふうだった。
「手前は、渡し守でございます」
それが、答えだった。
名前は、来なかった。
「……渡し守さん」
「はい」
「お腹は」
「減ってはおります」
その人は、布を畳んだ。
「ただ、手前の役割は、人を向こう岸へ運ぶことでして」
「はい」
「いま、渡す方がおられませんので」
だから食べる理由がない、という言い方だった。
わたしは、川底を見た。
真ん中の細い筋は、またぐのに苦労しない幅だった。
「あそこは」
「歩けます」
渡し守さんは、水のほうを見ずに答えた。
「膝までも来ません。子どもでも渡れます」
「いつから」
「去年の終わりごろから、そうなりました」
それから、少し足した。
「あと二年か、三年で、乾ききると言われております」
その人は、舟に上がった。
腰を下ろして、脇に置いてあった木の箱に手を伸ばす。
小さな箱だった。
蓋の真ん中に穴が開いている。銭を落とすための穴らしかった。
角が丸くなって、色が抜けていた。
渡し守さんは、その縁を親指でなぞった。
なぞって、離して、また、なぞった。
「代金はいただいていません」
「……いえ」
「作りましょうか」
渡し守さんは、舟の上で少し動いた。
「では、お願いいたします」
それから、言い足した。
「手前も、いちおう、まだ役に立っておりますので」
まだ、のところが、少し強かった。
厨房に戻った。
棚を見た。
鉄蕪。糸車駅の根菜。干した豆は、もう底が見える。
一座の塩。
砂漠の塩は、袋の底に少しだけ残っていた。
指でつまんで、それで終わるくらいだった。
満月市場駅で、バハルさんが分けてくれたものだ。
火を、見た。
かまどには、炭が入っている。
まだ使える。
でも、今日は入れなかった。
この駅は、乾いていた。
鉄蕪を出した。
皮をむいて、細く切る。
細く切ったものを、横にして、もう一度切る。
角のある小さな粒になった。
根菜も、同じ大きさにした。
刻んでいくと、まな板が湿ってきた。
切り口から、水が出ている。
この蕪は、水を持っている。
棚の奥から、実を出した。
色の濃い実だ。
落葉駅の水路の縁で採ったものが、まだ残っていた。
しわが寄っている。でも、乾ききってはいなかった。
指でつまむと、皮が破れた。
中から、濃い色の汁が出て、指の腹に広がった。
そのまま、粒の上に落とした。
砂漠の塩を、指でつまんだ。
袋の底が、指に当たった。
それで、なくなった。
空の袋を、畳んで置いた。
混ぜた。
スプーンの背で押さずに、下から返すようにした。
押すと、水が出すぎる。
色が、少しずつ回っていく。
白かった粒の縁が、うすい赤に染まった。
染まりきらないうちに、手を止めた。
器に盛って、外へ出た。
「これは」
「刻んで、和えました」
「火は」
「今日は、使いませんでした」
渡し守さんは、器を受け取った。
受け取ったとき、手が少し上に浮いた。
それから、器を見た。
スプーンですくって、口に入れた。
かんだ。
かむ音が、はっきり聞こえた。
「……かたい」
「はい」
「いや」
もうひと口。
「かたいのではなく、これは」
言葉を探しているようだった。
「――生きているほうの、かたさですな」
それから、少し早く食べた。
「水を、足しておられませんね」
「はい」
「蕪から出たぶんだけで」
「はい」
渡し守さんは、器の底を見た。
汁が、少しだけたまっていた。
うすい赤だった。
「手前どもの川も」
渡し守さんは、器を持ち直した。
「もとは、こういう色でした」
わたしは、川底のほうを見た。
「上のほうの土が、赤いのでございます。増水のときは、川ぜんたいが濁って、赤くなりました」
「はい」
「あのころは、みな怖がって、手前の舟に乗りました」
器を持つ手が、止まった。
「怖い川でないと、渡し守は要らないのでございます」
それだけ言って、また食べた。
風が、川底を渡っていった。
ひび割れた泥の、めくれた端が、かさ、と鳴った。
「役割が、なくなります」
渡し守さんは、事務的な声で言った。
「あと二年か、三年で。それは、決まっております」
「はい」
「そのあとのことは、まだ決めておりません」
わたしは、うなずかなかった。
うなずいたら、次を言わなくなる気がした。
「決めても、意味がないと申しますか」
箱の縁を、また親指がなぞった。
「渡し守でなくなったあとの手前が、何であるのか、思いつきませんで」
悲しんでいる声ではなかった。
困ってもいなかった。
ただ、書いてあることを読み上げるような声だった。
言葉は、浮かんだ。
役に立たなくても、と言いかけて、やめた。
この人は、それを何度も自分に言って、効かなかった人だと思った。
思っただけで、確かめたわけではない。
チャイが、車内から出てきた。
盆の上に、何か載せていた。
小さくて、灰色のものだった。
「これは」
「棚の隅にございました」
羽根だった。
風待ち駅で、シリルさんが置いていったものだ。
いつのまにか奥から出てきていて、それきり、そこにある。
「持ってきたの」
「はい」
チャイは、盆を少し傾けた。
羽根が、動いた。
軽いので、風の残りだけで揺れる。
「揺れます」
「うん」
「ここは、風が通りますので」
銀の人形は、それを見ていた。
羽根が止まっても、目を離さなかった。
「……わたくしは、これが、好きです」
――え。
声には、出さなかった。
チャイは、こちらを見なかった。
羽根を見たままだった。
「軽いものが、揺れているのを見るのが、好きです」
説明も、続きもなかった。
渡し守さんが、顔を上げていた。
器を持ったまま、盆のほうを見ている。
羽根は、まだ揺れていた。
風が弱くなると止まり、また来ると、少し動いた。
その人は、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと視線を落として、自分の手を見た。
持ち上げるでもなく、開くでもなく、ただ膝の上のそれを見ていた。
わたしも、言わなかった。
チャイは、盆を持ったまま浮いていた。
風が、また来た。
羽根が、揺れた。
渡し守さんは、残りを食べた。
器の底の汁も、飲んだ。
「ごちそうさま」
器を返す手つきは、きちんとしていた。
両手で、縁を持たずに、底を持って返した。
「これを」
その人は、舟の下から、何か取り出した。
平たい石だった。
手のひらより少し大きく、片面が滑らかになっている。
「水が引いてから、出てきたものでして」
「はい」
「火にかけますと、しばらく熱を持ちます。鍋の下に敷くと、冷めにくうございます」
受け取ると、思ったより重かった。
「ありがとうございます」
「川底には、まだ出てまいります」
その人は、川のほうを見た。
「毎日、何か出てきます」
列車が、動き出した。
合図はなかった。
ただ、車体が揺れて、それで分かった。
渡し守さんは、舟の縁に座ったままだった。
立ち上がりも、手を挙げもしなかった。
箱の縁を、まだなぞっていた。
窓の外を、川底が流れていった。
岩の横線が、遠ざかっていく。
いちばん上の線は、ずっと上のほうにあった。
「チャイ」
「はい」
「羽根、持ってきたんだね」
「はい」
銀の人形は、盆の上のそれを見た。
「いけませんでしたか」
「ううん」
わたしは、首を振った。
「聞いたの、はじめてだった」
「何をでございましょう」
「あなたが、好きって言うの」
銀の指が、盆の縁に触れた。
「……そうでございますか」
「うん」
「わたくしにも、はじめてでございました」
それから、こう続けた。
「言ってみますと、思っていたより、短い言葉でした」
棚に、石を置いた。
冷たかった。
片面だけが、なでたように滑らかだった。
水が、長いこと当たっていた面だと思った。
空になった塩の袋を、たたんで隅に寄せた。
砂漠の塩は、これで終わりだった。
あの夜に積んでもらったものが、いま、なくなった。
羽根は、棚の隅に戻した。
鍋の湯気は、今日は出ていない。
それでも、窓から入る風で、少し揺れていた。
わたしは、しばらくそれを見ていた。
いつか何かに使う日のことは、もう考えなかった。




