第9話:捕食の聖域
第9話:捕食の聖域
1. 蹂躙される悪魔
10メートルの巨躯を誇るアークエンジェルが動いた。その動きは、神々しい神話のワンシーンなどではなく、飢えた猛獣そのものだった。
「ガ、アアア……ッ!?」
黒い異形へと変貌していた元自衛官の悪魔が、絶叫を上げる。アークエンジェルはその巨大な手で悪魔の胴体を無造作に掴み上げると、抵抗する間も与えず、その頭部を一撃で噛み砕いた。
鋼鉄のような皮膚も、ねじくれた角も、圧倒的な「神威」の前では熟しすぎた果実のように脆かった。
残された7人の天使たちも、主に従うように黒い死体に群がった。
彼らは美しい翼を血に染めながら、投げ出された悪魔の肉体を、慈悲のかけらもなく貪り、食らい尽くしていく。
かつて人間だったものの面影は、音を立てて咀嚼され、跡形もなく消え去っていった。
2. 震える背中
「見ちゃだめだ、結衣……!」
湊は、崩れたコンクリートの壁の裏に結衣を押し込み、彼女の瞳を自分の手で覆い隠した。
壁の向こう側から聞こえてくるのは、肉が裂ける音と、天使たちが発する理解不能な歓喜の嬌声。
湊自身の指先も、かつてないほど激しく震えていた。
(……なんだよ、これ。あんなの、俺が勝てる相手じゃない)
ダンクシュートを決め、パルクールで校舎を駆け上がっていた時の万能感は、もう微塵も残っていない。
自衛隊員を、そして「悪魔」を、ただの「餌」として処理したあの白い怪物たち。もし彼らがこちらを向けば、自分も結衣も、一瞬で同じ運命を辿るだろう。
湊は呼吸を殺し、ただ時が過ぎるのを待った。冷たいコンクリートの感触だけが、かろうじて彼を現実に繋ぎ止めていた。
3. 立ち去る光
やがて、凄惨な音が止んだ。
湊が恐る恐る壁の隙間から覗くと、そこには何も残っていなかった。
悪魔の血痕さえも、光の粒子に浄化されたかのように消え失せている。
17人の天使を統率するアークエンジェルは、一度だけ湊たちが隠れているコンクリートの塊に、その無機質な視線を向けた。
殺気、ではない。それは、まだ熟していない果実を見逃すかのような、傲慢な無関心だった。
大天使と7人の天使たちは、再び白銀の閃光を放ちながら垂直に上昇し、夜空の雲の向こうへと消えていった。
「……行ったのか?」
静寂が戻った埠頭に、湊の荒い吐息だけが響く。助かったという安堵よりも、理解不能な存在への圧倒的な恐怖が、鉛のように胃の底に溜まっていた。
その時。
絶望的な沈黙を破り、湊のポケットの中でスマートフォンが震えた。
――匿名のチャット。
湊が震える指で画面を点灯させると、そこには一言だけ、新たなメッセージが届いていた。
『――「食事時」は終わった。だが、お前がデザートに選ばれなかったのは、単に運が良かったからじゃない』
湊の顔から血の気が引いていく。
あの地獄のような光景すらも、この送り主にとっては想定内の出来事に過ぎなかったのだ。




